第一章: 終わりの始まり
湿った夜風が運んでくるのは、潮の匂いとむせ返るような赤錆の臭気。
視界の端を散らつく長めの黒髪を、払いのける気すら起きない。
時代遅れのアウターに身を沈め、鳴海朔は首から提げた古いフィルムカメラの冷ややかな金属を無意識に撫でた。
朽ち果てたホームの輪郭を、色素の薄い瞳が静かになぞっていく。
海沿いの廃駅、星屑駅。
頭上には、押し潰されそうなほど圧倒的な星月夜が広がっていた。
不治の眼病により、彼の視界は端から白く濁り始めている。世界が完全な闇に沈む前に、この網膜へ最後の光を焼き付ける。その執念だけが、彼をここに立たせていた。
[A:鳴海 朔:冷静]「どうせ、もうすぐ見えなくなるんだ」[/A]
独り言は、夜露に濡れた雑草へと吸い込まれ消えた。
[Pulse]ザザッ……ピー……[/Pulse]
電源すら入っていないはずの、古いスマートフォン。
ポケットの奥で生じた微かな振動と不規則なノイズが、静寂を切り裂く。
[A:星野 奏:驚き]「……もしもし? 誰か、いるの?」[/A]
鈴の音のように澄んだ、それでいて時折苦しそうに掠れる少女の声。
[Think]電波の混線? いや、ここは圏外だ。[/Think]
朔は息を詰め、おそるおそる黒いガラス板を耳に当てた。
[A:鳴海 朔:冷静]「……君は、誰だ」[/A]
[A:星野 奏:喜び]「繋がった! ねえ、あなたも星を見に来たの? 私、星野奏。あのね、今、オリオン座がすっごく綺麗なんだよ」[/A]
オリオン座。
朔は夜空を見上げた。今は真夏だ。冬の星座など見えるはずがない。
[A:鳴海 朔:冷静]「何言ってんだ。今は八月だろ」[/A]
[A:星野 奏:驚き]「え? だって、今日は一九九四年の一月十五日だよ?」[/A]
[Impact]一九九四年。[/Impact]
三十年前の冬。
冷や汗が背筋を伝い、カメラの重みが急に増したように感じた。
見えない姿。触れられない距離。
錆びついた廃駅のホームで、決して交わるはずのない二つの時間が、無数の星の瞬きの下で確かに繋がっていた。

第二章: 見えない光と苦いコーヒー
深夜二時。
暗闇に沈むダイニングで、鳴海凪はブラックコーヒーを胃に流し込んだ。
舌にへばりつく暴力的な苦味が、慢性的な疲労をわずかに麻痺させる。
ショートカットの髪を無造作に掻き上げ、機能的な黒のタートルネック越しに自身の肩を抱く。仕事用のタブレットが放つ青白い光が、彼女の凛とした顔立ちに濃い影を落としていた。
開け放たれた窓の外。
庭のベンチで、朔が虚空に向かってスマートフォンを耳に当てている。
最近、弟は毎夜のようにあの廃駅へと通い、今はこうして誰かと話している「ふり」をしている。病状の進行が、ついに彼の精神まで蝕み始めたのか。
[A:鳴海 凪:悲しみ]「また馬鹿なこと言って……現実を見なさいよ、朔」[/A]
だが、踏み出して彼を止めることはできなかった。
[Sensual]
薄明かりの中、弟の横顔には長らく失われていた柔らかな光が宿っていた。
死んだように濁っていた色素の薄い瞳が、見えない誰かの言葉に反応して微かに揺らぐ。唇の端が、不器用に、けれど確かに弧を描く。
生気を取り戻したその表情を打ち砕く権利など、誰にあるというのだろうか。
[/Sensual]
[A:鳴海 朔:照れ]「未来の海は……もっと青いよ。空をそのまま溶かしたみたいに」[/A]
嘘だった。彼の視界はすでに色を失いかけている。
電話の向こうの奏もまた、息も絶え絶えに笑う。
[A:星野 奏:喜び]「ねえ、未来はどんな色をしてる? 私、全部知りたいな」[/A]
肩まで伸びた柔らかな亜麻色の髪を揺らし、一九九四年の流行を感じさせる白いワンピースの裾を風に遊ばせながら、彼女は三十年前の星空の下で笑う。
透き通るような白い肌の奥で、心臓が不規則な軋みを上げている事実を、彼女もまた隠し続けていた。
互いの暗闇を照らすためだけの、優しくて残酷な嘘。
孤独な魂は声帯の震えを通して絡み合い、どうしようもなく惹かれ合っていく。
[A:鳴海 朔:冷静]「明日も……話せるか?」[/A]
[A:星野 奏:愛情]「うん。ずっと、待ってるからね」[/A]
通信が切れた。
朔は深く息を吐き出す。見えない時間を飛び越え、彼女に触れる術を探すかのように。

第三章: 過去からの断頭台
古い紙の埃っぽい匂いが、市立図書館の地下書庫に充満していた。
マイクロフィルムの閲覧機に張り付く朔の指先が、小刻みに痙攣する。
[Tremble]カラカラ、カラカラ……。[/Tremble]
一九九四年の地方紙。
小さな、本当に小さなベタ記事だった。
『一月二十三日未明、市内海沿いの星屑駅にて、星野奏さん(17)が心不全で倒れているのが発見され、死亡が確認された。』
[Flash]一月二十三日。[/Flash]
明日の、夜だ。
[A:鳴海 朔:驚き]「嘘だろ……」[/A]
喉の奥で嗚咽が詰まる。酸っぱい胃液の味が口内に広がった。
膝から力が抜け、冷たいリノリウムの床に崩れ落ちる。
三十年前の事実。
どれだけ未来から手を伸ばしても、彼女の時間はすでにそこで途絶えている。
その夜。
朔は血を吐くような思いでスマートフォンの通話ボタンを押した。
[A:鳴海 朔:絶望]「駅に行くなッ!! 頼む、明日は家にいてくれ! 行けば君は……!」[/A]
喉が千切れるほどの叫び。
だが、スピーカー越しの奏の声は、恐ろしいほど穏やかだった。
[A:星野 奏:冷静]「朔くん。私ね、自分が明日死ぬこと、わかってるの」[/A]
[Impact]心臓が鷲掴みにされた。[/Impact]
[A:星野 奏:悲しみ]「お医者さんの話、聞こえちゃったんだ。だから……怖くて、夜の駅に逃げたの。でもね」[/A]
ノイズ混じりの声が、ふわりと温かさを帯びた。
[A:星野 奏:愛情]「あなたと繋がった。未来から、私の声を見つけてくれた。だから、最後にもう一度だけ……あの星空の下で、朔くんと同じ景色が見たい」[/A]
絶対的で残酷な時間の壁。
運命は変わらない。変えられない。
電話を持つ朔の指先は、血の気を失い限界まで白く染まっていた。

第四章: 届かない手と永遠の雨
[Shout]土砂降りの雨。[/Shout]
無情な夕立が、夏の夜の熱気を暴力的に奪い去っていく。
泥水が跳ね、くたびれたアウターを重く濡らした。
朔の視界は、ついに白い霧に覆い尽くされようとしている。
街灯の光が滲む。輪郭の消失。
躓き、アスファルトに身を投げ出して手のひらを擦り剥いた。血の鉄の味が口に広がる。
それでも、彼は廃駅へと走り続けた。
[Pulse]ドクン、ドクン。[/Pulse]
繋ぎっぱなしの電話の向こうから、荒い呼吸音が響く。
三十年前の、雪降るホーム。
奏が薄い手編みのカーディガンを握りしめ、冷たいベンチに倒れ込んでいる情景が、見えないはずの朔の脳内に鮮明なフラッシュバックとして焼き付く。
[A:鳴海 朔:狂気]「奏!! 奏ッ!! 起きろ、眠るな!!」[/A]
叫び声は雨音に掻き消された。
[Glitch]ザザ……ザ……さく、くん……[/Glitch]
[A:星野 奏:悲しみ]「星……見えない、ね……」[/A]
[A:鳴海 朔:絶望]「俺が見る! 俺が未来から全部見るから! だから生きてくれぇぇぇ!!」[/A]
[A:星野 奏:愛情]「泣かないで……」[/A]
[Sensual]
時空を超えた声が、朔の耳元を優しく撫でる。
物理的な接触はない。
だが、彼女の命の最後の灯火が、朔の冷え切った魂の奥底へ確かに熱を注ぎ込んでいた。
熱いものが、白濁した朔の目からとめどなく溢れ出す。
[/Sensual]
[A:星野 奏:喜び]「あなたに……出会えて……私の短い人生は……永遠の光に、なったよ……」[/A]
[FadeIn]ピーーーーーーーーーー。[/FadeIn]
無機質な電子音が鳴り響く。
過去からの、生命活動の停止を告げる合図。
通信は切れ、黒いガラス板はただの冷たい石と化した。
朔は泥まみれのホームに這いつくばり、天に向かって獣のような慟哭を上げた。
理不尽な時の断絶。
どれほど愛しても、未来からその手を掴むことはできない。

第五章: 光の残響
数ヶ月後。
秋の冷涼な風が、海沿いの港町を吹き抜ける。
朔の視界は完全に光を失った。
漆黒の闇。
しかし、海沿いのベンチに座る彼の横顔に落胆の色は一片たりとも存在しなかった。
[A:鳴海 凪:冷静]「……本当に、ここを掘るのね」[/A]
隣に立つ凪のスコップが、ザクッと土を削る音を立てる。
仕事用のタイトなスラックスの膝を泥で汚しながら、姉は無我夢中で土を掘り返した。弟の失明を止められなかった自己嫌悪を力に変えるかのように。
やがて、カチン、と金属に当たる乾いた音が響く。
[A:鳴海 凪:驚き]「あった……嘘、本当に……」[/A]
泥に塗れた、小さな錆びた缶。
三十年前、奏が息を引き取る直前、あの雪の夜に駅の傍へ埋めたタイムカプセルだった。
凪の手が震える。
蓋を開けると、そこには色褪せたスケッチブックの切れ端が丸められていた。
[A:鳴海 朔:喜び]「姉ちゃん。貸して」[/A]
朔は両手を前に出した。
渡された紙切れの表面を、彼の長い指先がゆっくりとなぞっていく。
鉛筆の強い筆圧によって作られた、無数の微細な凹凸。
[A:鳴海 朔:愛情]「……星だ」[/A]
触覚を通し、彼女が描いた圧倒的な星空が朔の指先から網膜の裏へと直接流れ込んでくる。
『私の分まで、光を心に刻んで。』
言葉に出さずとも、そのメッセージが凹凸の摩擦から伝わってきた。
三十年の時を超えて、彼女の愛は、光を失った朔の指先に確かに触れたのだ。
[Sensual]
朔の口元が綻ぶ。
視力を完全に失った瞳。
だがその深淵には、あの日二人で共有した満天の星霜が、決して消えることのない極彩色の光となって輝き続けていた。
[/Sensual]
海鳥の鳴き声が、遠く空高く吸い込まれていく。
鳴海朔の世界は、この上なく眩しかった。