硝子の箱庭と、砕かれた明日
第一章 沈黙する記憶、叫ぶ遺物
鼓膜の奥で、何かが濡れた音を立てて千切れた気がした。
太平洋の荒波の下、水深六千メートルに沈む「墓標」の最深部。織田悠真は、自らの呼吸音が過剰なほど大きく響く潜水服の中で、血の混じった唾を吐き捨てた。
目の前の祭壇には、彼が過去三年、自分の寿命と引き換えに蒐集してきた八つの石版が嵌め込まれている。そして今、震える右手が掴んでいるのが、最後のピース――第九の石版だった。
指先の感覚はとうにない。皮膚が炭化し、神経が焼き切れるような幻痛だけが、脳髄を直接ヤスリで削るように苛む。
「……食い足りないのか、化け物め」
石版は、悠真の生体電流を貪りながら、冒涜的なほど鮮やかな青色に脈動している。
視界の端が黒く焦げ付いていた。限界だ。だが、ここで引くわけにはいかない。
彼は胸ポケットの感触を確かめようとした。分厚い潜水服越しでは何も分からない。だが、そこには一枚の写真があるはずだった。両親と、幼い自分の写真。
以前、工房でその写真を指でなぞった時の感触を思い出す。
笑顔の父と母。だが、その表面は常に絶対零度の氷のように冷たかった。どれだけ強く押し当てても、体温が伝わらない。思い出そうとすればするほど、彼らの顔には白いノイズが走り、記憶という名の色彩が剥落していく。
――なぜだ。なぜ、俺は一番愛した人たちの体温を思い出せない?
その「虚無」の正体を突き止めるために、悠真はこの地獄の底まで降りてきた。
彼は石版を握りしめ、祭壇へ歩を進めた。
一歩踏み出すたびに、血管の中で沸騰した血液が軋む音がする。
石版と祭壇の窪みが触れ合った瞬間、物理的な衝撃波が悠真の視神経を焼き尽くした。
第二章 重なり合う二つの東京
世界が、反転する。
海水の重圧も、腐ったオイルの匂いも消え失せた。
悠真が立っていたのは、見慣れた渋谷のスクランブル交差点――ではなかった。
そこは、二つの世界が無理やり縫い合わされた、狂気のコラージュだった。
アスファルトの大地を突き破り、白亜の巨塔が天を穿つ。その塔の表面には、人間の臓器を思わせる脈打つパイプが張り巡らされ、周囲のビル群から「何か」を吸い上げていた。
人々は動かない。否、動けないのだ。
通行人の体は半透明に透け、その輪郭がノイズのように明滅している。彼らの足元から伸びる影が、白亜の塔へと吸い込まれていく。
鼻をつくのは、強烈なオゾンの臭いと、焦げたタンパク質の悪臭。
『……リソース不足ヲ検知。歴史補正プロセス、収奪フェーズへ移行』
頭蓋骨の内側に、数億の虫が這い回るような不快な羽音が響く。
悠真は膝をつき、激しい嘔吐感に胃の中身をぶちまけた。だが、吐瀉物は地面に落ちる前にデジタル信号となって霧散した。
幻視(ビジョン)が、脳をレイプするように情報をねじ込んでくる。
かつての栄華。高度な文明。そして、彼らが犯した「星殺し」。
資源を食らい尽くし、環境を壊死させた彼ら「先住者」たちが選んだのは、星からの脱出ではなく、時間への寄生だった。
目の前で、女子高生が一人、塔の光に飲み込まれた。
彼女の存在が粒子となって分解され、塔のエネルギーへと還元される。
悲鳴はない。痛みもない。ただ、最初からいなかったかのように「削除」された。
悠真は理解した。理解させられた。
この美しい東京は、彼らが過去へ遡り、自分たちの生存圏を確保するために作り替えた「箱庭」だ。不都合な破滅を回避するために、歴史という名のプログラムコードを書き換え、人類を演算リソースとして飼育しているに過ぎない。
ドクン、と心臓が早鐘を打つ。
胸ポケットの写真が、焼けるように熱い。
あの、氷のように冷たかった写真が、今は高熱を発している。
――そうか。
悠真の目から、血の涙が伝った。
両親の記憶に温度がなかった理由。それは、彼らが「削除」された存在だったからだ。
歴史の修正プログラムにおいて、不整合を起こしたデータとして消去され、悠真の記憶の中にだけ残された「残骸」。だから、どれだけ触れても温もりを感じるはずがなかった。彼らは、この偽りの世界においてすら、幽霊未満の記号だったのだ。
「……ふざける、な」
悠真の喉から、獣のような唸り声が漏れた。
愛も、悲しみも、すべては彼らの計算式の一部。
そんな冒涜を、許してなるものか。
第三章 代償という名の鍵
意識が海底遺跡へと引き戻される。
祭壇から立ち上る光の柱の中に、それはいた。
人の形を模しているが、その肌は陶器のように滑らかで、瞳には星の運行のような冷徹な光が宿っている。アトランティスの中枢管理機構。
『個体名オダ・ユウマ。適合率99%。貴様を次期管理デバイスとして承認する』
声ではない。空間そのものが振動し、意味を強制してくる。
それは神の如き傲慢さで、悠真を見下ろしていた。人間を、対等な知的生命体としてなど見ていない。ただの交換可能な部品、あるいはバグの修正パッチとしてしか認識していない眼差しだ。
『現在の歴史レイヤーは崩壊寸前だ。第九の石版を用い、システムを再起動せよ。不確定要素を排除した、完璧な楽園を再定義する』
「……楽園、だと?」
悠真は血反吐を吐きながら、よろめく足で祭壇にしがみついた。
全身の毛細血管が破裂し、皮膚の下で赤黒い痣となって広がる。爪の間から血が噴き出す。
再起動すれば、両親も「生き返る」のかもしれない。綺麗に修正された、温かいデータとして。
だが、それは偽物だ。
痛みを感じない幸福。喪失を知らない人生。
そんなものは、家畜の見る夢に過ぎない。
『抵抗は非論理的だ。貴様の苦痛も、憎悪も、すべて演算の範囲内。さあ、鍵を回せ』
「俺たちを……数式で語るなッ!」
悠真は咆哮した。
彼は石版を祭壇に押し込むと同時に、自らの精神回路を無理やり「逆流」させた。
石版が求めているのは生体エネルギーだ。ならば、くれてやる。
ただし、再起動のためではない。この腐ったシステムを焼き切るための過負荷(オーバーロード)として。
バチバチと、脳髄がショートする音が聞こえた。
視界が白濁し、記憶が走馬灯のように溶けていく。
右腕が炭化して崩れ落ちる感覚があった。
激痛。それを通り越した、魂が削り取られる絶対的な恐怖。
だが、悠真は笑った。
この痛みこそが、俺だ。
管理された幸福の中で麻痺していた俺たちが、唯一取り戻せる「現実」の手触りだ。
『警告。警告。想定外の変数を検知。システム、論理崩壊を開始――』
管理者の陶器の顔に、初めて亀裂が走った。
無機質な瞳が、恐怖に似た揺らぎを見せる。
悠真は残った左手で、砕け散る寸前の石版をさらに深くねじ込んだ。
「これが、人間の……『意地』だぁぁぁッ!!」
最終章 夜明けの灰色
静寂が、世界を包んでいた。
悠真が目を開けた時、そこは揺れ動く救命ポッドの中だった。
計器類は死んでいる。窓の外に見えるのは、どこまでも広がる鉛色の海。
彼は体を起こそうとして、激痛に顔を歪めた。
右腕は動かない。神経が焼き切れ、ただの肉の重りとしてぶら下がっている。
だが、生きている。心臓が、泥臭く、強く脈打っていた。
悠真は這うようにして舷窓に顔を近づけた。
空を見て、息を呑む。
かつてのような、絵の具で塗りつぶしたような嘘くさい青空は、もうどこにもなかった。
垂れ込める分厚い雲。その隙間から覗くのは、汚れた灰色の大気だ。
地平線の彼方には、蜃気楼のように揺らぐ廃墟のシルエットが見える。
保護膜(シールド)は消えた。
世界は、ありのままの姿――資源が枯渇し、環境が汚染され、傷だらけになった「現実」を晒していた。
「……酷い眺めだ」
掠れた声で呟く。喉が焼け付くように痛い。
これからは、この過酷な世界で生きていかなければならない。
魔法のような技術も、都合よく歴史を巻き戻す神もいない。
飢えが、寒さが、病が、容赦なく襲いかかってくるだろう。
それでも。
悠真は、左手で胸ポケットを探った。
奇跡的に焼け残った写真を取り出す。
指先が震えた。
写真の中の両親は、もう笑っていなかった。インクが滲み、顔の判別もつかないほど汚れている。
だが、その紙片に触れた瞬間、胸の奥底から熱い塊がこみ上げてきた。
悲しい。
どうしようもなく、寂しい。
二度と会えないという事実が、鋭利な刃物となって心臓を抉る。
その痛みは、以前の「虚無」とは比べ物にならないほど鮮烈で、そして残酷だった。
涙が、汚れた写真の上に落ちた。
ポタリ、ポタリと落ちるたびに、悠真の肩は震え、嗚咽が狭いポッド内に響いた。
これこそが、彼が取り戻したかったもの。
冷たい虚無ではなく、温かい血の通った「喪失」。
痛むということは、そこに確かに愛があったという証明なのだから。
「……あぁ、やっと……ちゃんとお別れができる」
悠真は写真を胸に抱きしめ、クシャクシャになった顔で、灰色の空を見上げた。
雲の切れ間から、弱々しい太陽の光が差し込んでいる。
それは決して美しくはない。頼りなく、薄汚れた光だ。
だがそれは、誰に与えられたものでもない、人類がその手で掴み取った「最初の明日」だった。
硝子の箱庭は砕け散った。
傷だらけの荒野へ、悠真は一歩、踏み出す準備を始めた。