社畜ダンジョン・リノベーション
第一章 午前零時のタイムカード
眼球の裏側を、古びた蛍光灯のフリッカー現象がヤスリのように削っていく。
午前二時。鼓膜にへばりつくのは、寿命を迎えたサーバーファンの悲鳴と、隣の席から漏れる腐った果実のような溜息。
「佐藤君、これ朝一まで」
頭上から投げ落とされたファイルが、雪崩となって視界を埋め尽くす。紙の山の向こうで課長の革靴が遠ざかる音だけが、暴力的な現実感を伴って響いた。
喉の奥からせり上がる嗚咽を、冷めきった缶コーヒーで無理やり流し込む。
(この資料の八割は、先月の焼き直しだ)
脳髄が熱を持つ。非効率の警告アラートが頭の中で鳴り止まない。だが、キーボードに置いた指先は鉛のように重く、痙攣するばかりだ。
足を引きずるように給湯室へ向かう。壁に張り付いた、日付印字機能の壊れたタイムレコーダー。
震える手で、社員証をスロットへ叩き込む。
ガチャン。
重い打刻音が骨導音となって頭蓋を揺らした瞬間、平衡感覚が消失した。
リノリウムの床がねっとりとした泥濘(ぬかるみ)へ変わり、天井のシミが青白く発光する鍾乳石へと隆起する。
鼻孔を突くのはトナーの粉塵ではない。鉄錆と、濃密な獣の悪臭。
佐藤健太は歪んだスマホを握りしめ、息を殺した。
ここは、残業代の代わりに命を削る、地下迷宮の入り口だった。
第二章 断捨離という名のハック&スラッシュ
「グルル……承認……決裁……」
通路を塞ぐのは、三つの首を持つ巨躯のオーガだ。中央の首が何かを叫ぶたび、左右の首が「差戻し」と書かれた巨大な棍棒を振り下ろす。
健太は床を蹴った。泥を跳ね上げ、棍棒の風切り音を紙一重でかわす。
(動きが鈍い。右の首は左の首の顔色を窺い、左は中央の指示を待っている!)
スマホ画面をタップするだけの安易な解決などない。彼は呼吸を荒げながら、オーガの足元へスライディングした。
懐に入り込み、三つの首が互いの視線を遮る位置へと誘導する。
「今だ!」
健太は壁面の配管――ダンジョンの魔力供給ライン――を強引に引き剥がし、ショートさせた。
火花が散り、オーガの足元の床が崩落する。互いの牽制で身動きが取れなくなっていた巨体は、バランスを崩して奈落へと転がり落ちた。
ズズズ、と迷宮が唸り、歪んでいた廊下が一直線に整地される。
健太は膝に手をつき、荒い息を吐きながら胸元のカードを確認した。
『獲得魔力:1,000,000pt』
『代償:勤続年数 -3年』
数字が減るたび、肩にのしかかっていた見えない重りが剥がれ落ちていく。
寿命を売って金を得るのではない。会社に縛り付けられた呪われた時間を切り離し、自由を買い戻しているのだ。
全身から吹き出す汗さえ、爽快だった。
第三章 ゴミ箱の中の宝石
迷宮の最下層、かつて「開発部」と呼ばれた澱みの底で、そのゴブリンはうずくまっていた。
周囲の魔物が整然と巡回する中、一匹だけ壁に向かい、ボロボロの爪で何かを刻み続けている。
「……田中、か?」
あのお調子者の同期。現実ではいつも締切を破り、無駄話で時間を浪費させていた男。
健太は舌打ちし、効率化のための「排除」コマンドを入力しかけた。
だが、ゴブリンの背中越しに見えた、壁の落書きに指が止まる。
『みんなが笑える、夢のアプリ』
幼稚な図解。採算など度外視の妄想。
その瞬間、強烈な記憶がフラッシュバックした。
深夜三時のコンビニ前。伸びきったカップ麺をすすりながら、田中が言ったのだ。
「健太、効率も大事だけどさ。俺たちが作ってんのは、誰かの明日をちょっと楽しくするもんだろ?」
あの時の田中の目は、死んだ魚のような俺たちの誰よりも輝いていた。
ゴブリンが振り返る。その瞳は濁りきってはいない。
「……クソッ」
健太は排除キーを叩き割り、代わりに自身のHPを削って「保護」の障壁を展開した。
壁の落書きをタイムカードの裏へ必死に書き写す。
(効率が悪すぎるんだよ、お前は。……だが、悪くない)
勤続年数のカウントが、ゼロに近づいていく。
第四章 シミュレーション・コンプリート
『勤続年数:0年』
最後の打刻音が、世界を断ち切るように響いた。
視界の端から、ダンジョンの壁がポリゴンの破片となって剥がれ落ちていく。
強烈な耳鳴り。
(違う。俺は佐藤健太では……いや、佐藤健太のデータを体験していた、俺は……)
世界がノイズに混じる。
自分の手が、泥にまみれた「健太」の手ではなく、白く滑らかな、一度も労働を知らないような質感に変わっていく錯覚。
脳の奥底にあるバイオ端子が引き抜かれるような、肉体的な喪失感と激痛。
走馬灯のように駆け巡る、数億パターンの「ブラック企業」のログ。
「弱者」の痛みを知るための更生プログラム。その終了を告げる無機質な光が、全てを白く塗りつぶした。
第五章 創造者として
コンクリートの感触。
目を開けると、ビルのエントランスで膝をついていた。
手には私物の入った段ボール箱。
空は、目が痛くなるほど青い。肺に入ってくる空気が、あのカビ臭い地下とは決定的に違っていた。
「あのっ、すみません!」
自動ドアが開き、数人の男女が駆け寄ってくる。
先頭にいるのは、スーツを着崩した田中だ。だが、その顔つきは迷宮のゴブリンでも、疲弊した同期でもない。精悍な、野心に満ちた男の顔だ。
「突然変なこと言いますけど……あなた、今この会社辞めたとこですよね?」
田中は息を切らしながら、熱っぽい視線を健太に向ける。
「僕らもです。これから新しいこと始めるんですけど、すれ違った瞬間、ビビッときて。……なんというか、戦場を共にした戦友みたいな空気を感じて」
彼らに記憶はない。あるのは、魂に刻まれた「信頼」の残滓だけ。
健太は、段ボール箱の隙間から、汚れたタイムカードを取り出した。
裏面には、あの泥だらけの手で書き写したメモが残っている。
『みんなが笑える、夢のアプリ』
かつて自分が「無駄」だと切り捨てそうになり、最後に命を懸けて拾い上げた宝石。
健太はカードを胸ポケットにしまい、ニヤリと笑った。
「いいですね。無駄の排除と効率化なら、任せてください」
もはや社畜ではない。
彼は今、最高の仲間と共に、自身の物語(かいしゃ)を創り上げるスタートラインに立ったのだ。