湿気を孕んだ夜風が、むせ返るような鉄の錆と、排泄物の入り混じった異臭を運んでくる。
まとわりつく夏の熱。
そこに剥き出しの臓腑が放つ生温かい蒸気が混ざり合い、肌へべっとりと張り付いた。
アキ「ヒッ、あ、あああ……っ!」
名もなき無人駅のホーム。
終電はとうに過ぎ去った。
蛾の羽音を引き連れた青白い蛍光灯が、断続的に明滅を繰り返す。
深夜の静寂。
それを劈く、男たちの断末魔。
ハル「うるさい、な」
声はひどく平坦だった。
虚空を透かして見るような赤い瞳。色素の抜け落ちた銀髪が、血飛沫を吸った夜風に煽られふわりと揺らぐ。
身を包むのは、彼女の華奢な体躯には不釣り合いなほどぶかぶかの白いワンピース。その裾は既に、赤黒く濁った粘液の海に沈んでいる。
裸足の足首に無造作に巻かれた包帯。
そこから、また一筋。
新しい朱色が滲んだ。
指先が、僅かに跳ねる。
ただ、それだけ。
たったそれだけの動作で、屈強な黒服の男たちの肉体が内側からグズグズと崩れ落ちた。
ゴボォッ……ジュルルルルッ……
骨髄が融解する。
筋肉が腐った泥水へと還る。
響き渡るのは、耳を塞ぎたくなるほど悍ましい、咀嚼音にも似た水音。
悲鳴を上げる喉すら溶かされ、追っ手だった者たちはコンクリートの表面に広がる赤黒い水たまりへと成り果てた。
ドクン、ドクン、ドクン。
ベンチの陰。
泥酔し、終電を逃してまどろんでいたアキの全身を、致死量の悪寒が貫く。
アルコールなど、とうに毛穴から蒸発していた。
ガチガチと鳴る歯の根を必死に噛み締める。
息ができない。
肺が酸素を拒絶する。
薄汚れたスニーカーの先まで、赤黒い液体が這い寄ってくる。
溶けたばかりの「男たち」だった泥。
アキ「……こないで……」
声にならない掠れ音が、痙攣する喉の奥から漏れた。
視界が滲む。
ひた、ひた、ひた。
粘ついた足音が近づいてくる。
ゆっくりと顔を上げる。
見下ろす赤い双眸と、視線が絡み合った。
ハル「あなたも、わたしを殺しにきたの?」
小首を傾げるハル。
その無垢な仕草とは裏腹に、彼女の足元からは強烈な肉の腐臭が立ち昇っている。
アキ「ちが、おれは、ただ……」
言葉が紡げない。
極限の恐怖が中枢神経を焼き切り、指先ひとつ動かせない。
膀胱の底が熱くなり、みっともなく股間を濡らす感覚すら、今の彼にはひどく遠い出来事のように思えた。
ハルは静かにしゃがみ込み、血に塗れた細い指をアキの頬へ伸ばす。
氷のように冷たい感触。
生者の体温ではない。
ハル「そう。なら、静かにしててね」
ぶつん、と。
アキの視界の隅で、空間そのものが歪んだ。
ハルの目が伏せられる。
同時に、アキの胸の奥で何かが決定的に破裂する音がした。
パァンッ!
激痛すらない。
ただ、自分の心臓があったはずの場所から、生温かい液体が滝のように溢れ出すのを自覚する。
崩れ落ちる視界の中で最後に見たのは、返り血を浴びてなお、ひどく退屈そうに暗い夜空を見上げる少女の横顔。
遠くから微かに聞こえるサイレンの音。
鼻腔にこびりついた鉄と排泄物の臭いだけが、彼の意識が完全な闇に沈むその瞬間まで、ずっと付き纏っていた。

泥のような闇の底から、意識が唐突に浮上する。
嗅覚を突き刺すのは、強烈な防腐剤の臭気と、熟れすぎた果実のような甘ったるい腐臭。
アキは重い瞼をこじ開けた。
視界はひどく濁っている。網膜に薄いゼリー状の膜が張ったかのように、周囲の輪郭がぼやけていた。
起き上がろうとして、右腕に力が入らないことに気づく。
ぐちゃり。
硬いベッドを掴もうとした指先が、嫌な水音を立てて崩れた。
泥のように黒く変色し、所々から黄ばんだ骨が見え隠れする自分の手。
アキ「あ……ぇ……?」
声帯が震えない。喉から漏れたのは、風船から空気が抜けるような湿った掠れ音だけだった。
咄嗟に胸に手を当てる。
……。
鼓動がない。心臓があったはずのぽっかりと空いた風穴には、生温かい赤黒い粘液が詰まって、ゆっくりと蠢いている。
ハル「おはよう、アキ」


暗がりから、ふわりと白いワンピースが揺れた。
ハルだった。無人駅のホームで見せた無機質な冷たさはなく、その赤い瞳は熱を帯び、とろけるような狂信的な光を宿している。
ハルがベッドに這い上がり、アキの胸に耳を寄せる。
「静か。誰も邪魔しない、完璧な静寂……。ずっと、こういうのが欲しかったの」
氷のように冷たい彼女の指先が、アキの腐りかけた頬を優しく撫でる。
触れられた皮膚がボロボロと剥がれ落ちるが、ハルは全く気にする素振りを見せず、むしろ愛おしそうにその肉片を自らの舌で舐めとった。
「ひっ……!」
アキの脳髄がパニックを起こす。だが、とうに死後硬直を通り越して腐敗の始まった肉体は、逃げ出すことすら許さない。
「怖がらないで。あなたは特別。あの時、私を見て騒がなかったから……壊れないように、丁寧に時間を止めてあげたの」
ハルの吐息が耳元にかかる。
「腐っていくあなたの体温、たまらなく愛おしいわ」
死体となっているはずなのに、彼女の狂気に当てられたのか、アキの残された神経がバチバチと異常な電気信号を発し、背筋に強烈な悪寒と、それに相反する歪な悦びを走らせた。
どれほどの時間が経過したのか。
アキは薄暗い廃屋のベッドで、ただひたすらに己の肉体が溶け、崩れていくのをハルの腕の中で実感し続けていた。
自我はとうに摩耗し、彼女が口移しで与えてくれる黒い血の味だけが、彼を辛うじてこの世界に繋ぎ止めている。
そのぬるま湯のような狂気を、強烈な爆音と閃光が粉々に吹き飛ばした。
ガァァァンッ!!
廃屋の鉄扉が蝶番ごと吹き飛び、白煙が室内に充満する。
粉塵の中から、黒い軍用コートを翻して一人の男が踏み込んできた。
銀製のクロスボウを構え、黒縁眼鏡の奥で冷徹な灰色の瞳を光らせる異端審問官、シグレ。
シグレ「……ネズミ探しに手間取ったが。こんなゴミ溜めで、死体遊びとは恐れ入る」
シグレの視線が、ベッドの上で絡み合うハルとアキを射抜く。
シグレ「特級災厄『忘却の泥』。これ以上の汚染を広げる前に、ここで完全に浄化する」
ハル「……邪魔。私のアキを見ないで」
ハルの赤い瞳が、ドス黒い殺意に染まる。
周囲の空気が急速に腐敗し、床のコンクリートがブクブクと泡を立てて泥に変わっていく。
だが、シグレは動じない。引き金が引かれた。
シュガァッ!
銀の矢が空気を切り裂き、ハルの心臓目掛けて飛来する。
ハル「え……」
その瞬間だった。
動くはずのないアキの肉体が、本能だけでベッドから跳ね起きた。
いや、本能ではない。己を唯一必要としてくれた、この狂った神様を守るための、魂の暴走。
ズグッ……!
アキ「が……はッ……!」
銀の矢が、アキの首筋を深々と貫通した。
呪われた防腐の魔力が焼き切られ、アキの全身から凄まじい勢いでどす黒い体液が噴き出す。
ハル「アキッ!! だめ、だめぇっ!!」
アキの体が崩れ落ちる。それを抱き留めたハルの顔が、絶望と狂気に激しく歪んだ。
シグレ「肉盾か。見下げ果てた化け物どもめ」
シグレが次弾を装填しようとした、その時。
……グチャ、ル、ジュルルルルルッ……!!
空間そのものが、嘔吐した。
ハルの足元から爆発的に広がった黒い泥が、瞬く間に廃屋全体を飲み込む。
それは物理法則を無視した、純粋な『融解』の呪い。
シグレ「なっ……結界が、溶け……!?」
ハル「死ねェッ!! アキを傷つける奴は、みんな泥になれェェェッ!!」
黒い津波がシグレに襲い掛かる。
銀の武器も、鍛え上げられた肉体も、ハルの悲痛な絶叫の前では一切の無力だった。
シグレ「がぁあああああっ!! 溶け、る……俺の、体がッ……!」
凄惨な断末魔すら、すぐにドロドロという粘着質な水音に掻き消された。
シグレだった有機物の泥が、床の海へと混ざり合って消滅する。

静寂が戻った廃屋。
だが、アキの崩壊はもう止められなかった。
矢に貫かれた箇所から急速に腐敗が進み、腕が、脚が、泥となって床に崩れ落ちていく。
ハル「やだ……やだ、アキ、溶けないで……私を置いていかないで……っ!」
大粒の血の涙を流しながら、ハルは形を失いゆくアキの肉体を必死に掻き集め、抱きしめる。
アキはもう、目すら見えていなかった。
だが、胸の奥で、確かに温かいものが広がっていくのを感じていた。
……これで、いい。君の孤独を、少しだけ埋められたなら。
残された右手が、震えながらハルの白い頬に触れる。
アキ「……あ……い、し……て、る……」
空気が漏れるだけの声帯が、最期に奇跡のように言葉を紡いだ。
直後、アキの体は完全に限界を迎え、黒い泥の海へと還った。
ハルの手の中には、彼が着ていたボロボロの服だけが残された。
虚空を見つめ、ハルはしばらくの間、微動だにしなかった。
やがて。
「……ふふっ。そっか。アキ、私の泥の中で、一つになってくれたんだね」
ハルはゆっくりと、アキが溶けた黒い泥の海に自らの体を沈めていく。
冷たい泥が、純白のワンピースを真っ黒に染め上げた。
「あったかい……。アキの、腐る体温。ずっと、ここで抱きしめているからね」
ハルは自らの能力を暴走させ、己の肉体をも泥へと還元していく。
永遠の孤独から解放された少女は、愛する者の体温が溶け込んだ忘却の海で、幸せそうに目を閉じた。
廃屋の奥底。
混ざり合った赤黒い泥の海だけが、まるで一つの巨大な心臓のように、ドクン、ドクンと、永遠に甘い鼓動を打ち続けていた。