第一章 欠けた頁の家族
国立古文書館の地下深く、空調の低い唸りだけが響く静寂のなかで、柏木聡は息を詰めていた。彼の目の前には、千年の時を経て炭化した、脆い紙片が横たわっている。かつては、ある村の営みを記した戸籍だったものだ。彼の仕事は「歴史修復師」。失われた歴史の断片に触れ、その空白を埋めること。
聡の指先が、焼けて黒ずんだ紙の縁にそっと触れる。目を閉じると、古紙の乾いた匂いとインクのかすかな香りが、意識の扉を開く鍵となる。世界が遠のき、彼の精神は時間の川を遡っていく。これは柏木家に代々伝わる「共鳴」と呼ばれる能力。歴史の欠片に残された微かな痕跡と共鳴し、失われた情景を幻視する力だ。
やがて、彼の脳裏に像が結ばれる。茅葺屋根の家、土間の竈から立ち上る煙、笑いさざめく家族の姿。父親、母親、そして、庭先の桜の木の下で鞠をつく幼い娘。聡は、その家族の温かな繋がりを、まるで自分の記憶のように鮮明に感じ取った。彼はゆっくりと目を開き、手に持った特殊なペンを走らせる。修復用の和紙の上に、幻視で見た家族の名前――藤兵衛、志乃、そして娘の「桜」という名を、古文書と同じ筆致で書き込んでいく。
完璧な仕事だった。これまでも、幾多の歴史の空白をこうして埋めてきた。誰も知ることのなかった人々の名前、忘れ去られた出来事。それらに再び光を当てることに、聡は神聖な使命感と誇りを抱いていた。
だが、最近、その完璧さに奇妙な違和感を覚え始めていた。自分の「修復」した歴史は、あまりにも物語のように整いすぎているのではないか。悲劇的な事件の記録を修復すれば、そこには必ず誰かの自己犠牲の輝きがあり、失われた恋人たちの記録を辿れば、来世での再会を誓う美しい別れが浮かび上がる。歴史とは、もっと混沌とし、理不尽なものではなかったか。
特に、今回の「桜」という娘の幻視は、妙に彼の心を捉えて離さなかった。陽光の中で輝く黒髪、屈託のない笑顔。それはまるで、悲劇の多いこの時代の記録の中で、一点だけ許された幸福の象徴のようだった。聡は修復を終えた戸籍をケースに納めながら、胸の奥に燻る小さな棘のような不安から、目を逸らした。真実を見ているはずだ。自分は、歴史の忠実な僕なのだから。
第二章 木櫛が囁く声
数週間後、聡のもとに新たな依頼が舞い込んだ。先日修復した戸籍と同じ村の遺跡から出土したという、一本の木櫛だった。半分に折れ、使い込まれて滑らかになった表面には、桜の花びらを模した素朴な彫刻が施されている。依頼主の学芸員は、持ち主を特定できれば、当時の女性の生活を知る貴重な手がかりになると興奮気味に語った。
聡は、白手袋をはめた手で、その木櫛を慎重に持ち上げた。ひんやりとした木の感触が指先に伝わる。彼が再び意識を集中させると、木櫛の記憶が奔流となって流れ込んできた。
しかし、そこに広がっていた光景は、聡の予想を根底から覆すものだった。
彼が見たのは、陽光あふれる庭ではない。痩せこけた土地、干上がった田畑、そして絶望に沈む村人たちの姿だった。厳しい日照りが続き、村は深刻な飢饉に見舞われていたのだ。幻視の中心には、あの少女がいた。桜だ。しかし、彼女の顔に、以前見たような屈託のない笑顔はなかった。頬はこけ、瞳からは光が消えている。
次の瞬間、情景は薄暗い土間の家の中に移る。病に伏せる母親と、ただ咳き込むことしかできない幼い弟。父親は、力なく壁に寄りかかっている。そして桜は、固く握りしめた木櫛を胸に当て、震える声で言った。「私が行きます。町の役人様のところへ行けば、家族が食べるだけのお米をくださると…」
それは、自らの身を売るという、悲痛な決意の言葉だった。木櫛は、その瞬間の彼女の絶望、家族を救いたいという一心、そして己の運命への怖れを、千年の時を超えて聡に伝えてきた。汗と涙の塩辛い味、掌に食い込む櫛の硬い感触、そして、もう二度と家族と笑い合うことはないという、魂が引き裂かれるような痛み。
聡は、はっと息を呑んで幻視から引き戻された。心臓が激しく波打ち、冷たい汗が背中を伝う。なんだ、これは。戸籍で見た、あの幸福な家族の姿はどこにもない。そこにあったのは、飢えと貧困に喘ぎ、ぎりぎりの選択を迫られる、救いのない現実だけだった。
二つの「歴史」が、彼の頭の中で激しく衝突する。一つは、彼が「修復」した、温かく美しい家族の物語。もう一つは、木櫛が囁く、残酷で悲しい真実。どちらが本当の歴史なのだ?自分の能力は、一体何を見ているというのか。これまで築き上げてきた自信と誇りが、ガラガラと音を立てて崩れ始めていた。
第三章 創造主の系譜
混乱の極みに達した聡は、答えを求めて、実家の書庫の最も奥にある、一族の長しか入ることを許されない「禁書庫」に足を踏み入れた。埃と古い革の匂いが立ち込める中、彼は蝋燭の灯りを頼りに、分厚い古文書をめくっていった。そこに記されていたのは、柏木家に伝わる「共鳴」能力の、おぞましいまでの真実だった。
『我らが力は、過去を視るにあらず。空白を識る力なり』
古文書の一節が、聡の目に突き刺さった。読み進めるうちに、血の気が引いていくのがわかった。
柏木家の能力は、歴史の真実を「再現」するものではなかった。それは、記録が失われ、誰も知ることのできない歴史の「空白」を感知し、そこに、後世の人間が最も納得し、心を慰められる「物語」を注入し、定着させるための力だったのだ。彼らは歴史の修復師などではなかった。歴史の空白を都合の良い物語で埋める、「偽史の創造主」だったのである。
聡が幻視した、あの幸福な家族の姿。それは、飢饉という悲劇的な背景を知らない聡の無意識が、焼失した戸籍という「空白」を埋めるために創り出した、最も美しく、最も救いのある「偽りの物語」だったのだ。そして、木櫛が見せた悲劇こそが、持ち主の強い想いとして刻まれた、断片的ながらも揺るぎない「真実」の記憶だったのである。
聡は、書庫の床にへたり込んだ。全身から力が抜けていく。これまで自分がやってきたことは何だったのか。良かれと思って、誇りを持って修復してきた数々の歴史。それらはすべて、自分が創り出した偽りの物語だったのか。真実を追求していると信じながら、実は誰よりも雄弁に嘘をつき、真実を永遠に葬り去ってきたのだ。
名もなき兵士の勇敢な最期も、悲恋の姫君の純粋な想いも、すべては自分が創り出した感傷的なフィクションだったのかもしれない。歴史への冒涜。真実への裏切り。自己嫌悪と絶望が、暗い波となって聡の心を飲み込んでいった。彼は、ただただ、暗闇の中で身を丸めることしかできなかった。
第四章 選ばれなかった物語
数日後、憔悴しきった聡は、再びあの古文書館の地下室にいた。目の前には、彼が「修復」した戸籍と、あの木櫛が並べて置かれている。彼には、最後の仕事が残されていた。戸籍の修復記録を最終的に確定させ、国の正式なアーカイブに登録すること。
彼は今、岐路に立たされていた。
彼が最初に創り出した、桜という少女の幸福な物語を、そのまま「歴史の真実」として定着させることもできる。そうすれば、千年の時を超えて、名もなき家族にささやかな救いを与えることができるかもしれない。記録の上だけでも、彼らは幸せでいられる。
あるいは、木櫛が告げた残酷な真実を記録することもできる。飢饉、貧困、そして家族のために身を売った少女の悲劇。それはあまりに救いがなく、ただ痛ましいだけの記録となるだろう。だが、それこそが、彼女が生きた紛れもない現実の一部なのだ。
聡は、長い時間、二つの遺物を前にして動けずにいた。真実の残酷さと、物語がもたらす救い。その間で、彼の心は引き裂かれそうだった。彼は一体、歴史に対して、そして、かつて生きていた名もなき人々に対して、どのような責任を負うべきなのだろうか。
やがて、彼は静かに顔を上げた。その瞳には、もはや以前のような絶対的な自信はなく、深い苦悩と、そしてある種の覚悟が宿っていた。彼はそっとペンを執ると、記録用紙に向き合った。インクが紙に染み込んでいく微かな音が、静寂な部屋に響き渡った。
*
数年の歳月が流れた。聡は、国立古文書館を辞め、今は海辺の小さな町の郷土資料館で働いている。日に焼けた子供たちが、彼の周りに集まっていた。
「昔、この浜にはね、記録には残っていないけど、きっとたくさんの人たちが暮らしていたんだ。どんな歌を歌って、どんなことで笑い合ったんだろうね」
聡は、ガラスケースに飾られた、どこにでもありそうな縄文土器の欠片を指さしながら、穏やかに語りかける。彼の言葉は、断定的な事実ではなく、常に問いかけだった。歴史とは、確定された一つの事実ではなく、無数の可能性を秘めた、失われた物語の集合体なのだと、子供たちに教えているようだった。
あの日、彼が戸籍に何と書き記したのか、それを知る者はいない。ただ、彼の表情には、真実と物語の狭間で苦しみ抜いた者だけが持つ、深い優しさと、どこか哀しみを湛えた諦観が浮かんでいた。彼はもはや、歴史の創造主ではない。失われた声に耳を澄まし、その存在を静かに想像する、一人の語り部にすぎなかった。
空は高く澄み渡り、潮風が、忘れ去られた無数の物語を運んでくるかのように、彼の頬を優しく撫でていった。