むせ返るような濃緑の匂いと、腐葉土の底なしに甘い香りが鼻腔にねっとりと絡みつく。
煤と泥に塗れた厚手の狩猟服。
袖口から覗く前腕には、幾重にも重なった赤黒い獣の爪痕が刻まれている。
血抜きしたばかりの獲物を引きずりながら、アルトは深緑の村の広場へと足を踏み入れた。
その鋭い三白眼が、日常の風景に潜む異物感に釘付けになる。
村の中央に設えられた白木の祭壇。
見慣れた質素な麻のワンピースが、太い蔓で無残に縛り上げられている。
色素の薄い金髪が、べっとりと汗で額に張り付いていた。
リディアだ。
細い手足には指の太さほどある脈打つ蔦が幾重にも絡みつき、白磁のような皮膚の奥深くへ鋭い棘を突き立てる。
[Pulse]ドクン、ドクン[/Pulse]と蔦がうねるたび、彼女の体から赤黒い血が吸い上げられ、透き通った緑色の葉を妖しく染め上げていく。
[A:リディア:狂気]「お兄ちゃん、森が私を呼んでるの。とても暖かい声で」[/A]
焦点の合わない虚ろな碧眼がアルトへと向けられ、血の気のない唇がゆっくりと弧を描く。
周囲の村人たちは泥に額を擦りつけ、陶酔に満ちた低い祈祷の歌を口ずさんでいた。
祭壇の傍らに立つのは、樹皮のように皺深い顔を持つ男。
植物の蔓を精巧に編み込んだ豪奢な祭服を纏う村長、エルダーだ。
濁った片目が、獲物を放り出したアルトを冷ややかに見下ろしている。
[A:エルダー:冷静]「大いなる森の循環に、お前たちの命を還すがいい」[/A]
アルトの奥歯が、砕けそうなほどに軋む。
腰の鞘から、分厚い刃を持つ狩猟斧を引き抜いた。
[Think]森が何だ。神が何だ。[/Think]
石畳を蹴り砕き、狂気の祈祷の輪の中へ単機で突っ込む。
横薙ぎに振り抜かれた鋼が、リディアに群がる蔦を根元から叩き斬る。
ブチブチと肉を千切るような鈍音とともに、緑色の体液と生温かい血の飛沫がアルトの顔面に降り注いだ。
[A:アルト:怒り]「俺はあいつを生かすだけだ。どけッ!」[/A]
崩れ落ちる妹の軽い身体を左腕で抱え込む。血の滴る斧を構えたまま、アルトは鬱蒼と茂る原生林の奥深くへと駆け出した。

肺の奥で血の味がする。
泥水を跳ね上げ、枯れ枝に頬を切り裂かれながらも、アルトはひたすらに前へ前へと足を動かした。
腕の中に抱かれたリディアの身体は、焼け付くような熱を帯びている。
切断された蔦の断面。ぽっかりと空いた傷口の奥から、ぞわぞわと新たな緑の芽が覗く。
寄生植物が肉を押し退け、皮膚の下を這い回る醜悪な感触があった。
[A:リディア:悲しみ]「私が還れば、お兄ちゃんは助かるんだね……」[/A]
[A:アルト:怒り]「黙れ。絶対に死なせねえ。息だけしてろ」[/A]
背後の茂みが爆ぜた。
生臭い獣の息遣いではない。乾いた木々が擦れ合う、異様な破砕音だ。
エルダーの放った追っ手。筋骨隆々の猟犬たちの肉体が硬い樹木と同化し、節くれ立った四肢で地面を抉りながら迫ってくる。
枝先が変異した鋭い牙が、アルトの右ふくらはぎに深々と食い込んだ。
肉が裂け、脛の骨が軋んだ悲鳴を上げる。
[Shout]が、あああああッ![/Shout]
バランスを崩し、腐った泥の中へと前のめりに倒れ込む。
口の中に、泥土と血の赤錆びた味が広がった。
リディアを庇うように抱き込んだまま、アルトは迫り来る樹木犬の群れを睨みつける。
膝から下が完全に砕け、立ち上がることすら叶わない。
[Tremble]死ぬ。ここで、終わる。[/Tremble]
その時、目の前の腐葉土がボコボコと不気味な泡を立てて盛り上がった。
人骨と黒い泥で形成された、不定形の人型。
どろどろに溶けた顔面を、大小無数の眼球が不気味に這い回っている。
[A:シラル:興奮]「いいよォ……君の絶望、凄く甘い匂いがする」[/A]
粘り気のある中性的な声が、脳髄に直接へばりつく。
腐敗の精霊、シラル。
アルトの三白眼が、泥の怪物を射抜いた。
[A:シラル:狂気]「命の半分を食わせれば、森を腐らせる力を貸すよォ。どうするんだァ?」[/A]
腐った卵と枯れた花が混ざり合ったような、強烈な悪臭。
アルトはピクリとも表情を変えず、息絶え絶えのリディアを一瞥する。
狂信のルールで塗り固められた美しい森など、どうでもいい。
[A:アルト:冷静]「……右腕だ。残さず喰え」[/A]
躊躇なく、自らの右腕をシラルの泥の顎門へと突き入れた。
[Impact]ぐちゃり。[/Impact]
鋭い骨の歯が生きた肉を噛み千切り、神経の束を乱暴に引き抜いていく。
頭蓋骨を内側からハンマーで殴られたような、凄絶な激痛。
視界が[Blur]白く濁り[/Blur]、全身の毛穴から冷や汗が噴き出す。
だが、声は上げない。奥歯を噛み砕くほど食いしばり、血の混じった唾液を泥へ吐き捨てた。
シラルの泥が、アルトの肩の断面からどくどくと侵入していく。
失われた右腕の代わりに、どす黒い腐敗の泥が骨格を成し、脈打つ異形の腕が再構築されていく。
アルトは這いつくばったまま、その泥の右腕を横薙ぎに振り抜いた。
[Flash]ドロォッ![/Flash]
空気を切り裂く音の代わりに響く、醜い破裂音。
飛びかかってきた樹木の猟犬たちも、周囲にそびえ立つ巨木も、泥の腕が触れた瞬間にヘドロへと融解し、地面に吸い込まれていった。

足を踏み出すたび、青々とした美しい芝生が黒く変色し、ブクブクと泡立つ泥濘へと変わる。
深緑の村の広場へ舞い戻ったアルトを、弓を構えた狩人たちが囲んでいた。
矢が放たれるよりも早く、アルトは泥の右腕を振り上げる。
指先から放たれた腐敗の飛沫が、狩人たちの顔面に付着する。
皮膚が瞬時に黒ずみ、肉が腐り落ち、液状化した内臓が石畳の上にぶちまけられた。
糞尿と血、そして甘ったるい腐臭が村中を満たしていく。
自然の恩恵に包まれた牧歌的な幻想は、圧倒的な汚泥の前に無残にもすり潰された。
血まみれの狩猟服を引きずり、アルトはただ歩みを進める。
[A:リディア:恐怖]「やめて……こんなの、ちっとも美しくない……!」[/A]
背中に負ったリディアが、両手で顔を覆い隠して悲鳴を上げる。
アルトは振り返らず、喉の奥で低く笑った。
[A:アルト:狂気]「これが俺たちを生かす唯一の道だ。よく見ておけ」[/A]
血の池と化した広場の中央。
エルダーが狂気に染まった片目を見開き、両腕を天へと掲げていた。
祭服の蔦が異様な速度で成長し、地面の奥深くへと突き刺さる。
[A:エルダー:怒り]「森の秩序を乱す害虫め! 母なる大樹よ、この汚物を飲み込みなさい!」[/A]
[Pulse]ドクン、ドクン、ドクン。[/Pulse]
大地が割れ、家屋より太い巨大な根が狂った大蛇のように這い出てくる。
森の守護者が、ついにその全貌を現した。

空を覆い尽くすほどの枝葉がうねり、無数の根が鞭のようにアルトの身体を打ち据える。
肋骨が数本折れる鈍い音。
口から吐き出した鮮血が、泥の右腕を赤く濡らした。
それでも、アルトの歩みは止まらない。
[Think]俺は、あいつを生かす。それだけだ。[/Think]
大樹の幹。緑色に脈打つ巨大な核。
アルトは全身の関節を異様に軋ませながら、泥の右腕をその中心へと深々と突き立てる。
[Magic]《腐敗の業火》[/Magic]
シラルの力が暴走し、黒い奔流となって右腕から大樹の内部へ流れ込む。
代償として、アルト自身の生命力すらも削り取られていく。
左目からどろりとした血の涙が零れ落ちた。
皮膚がひび割れ、視界が明滅する。
[Shout]燃えろおおおおッ!![/Shout]
大樹の内部から、真っ黒な腐敗の炎が爆発的に噴き出す。
森の心臓が断末魔の悲鳴を上げた。
[Glitch]ギギギ、ギイイイイイイイイイイイイイイッ![/Glitch]
空気を焼き焦がす凄まじい熱風。
緑豊かだった世界が、黒と赤の業火に飲み込まれていく。
火の粉が舞い、人間の悲鳴と木々が爆ぜる音とが重なり合った。

灰が、雪のように静かに降り注いでいる。
焦げた肉と、炭化した木材の匂いが鼻を突く。
エルダーの姿はどこにもない。ただ、祭壇のあった場所に黒い人型の染みがこびりついているだけだ。
美しい森も、豊かな村も、すべてが灰燼に帰した。
アルトの右肩から先は完全に消滅している。
焼け焦げた肉の断面から、どろりとした血が滴り落ちた。
足元の泥から、シラルの無数の眼球が満足げに細められる。
[A:シラル:喜び]「最高だったよォ……ごちそうさまァ……」[/A]
乾いた音を立てて、泥の怪物は土くれへと還っていく。
リディアは、灰の積もる地面に力なくへたり込んでいた。
傷口から生えていた寄生植物は完全に干からびており、触れるだけで脆く崩れ落ちる。
精霊との繋がりを絶たれた彼女の碧眼には、果てしない虚無だけが広がっていた。
[A:リディア:絶望]「森が……死んじゃったんだね……」[/A]
アルトは煤にまみれた身体を引きずり、妹の前に立った。
頭上を見上げる。
今まで巨大な樹冠に遮られて一度も見たことのなかった、[FadeIn]空虚なほどに青い空[/FadeIn]が広がっている。
[A:アルト:冷静]「行こう。これからは、俺たちだけで生きるんだ」[/A]
返事はない。
アルトは残された左腕でリディアの手を引き、無理やり立ち上がらせる。
故郷を焼き尽くした大罪。命を削り取られた空っぽの肉体。
血と泥に塗れた二人の足跡が、見渡す限りの灰の荒野へと、ただ静かに続いていった。