第一章: 灰と星屑の邂逅
肺を焼くようなスモッグの臭気が、ようやく鼻腔から消え去る。
冷たい夜露をたっぷりと吸い込んだ、柔らかな苔の匂い。
色褪せ、所々が破れた亜麻布の作業着が、湿った重みを持って肩にのしかかる。
煤け、脂で固まった銀髪の隙間から覗くのは、光を失い、ひどく濁った琥珀色の瞳。
イグニス・アークライトはひび割れた皮手袋で覆われた両手を膝につき、大きく息を吐き出す。
口の中に広がるのは、生温かく濃い血の鉄の味。
横隔膜が痙攣し、喉の奥でひゅるひゅると細い音が鳴る。
見上げれば、頭上には天の川をそのまま零したような光景が広がっていた。
降り注ぐ星のように淡く発光する、青白い胞子。
天を突くほどに巨大な、苔むした古代樹の群れ。
圧倒的な静寂が、鼓膜を圧迫する。
乾ききった足元に、一本の枯れかけた苗木があった。
見過ごせば、すぐに灰になる。
腰のベルトから水筒を外し、震える指先で栓を抜く。
最後の一滴。
乾いた土が、わずかな水分を貪るように吸い込んだ。
イグニス・アークライト「……僕の手は、壊すことしかできない……それでも」
ぽた、ぽたり。
葉の表面を、水滴が滑り落ちる。
シレーネ「あなたの心は、いつも雨上がりの嵐みたいだね」
鈴の音のように澄み切った、無垢な声。
振り返ったイグニスの網膜を、強烈な光が焼く。
透き通るような白磁の肌。
裸足のつま先が、宙に浮くように苔の上を踏みしめている。
身に纏うのは、星の光を編み込んだかのような、薄絹の古代布。
重力を持たないかのように空間を揺蕩う、葉脈のように淡く光る翡翠色の長髪。
シレーネが、そこにあった。
イグニス・アークライト「君は……」
シレーネ「その子に、お水をあげてくれたの?」
彼女はふわりと微笑み、小首を傾げる。
土を耕し、命を育むこと。
それが、この悠久の森に留まるためのたった一つの条件。
静かに頷くイグニスの耳に、異音が混じる。
西の空が不吉な赤色に染まり、微かな地鳴りが足裏から這い上がってきた。
森の深淵から、黒い影が這い出そうとしている。
第二章: 芽吹きと罪の告白

クワを振り下ろすたび、背中の筋肉が軋む。
魔導力に頼らない、完全な手作業での開墾。
額を流れる汗が、目に入ってしみる。
土の匂い。草の汁の青臭さ。
イグニスの手にある分厚い皮手袋は泥に塗れ、無惨に擦り切れていた。
だが、その疲労感が心地よい。
夜。パチパチと爆ぜる焚き火の前。
炎の明かりが、イグニスの煤けた銀髪をオレンジ色に染め上げる。
イグニスは視線を伏せたまま、皮手袋をゆっくりと外した。
露わになったのは、赤黒く爛れ、皮膚が不自然にひきつった無数の火傷の痕。
かつて天才ともてはやされた、帝国の開拓技師の成れの果て。
イグニス・アークライト「僕が設計した機械が、森を焼いた。同僚を……すべてを灰にしたんだ」
喉仏が上下に激しく動く。掠れた声が途切れた。
自分が信奉していた機械技術への傲慢。その代償。
シレーネは焚き火の向こう側から音もなく歩み寄る。
彼女は躊躇うことなく、その醜く焼け爛れた両手を白磁のような細い指でそっと包み込んだ。
ひんやりとした朝露のような冷たさが、引きつった皮膚の奥深くまで染み渡っていく。
イグニスの肩が、ビクッと震える。
シレーネ「でもね。この手は今、土を温めているよ」
彼女の指先が示す先。
黒い土の隙間から、小さな薄緑色の双葉が顔を出していた。
月光を反射し、健気に揺れる命の欠片。
イグニスの琥珀色の瞳から大粒の雫がこぼれ落ち、手の甲を濡らす。
静かで確かな絆。
だが、その夜明け前。
パラ……パラパラ……。
空から降ってきたのは、雪ではない。
生臭い油の匂いを纏った、真っ黒な灰の雨。
帝国の重い足音が、すぐそこまで迫っていた。
第三章: 鉄の足音とすれ違う心

ドクン、ドクン、ドクン。
鼓膜を揺らす、重低音の駆動音。
森の境界の木々が薙ぎ倒され、視界が開ける。
ガレアス・ヴァン・ルード「すべては人類の生存のためだ。自然というノイズは排除する」
仕立ての良い漆黒の帝国軍服。真鍮のボタンが、鈍い光を放つ。
隙一つなく撫で付けられた金髪の下、氷のように冷たい青い瞳がイグニスを見下ろしていた。
ガレアス・ヴァン・ルード。かつての親友。
焦げた排気ガスの匂いと、歯車の擦れ合う金属音が、森の冷気を汚染していく。
イグニス・アークライト「帰れ、ガレアス。ここは……君たちが触れていい場所じゃない」
イグニスはクワを握り直し、前に出る。
だが、ガレアスの唇の端が、僅かに引きつるように歪む。
ガレアス・ヴァン・ルード「英雄気取りか? 君の設計した魔導炉がなければ、帝都の人間は餓死する。君の罪は、ここで土いじりをして消えるものではない」
イグニスは歯を食いしばり、痛む拳を握りしめる。
その背中を、強い風が突き飛ばした。
シレーネ。
翡翠色の長髪が、荒れ狂う風圧で天高く舞い上がる。
シレーネ「この人は、もう誰の命も奪わない。あなたたちは、私が還す」
イグニス・アークライト「シレーネ!? 何をする気だ!」
彼女の細い背中が、イグニスから遠ざかる。
ただ、森の魔力を一点に集積させ、圧倒的な風の壁を作り出す。
イグニスの体が、木の葉のように森の外へと吹き飛ばされていく。
冷たい雨が、頬を叩いた。
イグニス・アークライト「やめろ……! 置いていかないでくれ!」
ドゴォォォォォォン!!!
無機質な金属音が鳴り響き、森の境界で目も眩むような爆炎が上がった。
第四章: 絶望の炎と痛切な選択

熱い。
ただ、ひたすらに熱い。
数百年の時を生きた古代樹が魔導兵器の放つ業火に呑み込まれ、次々と炭化していく。
シレーネの身に纏う古代布が焦げ、葉脈のように光る翡翠色の髪が、炎の熱でチリチリと縮れていた。
白磁の肌に、痛々しい煤がこびりつく。
シレーネ「森が……泣いてる」
彼女は自身の胸の中心に手を当てる。
森そのものを自壊させ、敵を道連れにする防衛機構。
《暴星の樹》
緑色の光が彼女の心臓から溢れ出し、周囲の炎を飲み込もうと膨張し始める。
イグニス・アークライト「死なせねぇぇぇ!! もう二度と!!」
業火を切り裂き、銀髪の青年が飛び込む。
作業着に火の粉が降り注ぎ、亜麻布が燃え上がる。
イグニスはシレーネを通り越し、ガレアスの操る巨大魔導機へと一直線に走った。
かつて自分が生み出した、悪魔の心臓。
その構造は、細胞の隅々まで記憶している。
ガレアス・ヴァン・ルード「狂ったか、イグニス! 素手で装甲を抜けるわけが……!」
イグニス・アークライト「抜けるさ……僕が、造ったんだからな!!」
皮手袋を投げ捨てる。
焼け爛れた両手が、超高温に熱された魔導機の排熱ダクトに直接突き刺さる。
皮膚が焼ける凄惨な音が響く。
肉の焦げる匂い。
だが、イグニスの瞳孔は大きく見開き、琥珀色の瞳はかつてないほどの光を放っていた。
システム・エラー。魔力逆流。限界臨界点突破。
中枢の冷却管が、素手によって引き千切られる。
閃光
目も眩むような白光が、すべてを飲み込んだ。
第五章: 光の奔流、そして永遠のノスタルジー

爆発の衝撃波が、ガレアスの魔導機を内部から粉砕する。
帝国軍は恐慌状態に陥り、撤退の信号が森に響き渡った。
黒煙が晴れる。
焼け焦げた大地の中心で、イグニスはシレーネを抱き起す。
白磁の肌には無数の黒い亀裂が走り、そこから緑色の光の粒子が絶え間なく漏れ出していた。
命の灯火が、消えようとしている。
イグニス・アークライト「嫌だ……君まで僕を置いていくのか……!」
両手から血を流し、イグニスは子供のように嗚咽を漏らす。
シレーネはゆっくりと腕を上げ、その傷だらけの手でイグニスの頬をなぞった。
唇が触れるか触れないかの距離。
彼女の吐息からは、甘い花の香りがした。
シレーネ「泣かないで。あなたの心は……雨上がりの、空みたいに綺麗だね」
《命の循環》
シレーネの体が、完全に光の粒子へと分解される。
ドクン。
光の奔流が、焼け焦げた森全体を優しく包み込む。
奇跡のような映像。
黒い灰に覆われた大地から一斉に緑の芽が吹き出し、色とりどりの無数の花が咲き乱れる。
シレーネの命は、森そのものへと溶け込んでいった。
光の粉が、イグニスの銀髪を撫でるように通り過ぎていく。
◇◇◇
数年後。
朝露が葉を叩く、静かな森の朝。
冷たい空気が、肺を満たす。
イグニス・アークライトは色褪せた作業着の袖をまくり、今日も一人でクワを振るっていた。
かつて火傷で覆われていたその手には、土と植物の青い匂いが染み付いている。
イグニス・アークライト「……いい朝だ」
吹き抜ける風が、鈴の音のように優しく耳元を掠める。
光を取り戻した琥珀色の瞳は、どこまでも続く美しい緑の海を見つめていた。
喪失の痛みは、永遠に胸の奥にある。
それでも、彼が耕した土からは、今日も新しい命が芽吹いている。