第一章: 異常な剪定
世界は、手入れの行き届かない庭に似ている。雑草が蔓延り、美しい悲劇という名の薔薇を窒息させるのだから。
裏庭に漂うのは、豚の糞尿と湿った土の匂い。雨上がり特有の生温かい空気が、肌にまとわりつく不快感。
そのぬかるんだ地面に、ルカ・ヴァレンタインは革靴を沈めて立っていた。手入れなど数ヶ月も放棄されたようなボサボサの灰色の髪は、どこか埃の塊を連想させる。何より異様なのは、その瞳だ。光を一切反射しない、市場で三日は売れ残った魚のような濁った眼球が、眼前の「雑草」を見下ろしている。地味で薄汚れた従者の服は、彼の影のような存在感をより一層際立たせていた。
ルカ・ヴァレンタイン「……あぁ、困りますねぇ。聖女様。貴女のような不純物が混ざると、僕の『傑作』のピントがボケてしまう」
足元には、泥に塗れた少女が転がっている。異世界からの転生者、「聖女」と呼ばれる存在。彼女は原作小説の正規ルート――すなわち、英雄が絶望の淵に沈むバッドエンド――を、「ハッピーエンド」へと強引に書き換えようとしていた害虫だ。
ルカ・ヴァレンタイン「アスター様を救う? 悲劇を回避する? 駄作だ。そんなご都合主義、吐き気がする」
美しい物語には、相応の犠牲が必要なのです。
ルカは懐から取り出したワイヤーを、少女の細い首に巻き付けた。躊躇いはない。庭師が枯れ枝を剪定するのと同じ、慈愛に満ちた手つきで。
きり、きり、とワイヤーが皮膚に食い込む音。肉が締まる嫌な感触が、湿った空気に溶けていく。少女の白目が剥かれ、足が泥を蹴る痙攣だけが、そこに命があったことを主張していた。
ミゼリア「あっは! 相変わらずイイ趣味してるわねぇ、ルカ。その指先の震え、ゾクゾクするわ」
虚空から現れたのは、ゴシックドレスを纏った悪魔ミゼリアだ。彼女は死臭を嗅ぎつけたハエのように、嬉々として少女の魂が抜けていく様を眺めている。
ルカ・ヴァレンタイン「お褒めに預かり光栄です。さあ、豚たちの夕食の時間だ。骨まで噛み砕いてくれるでしょう」
処理は迅速だった。痕跡は豚の胃袋と泥の中へ。
数刻後。ルカは屋敷の廊下を早足で歩いていた。呼吸を整え、表情筋を「忠実な従者」のそれへと調整する。
扉を開けると、そこには太陽の欠片を人の形にしたような青年、アスター・ブレイズがいた。豪奢な金髪、曇りのない碧眼。だがその眉間には、微かな不安の皺が刻まれている。
アスター・ブレイズ「ルカ! 遅かったな。……聖女様は見つかったか? 約束の時間になっても現れないんだ」
ルカは膝をつき、演技がかった動作で頭を垂れる。
ルカ・ヴァレンタイン「申し訳ありません、アスター様。……どうやら聖女様は、姿を消されたようです」
アスター・ブレイズ「なっ……消えた? 彼女は、俺の恋人を守るための儀式を準備してくれるはずじゃ……!」
ルカ・ヴァレンタイン「部屋には書き置きも何も。……あるいは、迫りくる魔王軍の恐怖に耐えきれず、逃げ出したのかもしれませんね」
嘘だ。だが、純粋培養された英雄の脳に、疑念という雑草は生えない。
アスターの顔から血の気が引いていく。聖女の加護がなければ、前線にいる彼の恋人は無防備なまま敵の奇襲を受けることになる。
そう、その顔です。青ざめ、唇を震わせるその表情。
ルカのポケットの中で、メモ帳を握る指が歓喜に震えた。予定通りだ。これで恋人は惨殺される。確定した未来(シナリオ)へのレールが、ごとりと音を立てて敷かれた。
ルカ・ヴァレンタイン「急ぎましょう、アスター様。今ならまだ、間に合うかもしれません」
間に合うはずがない。
ルカは心の中で舌なめずりをした。地獄への特等席へ、最愛の英雄をご案内するために。
◇◇◇
第二章: 培養される悲嘆
雨音が、世界を灰色に塗り潰している。
雷光が窓枠を照らすたび、部屋の隅でうずくまる英雄の影が長く伸び、そして消える。
アスター・ブレイズ「うぅ……あぁぁ……! 嘘だ、嘘だと言ってくれ……!」
アスターは、血に濡れたリボンを握りしめていた。恋人の遺品だ。
救援は間に合わず、到着した時には彼女は既に肉塊と化していた。四肢をもがれ、原型を留めないほどに破壊された「それ」を見た瞬間、アスターの喉から発せられたのは言葉ではなく、獣の咆哮だった。
部屋の暗がり、カーテンの陰にルカは立っている。
手にはスケッチブック。炭の棒が紙の上を走る音――カッカッ、シャッ――だけが、アスターの嗚咽にリズムを刻むように響く。
ルカの鼻腔をくすぐるのは、アスターが流す涙の塩気と、彼が身にまとったままの鉄錆びた血の匂い。
その混ざり合った芳香は、どんな高級な香水よりもルカの脳髄を痺れさせる。
濁った魚のような目が、今はとろりと溶解し、恍惚とした熱を帯びていた。
ルカ・ヴァレンタイン「素晴らしい……。今の角度、最高ですよアスター様。絶望で歪んだ口元、充血した瞳、行き場のない怒りで震える指先……あぁ、ゾクゾクする」
もっと。もっと見せてください。貴方の心が壊れる音を、一番近くで聴かせて。
ルカの下腹部に重い熱が溜まる。他者の不幸、それも至高の存在が地に墜ちる様を見ることは、彼にとって性行為以上の快楽だった。
震える手でスケッチブックに線を重ねる。アスターの悲嘆は、ルカにとってのポルノグラフィだ。
ミゼリア「アンタ、ほんと最低ね。……で? 次の仕掛けはどうするの?」
ミゼリアがルカの肩に腰掛け、耳元で囁く。ルカは表情を引き締め、スケッチブックを隠すと、アスターの元へ歩み寄った。
ルカ・ヴァレンタイン「アスター様……。心中、お察しします。ですが、貴方がここで折れてしまっては、彼女の死は無駄になります」
彼は温かい紅茶を差し出す。その中には、精神を不安定にさせる幻覚剤が微量に混入されていた。
アスター・ブレイズ「ルカ……。俺は、俺は守れなかった……。力なんて、あっても意味がない……」
アスターがすがるような目でルカを見る。唯一残された、心を許せる親友。その信頼が、ルカにはたまらなく滑稽で、愛おしい。
ルカ・ヴァレンタイン「いいえ。これは『試練』です。……それに、奇妙だと思いませんか? 魔物の動きが、あまりに正確すぎた。まるで、こちらの動きが筒抜けだったかのような」
アスター・ブレイズ「……何が言いたい?」
ルカ・ヴァレンタイン「裏切り者がいるのかもしれません。……例えば、最近貴方の剣の手入れをしていた、騎士ガレスとか」
種を蒔く。疑心暗鬼という名の毒草の種を。
アスターの瞳が揺れる。碧眼の奥に、暗い炎が灯り始めたのをルカは見逃さなかった。
純粋な悲しみは、やがて濁った憎悪へと発酵する。その熟成を待つのもまた、庭師の愉しみだ。
◇◇◇
第三章: 開花する真実
戦場跡の野営地。焚き火が爆ぜる音が、張り詰めた静寂を破る。
アスターは立ち直りかけていた。仲間たちの支えにより、「亡き恋人のために世界を救う」という新たな決意を固めつつあったのだ。
気に入りませんね。雑草がまた生えてきた。
ルカは舌打ちを噛み殺し、アスターの背後に立つ。
アスターの前には、古参の騎士ガレスがいる。彼はアスターの肩を叩き、励ましの言葉をかけようとしていた。
ルカ・ヴァレンタイン「アスター様、剣の調子が悪いと仰っていましたね。少し拝見しても?」
アスター・ブレイズ「あぁ、頼む。なんだか鞘走りが悪くてな」
ルカは聖剣を受け取る。その瞬間、ミゼリアが展開した《幻影魔法》が発動した。
アスターの視界が歪む。ガレスの笑顔が、かつて恋人を殺した魔物の嘲笑に重なる。
殺意
アスター・ブレイズ「貴様……ッ!」
アスターの手が勝手に動く――否、ルカが絶妙なタイミングで剣を柄ごと突き出し、アスターの手の中に滑り込ませたのだ。
鈍い感触。
聖剣が、ガレスの心臓を貫いていた。
「ア、スター……? な、ぜ……」
ガレスが口から血の泡を吹き、崩れ落ちる。
幻覚が解ける。アスターの手には、親友の血で濡れた剣。
アスター・ブレイズ「あ……あぁ……? ガレス? 違う、俺は、魔物を……!」
混乱し、後ずさるアスター。その背後で、クスクスという忍び笑いが漏れた。
抑えきれない、歓喜の音。
アスターが振り返る。そこにいたのは、いつもの地味な従者ではなかった。
口角を耳まで裂けんばかりに吊り上げ、恍惚に目を細める「何か」だった。
ルカ・ヴァレンタイン「あぁ、素晴らしい! 見ましたか、今の手応え! 親友の肋骨を断つ感触は! 最高の切れ味でしょう!?」
アスター・ブレイズ「ルカ……? 何を、言っている……?」
ルカは従者の仮面を剥ぎ捨てた。もう隠す必要はない。花は開いたのだから。
ルカ・ヴァレンタイン「聖女を殺したのも僕。聖女が消えたと嘘をついたのも僕。恋人の居場所を魔物に売ったのも僕。……そして今、貴方の手で仲間を殺させたのも、全部、ぜーんぶ僕です!」
「君が苦しむ顔が、世界で一番オカズになるんだよ、アスター!!」
世界が反転する。
信頼が、友情が、愛情が、全てドス黒い汚泥へと変わる音がした。
アスターの瞳から、光が完全に消滅した。
◇◇◇
第四章: 狂気への逃走
「殺してやるぅぅぅぅッ!! ルカァァァッ!!」
森の中を、復讐の鬼と化したアスターが疾走する。
聖剣から放たれるのは神聖な光ではない。禍々しい殺意の衝撃波だ。木々がなぎ倒され、土がえぐれる轟音。
ルカは走っていた。息が上がり、肺が焼き切れそうだ。だが、その顔は笑っていた。
ルカ・ヴァレンタイン「はぁ、はぁ、ひひッ! 来る、来ている! あの真っ直ぐな瞳が、今は僕を殺すことしか映していない!」
背後から迫る斬撃。
回避が遅れた。
ドシュッ!
ルカ・ヴァレンタイン「ぎゃあああああッ!?」
左腕が宙を舞う。熱い血飛沫がルカの顔にかかる。
激痛。だが、それすらもスパイスだ。
ルカは転がりながら、切断された自分の左腕を拾い上げた。そして、追いついてきたアスターに向けて、その血塗れの腕を放り投げた。
ルカ・ヴァレンタイン「ほらアスター! 君の親友の腕だぞ! 拾えよ! 大好きだったルカの一部だぞぉぉ!!」
生理的な嫌悪感がアスターの動きを止める。
目の前の男は、自分の腕が千切れたことすら愉しんでいる。
その異常性。理解不能な悪意の深淵。
ルカの断面から滴る鮮血が、アスターの頬に付着する。
鉄の味。嘔吐感。
しかし、アスターの内側で何かが完全に「壊れる」音がした。理性のタガが外れ、純粋な殺戮衝動だけが残る。
アスター・ブレイズ「……殺す。肉の一片まで、すり潰してやる」
その声は、かつての爽やかな英雄のものではない。地獄の底から響くような、魔王の声だった。
ルカは残った片腕で地面を這いずりながら、涎を垂らして笑う。
あぁ、完成だ。僕が育てた、最高の悲劇。
逃げる必要はない。この追いかけっこは、ゴールテープを切るための最後の儀式なのだから。
◇◇◇
第五章: 永遠の標本
逃走劇の果て、行き着いたのは廃教会の祭壇だった。
ステンドグラスは砕け散り、月光が十字架の代わりに突き刺さる。
ルカは祭壇にもたれかかり、荒い息を吐いていた。失血で視界が霞む。
指先の感覚はない。寒気が全身を支配している。
カツ、カツ、と足音が近づく。
アスター・ブレイズ。かつての英雄。今は、血に染まった復讐者。
アスター・ブレイズ「……終わりだ、ルカ」
ルカ・ヴァレンタイン「えぇ……終わりですね。……ふふ、どんな気分ですか? 親友を、自分の手で殺す気分は」
挑発に乗る様子もなく、アスターは無造作に剣を突き出した。
ズブリ。
冷たい刃が、ルカの胸を貫く。心臓が焼けるような熱さを訴え、そして停止した。
口からごぼりと大量の血が溢れる。
ルカは最期の力を振り絞り、アスターの顔を見上げた。
そこにあるのは、勝利の喜びでも、正義の執行でもない。
ただ、虚無だけを映す、底のない穴のような瞳。
ルカ・ヴァレンタイン「素晴らしい……、その顔が……見たかっ、た……」
ルカの血まみれの手が、アスターの頬に伸びる。
冷たくなりゆく指先が、アスターの肌に触れる。
アスターは避けなかった。ただ、汚い物を見るように見下ろしている。
ルカの瞳孔が開く。死の瞬間のスパーク。脳内でエンドロールが流れる。
この世で最も美しいバッドエンドを特等席で鑑賞し、彼は満面の笑みを浮かべたまま事切れた。
シナリオ完了。バッドエンド『英雄の堕落』が確定しました。
静寂が戻る。
アスターは剣を抜いた。ルカの死体が人形のように崩れ落ちる。
復讐は果たされた。だが、胸の穴は塞がらない。
ルカの呪いの言葉が、笑顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
「君が苦しむ顔が、一番のオカズだ」
アスターはふらりと歩き出した。
教会の外には、魔王軍が迫っていた。だが、彼はもう剣を掲げて人々を鼓舞することはない。
彼の背中から、黒い瘴気が噴き出す。
かつて光の英雄と呼ばれた青年は、虚空を見つめ、乾いた笑い声を漏らした。
アスター・ブレイズ「……あぁ。壊れちまったな、何もかも」
世界を救う英雄は死んだ。
今ここに、世界を絶望で染め上げる新たな魔王が誕生する。
庭師の愛した花は、枯れ果てることで永遠の完成を迎えたのだ。