クロノスの肌触り
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クロノスの肌触り

第一章 肌に宿る残響

カイの肌は、沈黙した歴史の写本だった。

右腕には、百年前に共和国を樹立した革命の、炎と煙が渦巻くタトゥーが刻まれている。指先でなぞれば、群衆の鬨の声と、石畳に響く軍靴の音が鼓膜を震わせる。左肩には、大飢饉の時代の絶望が、枯れた麦の穂として描かれている。そこは触れるたびに、腹の底が冷えるような飢えと、乾いた土の匂いが蘇る。

これは呪いであり、天啓だった。カイは歩くアーカイブ、生きた歴史書として、人々から畏怖され、そして忌避されていた。街の市場を通り抜ける。フードを目深に被り、誰とも視線を合わせないように。だが、空気中に漂う煌めくエネルギー層――人々が『過去の残響』と呼ぶ歴史の粒子が、否応なく肌に触れる。

「見て、〝刻まれ人〟よ」

囁き声が背後を撫でる。カイは足を速めた。

この世界では、歴史は死んでいない。それは空気中に遍在し、特に重要な出来事が起こった場所では、金色の霧のように濃密に漂う。常人はそれを吸い込むと、束の間のめまいと共に、過去の断片的な情景を垣間見る。だがカイの体は、その残響を濾過することなく全身で受け止め、痛みと感覚を伴う複雑なタトゥーとして皮膚に定着させてしまうのだ。

だからカイは、クロノロジウムによって『編集』され、清浄に保たれた中央区画から離れられない。歴史の潮流が意図的に希薄にされた場所。しかし、その区画の果てには、誰も近づこうとしない絶対的な虚無の領域があった。『枯れ草地』。そこでは過去の残響が一切感じられず、歴史という名の光が完全に消失している。人々はそこを呪われた場所だと噂するが、カイにとっては、唯一痛みのない安息の地のはずだった。

その日までは。

第二章 枯れ草の呼び声

異変は、左の鎖骨の下から始まった。

夜、眠りにつこうとしたカイの体を、灼けるような痛みが貫いた。衣服をめくると、見たこともない紋様が皮膚の下を走っていた。それは銀色の光を放つ、幾何学的な線。まるで回路図のようにも、未知の星座のようにも見えた。これまでカイの体に現れたどの歴史とも違う、有機的でありながら冷徹な美しさを湛えたタトゥーだった。

それに触れた瞬間、カイの世界は反転した。

ガラスと光で編まれた摩天楼が空を突き、重力を無視した乗り物が静かにその間を縫っていく。耳に響くのは、鳥のさえずりのように滑らかな、しかし全く理解できない言語の響き。人々の纏う衣服は光そのもので、彼らの瞳には、カイが知るどんな賢者よりも深い叡智が宿っていた。

だが、その壮麗な光景の奥底に、言いようのない『喪失』の予感が漂っていた。あまりに完璧な世界の、完璧が故の脆さ。フラッシュバックから意識が戻った時、カイは冷たい汗に濡れ、激しく喘いでいた。あのタトゥーは、公式の歴史には存在しない。あれは、あの絶対的な虚無――『枯れ草地』から吹いてきた風の痕跡だった。

そして、クロノロジウムの影が、カイの扉を叩いたのは、その三日後のことだった。

第三章 時空書士の影

クロノロジウムの本部は、時そのものが凍りついたかのような静寂に包まれていた。感情を排した純白の壁と、規則正しく配置された光。カイは、無表情な時空書士たちに連れられ、その中心へと導かれた。

待っていたのは、時空書士の長であるエルラだった。彼女は初老の女性で、その瞳は濾過された歴史のように澄み切っていたが、その底には氷河のような冷たさが横たわっていた。

「あなたの体は、危険な汚染源となりつつある」

エルラの声は、凪いだ水面のように静かだった。彼女はカイの鎖骨の下に現れた新しいタトゥーを一瞥し、眉一つ動かさない。

「記録にない歴史。それは秩序を乱す毒だ。我々はそれを浄化する」

時空書士たちが、カイを取り囲んだ。彼らの手にする器具が、淡い光を放つ。歴史の潮流を操作し、不要な残響を消し去るための道具だ。だが、その光がカイの肌に照射された瞬間、銀色のタトゥーは一層強く輝き、器具を押し返した。時空書士の一人が驚愕の声を上げる。クロノロジウムの技術が、通用しない。

エルラの瞳に、初めて微かな動揺が走った。彼女はしばらく黙考した後、時空書士たちを下がらせた。

「……ついてきなさい」

そう言って彼女がカイを導いたのは、拷問室ではなく、この施設の最も奥深く、何世紀もの間、誰の目にも触れてこなかったはずの、封印された記録庫だった。

第四章 黒曜石の沈黙

記録庫の空気は、古紙の匂いと、忘れ去られた時間の重みで満ちていた。エルラは一つの厳重な保管容器を開けると、中から手のひらに収まるほどの、滑らかな黒い石を取り出した。それは夜空を凝縮したような、吸い込まれそうなほどの深い黒。

「記憶の破片だ」と、エルラは言った。「それに触れてみなさい」

カイは恐る恐る、その黒曜石のような石に指先を触れさせた。その瞬間、信じられないことが起こった。鎖骨の下で絶えず疼いていた灼熱の痛みが、すっと引いていく。まるで熱が石に吸い取られるように。そして、銀色のタトゥーの輝きが和らぎ、その一部が陽炎のように揺らめいて、石の中へと流れ込んでいった。

痛みからの解放に安堵したのも束の間、カイの脳裏に、再びあのビジョンが流れ込んできた。だが今度は、以前のような断片的な光景ではなかった。それは、記憶の破片を通して濾過された、より鮮明な『感情』の奔流だった。

ガラスの都市で、人々が空を見上げている。彼らの顔にあるのは、栄華を誇る者の傲慢ではない。深い、深い悲しみだ。彼らは未来を見ていた。自らの知識が、その探究心が、やがて星そのものを焼き尽くす未来を。愛する世界を、自分たちの手で滅ぼしてしまうという、避けられない結末を。

彼らの選択は、一つしかなかった。

第五章 大いなる消去の真実

「彼らは、歴史から自らを消し去った」

エルラの静かな声が、カイを現実へと引き戻した。彼女の瞳には、もはや冷たさはなく、深い敬意と悲しみが湛えられていた。

「クロノロジウムは、歴史を検閲するためにあるのではない。我々は、彼らが遺した『番人』なのだよ」

語られた真実は、カイの信じてきた世界を根底から覆した。古代文明は、悪意によって消されたのではなかった。彼らは過去だけでなく、あらゆる『可能性のある未来』を垣間見る能力を持っていた。そして、その知識の果てに、自分たちがもたらす地球の完全な消滅を予見した。

「彼らの自己犠牲は、人類への究極の愛だった」とエルラは続けた。「自らが愛した世界を、自らの危険な知識から守るために、彼らは『大いなる消去』を実行した。歴史の潮流から、その存在の一切を抹消したのだ」

『枯れ草地』は検閲の跡ではない。それは、人類が二度と足を踏み入れてはならない道筋を封印した、聖なる空虚。そしてカイの体に現れたタトゥーは、忘れられた過去の遺物ではない。それは、人類の遺伝子に深く刻み込まれた、未来への『警告』。再び同じ道を辿ろうとした時に発現する、魂の警報だったのだ。

「お前の役割は、過去を回復させることではない」

エルラはカイの目を真っ直ぐに見据えた。

「それがなぜ埋められたのかを理解し、より大きな善のために、それが埋もれたままであることを確かなものとすること。その危険な真実を、たった一人で背負うことだ」

第六章 沈黙の継承者

カイは、クロノロジウムから解放された。

再び街の喧騒に戻った時、世界は以前と同じように見えた。人々は煌めく過去の残響に時折触れては、束の間の感傷に浸っている。カイに向ける畏怖と好奇の視線も変わらない。

だが、カイの内面は、もはや以前とは全く違っていた。

肌に刻まれた無数の歴史は、今や彼にとって、守るべき日常の重みそのものだった。そして鎖骨の下で静かに光る銀色のタトゥーは、呪いの烙印ではなく、聖なる責務の証となった。痛みは消えない。だが、その痛みの意味を知った今、それは耐え難い苦痛ではなく、誇り高い孤独の証だった。

カイは懐の『記憶の破片』を握りしめた。ひんやりとした石の感触が、疼く肌をわずかに鎮めてくれる。これは、あの偉大な先人たちが遺してくれた、孤独な番人のための、ささやかな慰めなのだろう。

夕暮れの空を見上げる。歴史の層が、金色の川のように緩やかに流れている。その遥か向こうに広がる、目には見えない『枯れ草地』の絶対的な空虚に向かって、カイは心の中で静かに誓った。

この沈黙は、私が守る。この世界の何気ない日常が、破滅の叡智に触れることなく続いていくように。

カイはフードを再び深く被り、雑踏の中へと歩き出した。生きた歴史書として、そして、決して語られてはならない未来への、ただ一人の番人として。その重く、気高い沈黙を、その身に刻み込みながら。

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