第一章: 終わりの始まり
無造作に伸びた黒髪が、鉄錆の匂いを孕んだ乾いた風に煽られた。
疲弊と諦観がへばりついたナギの三白眼は、鈍色の空から際限なく降り注ぐ星屑の結晶を、ただ硝子玉のように反射している。
色褪せた軍用モッズコートのポケットに両手を突っ込み、ひび割れたアスファルトを履き慣れた革ブーツで踏みしめる。
襟元で微かに擦れる冷たい銀のロケット。かつてそこに在ったはずの、小さな手の温もりはもうない。
ナギ「どこまで行っても、ガラクタばかりだな」
喉の奥から絞り出した呟きは、風にさらわれて消え去る。
朽ち果てた線路の枕木を数えるように歩いていたナギの足が、ふと止まった。
視界の端。崩れかけた瓦礫の陰。
微弱な青い光が、明滅している。
防寒用の分厚いストールを羽織り、オーバーサイズの白いワンピースを着込んだ少女だった。
透き通る白髪の隙間から覗く虚ろな青い瞳が、ナギを捉える。
何より目を引くのは、彼女の右腕だ。
肘から先が、空から降る星屑と同じ、悍ましくも美しい青い結晶に侵食されていた。
ホシノ「……あ。人、だね。珍しいな」
血の気のない唇が、わずかに弧を描く。
ナギは顔をしかめ、モッズコートの裾を翻して背を向けた。
ナギ「他を当たれ。俺は誰かを助ける趣味はない」
ホシノ「助けてなんて、言ってないよ。ただ……」
少女は立ち上がろうとして、よろめく。
乾いたコンクリートに膝を擦りむきながらも、その青い瞳は真っ直ぐにナギを射抜いた。
ホシノ「最果ての海に、行きたいんだ。そこなら、綺麗に消えられそうだから」
閃光。
脳裏を焼く、鮮烈な記憶。
『お兄ちゃん、海、見たいな』
フラッシュバックする亡き妹の残像に、銀のロケットが胸の奥で火傷しそうなほど熱く脈打つ。
無意識のうちに舌打ちを鳴らし、ナギは少女の細い左腕を乱暴に掴み上げていた。
ナギ「勝手にしろ。俺はもう、何も背負うつもりはない。だが……海なら、こっちだ」
瞬きをした少女――ホシノは、ふわりと笑う。
二人が錆びた線路に再び足を踏み出したその時。
遠く離れた廃ビルの屋上で、冷徹な光学スコープの十字がナギの後頭部を静かに捉えていた。
第二章: 欠落の共鳴

崩壊した旧工業都市を抜け、手付かずの緑が支配する森の奥へ。
パチパチとはぜる焚き火の音が、静寂な夜を切り取っている。
焦げた松の枝の香ばしい匂いが、冷え切った大気に溶け込んでいた。
ナギは無言のまま、野草と干し肉を放り込んだチタンクッカーをかき混ぜた。
対面で膝を抱えるホシノの右腕が微弱な青い光を放ち、二人の輪郭を柔らかく照らし出す。
ホシノ「ナギのご飯、いつもすごく美味しいね。私、こんな温かいもの、食べたことなかったよ」
甘いシロップ漬けの空き缶を大事そうに撫で、ホシノが微笑む。
その笑顔はどこか浮世離れしていて、空っぽの器のようだった。
ナギ「ただの残飯の寄せ集めだ。……お前、その腕、痛まないのか」
ホシノ「大丈夫だよ、痛いのは最初だけだから。すぐに慣れるの」
ストールを引き寄せ、ホシノは自身の右腕を見つめた。
ホシノ「私ね、自分が誰か分からないんだ。ずっと冷たい部屋にいて……でも、今はナギがいるから。初めて、息をしてるって感じがするんだよ」
古びたフィルムカメラの手入れをしていたナギの手が、ピタリと止まる。
ファインダー越しに世界を傍観することしかできなかった指先が、今は確かに、誰かの輪郭をなぞろうとしていた。
チタンマグを煽る。
安物のブラックコーヒーの苦味が、なぜか酷く甘く感じられた。
だが、その穏やかな時間は唐突に引き裂かれた。
パァァンッ!
乾いた銃声。
ナギの頬を掠めた銃弾が、背後の大樹の幹を粉砕する。
舞い散る木っ端。喉仏が激しく上下した。
シグレ「随分と、くだらないごっこ遊びに興じているようだな。ナギ」
暗闇の中から、軍支給の黒いタクティカルコートを隙なく着こなした男が姿を現した。
銀縁眼鏡の奥で、切れ長の目が冷徹な光を宿している。
第三章: 氷の宣告

硝煙の匂いが鼻腔を突く。
ナギは即座に腰のサバイバルナイフを引き抜き、ホシノを庇うように立ち塞がった。
ナギ「シグレ……! なぜお前がここにいる」
かつての無二の親友。王都の特別育成機関で共に背中を預けた男は、一切の感情を排した声で告げた。
シグレ「大義の前では個人の感情など無価値だ。犠牲を理解しろ。……そこの女は、世界を蝕む結晶病の特異点だ」
ドクン、と。
ナギの心臓が、耳障りな音を立てる。
シグレ「彼女を最果ての海で殺さなければ、この世界は完全に結晶に飲み込まれる。ナギ、お前はまた、世界より個人の感傷を優先するのか?」
冷酷な事実が、ナギの古傷を容赦なく抉る。
ナイフを構える指先が、微かに震えた。
その時。
背中に回されていた小さな手が、ナギのコートから離れた。
ホシノ「……そうなんだね。私、やっぱり……道具、だったんだ」
ホシノはナギの隣をすり抜け、シグレの方へと歩み寄る。
右腕の結晶が、悲鳴を上げるように激しく明滅していた。
ナギ「待て、ホシノ! 行くな!」
ホシノ「いいの。これで、いいの。私がいなくなれば、ナギはもう、傷つかなくて済むから」
振り返った彼女の頬を一筋の滴が伝う。
硝子細工の瞳が、初めて人間らしい水気を帯びていた。
シグレは油断なく銃口を下げ、ホシノの腕を掴む。
シグレ「賢明な判断だ」
薄闇に沈んでいく二つの影。
伸ばしたナギの手は空を掻き、虚空を彷徨う。
また、手を離した。自分の弱さのせいで。
第四章: 降りしきる雨と呪縛

氷雨が、崩壊した街の残骸を激しく打ち据える。
雨の冷たさは、容赦なく体温を奪っていった。
膝から力が抜け、ナギは泥まみれの水たまりに崩れ落ちる。
視界がぼやける。
雨音に混じる泥水の跳ねる音。あの日、妹の手が滑り落ちた感触がフラッシュバックする。
『お兄ちゃん、助けて――』
喉の奥で詰まった嗚咽が、声にならずに漏れた。
唇の端が引きつり、冷たい鉛を飲んだように胃の腑が重い。
俺は幸せになってはいけない。生き残る資格なんて、ない。
泥水に沈む銀のロケット。
触れようとした指先が、不意にあの夜の温もりを思い出す。
『初めて、息をしてるって感じがするんだよ』
空っぽの器だった彼女が、初めて見せた生きるための涙。
ナギ「……ふざけるな」
歯を食いしばる。血と鉄の味が口内に広がった。
泥を掴み、無理やり両足に力を込める。
ナギ「勝手に決めるな! 世界の命運なんか、知るか……ッ!」
俺はもう、二度と! 大切な手は離さない!!
色褪せたモッズコートが泥水を跳ね上げる。
雨を切り裂き、狂ったような速度で駆け出した。
視線の先にあるのは、遠く離れた「最果ての海」。
冷え切った体に、かつてない熱だけが燃え盛っていた。
第五章: 星降る海と、君の透明な傷跡

波の音が、静かに満ち引きを繰り返す。
最果ての「星降る海」。
黒い水面は星屑の結晶を吸い込み、銀河のように発光していた。
水際。
ホシノの体はすでに半分以上が青い結晶に覆われ、光の粒子となって空へ溶け出そうとしている。
その背後で、シグレが冷徹に銃の引き金に指をかけた。
シグレ「これで、すべてが終わる」
ナギ「終わらせるかぁぁぁッ!!」
地を蹴る轟音。
ナギの体がシグレの銃口を弾き飛ばし、そのままホシノの細い体へと飛び込む。
ホシノ「ナギ……? だめ、来ないで! 私に触れたら、ナギまで……!」
ナギ「世界なんかどうでもいい! 君の痛みを、俺によこせ!」
ナギは、鋭い結晶が突き刺さるのも構わず、ホシノを力任せに抱きしめた。
肉が裂け、血が流れ、生温かい赤が青い結晶を染め上げていく。
凍りつくような彼女の肌の冷たさと、そこから微かに伝わる生命の鼓動。
ナギの熱い吐息がホシノのうなじにかかり、彼女の震える唇から甘く切ない吐息が漏れる。
重なり合う体温。世界の境界線が溶けていくような、痛切で密やかな熱の交わり。
互いの欠落を埋め合わせるように、二人は深く、強く絡み合った。
その瞬間。
パァァァァンッ!!
抱き合う二人の間から、目眩がするほどの光の奔流が吹き上がった。
ホシノの体を覆っていた青い結晶が、一斉に弾け飛ぶ。
砕け散った無数の破片が星空へとのぼり、海と空の境界線を完全に消失させた。
圧倒的な光彩の中。
シグレは弾かれた銃を見つめ、微かに唇を震わせる。
眼鏡の奥の切れ長の目が、人間らしい熱を帯びて揺らいだ。
シグレ「……馬鹿な奴らだ」
踵を返し、シグレは光の中を一人歩き去っていく。
自らに課した呪いという名のコートを、より深く羽織り直して。
◇◇◇
夜が明けようとしていた。
水平線の向こうから、薄紅色の光が世界を照らし始める。
波打ち際。
ホシノの右腕から結晶は消え去り、そこには透き通るような白い肌が戻っていた。
ナギの腕の中で目を覚ました彼女は、朝日を浴びてふわりと笑う。
ホシノ「ナギ。私、生きてるよ」
ナギ「あぁ。……痛いのは、最初だけだったろ」
世界はまだ錆びついていて、明日どうなるかも分からない。
けれど、ナギの首元で揺れる銀のロケットは、もう過去の重さを持っていなかった。
二人は手を繋ぐ。
足跡を波に浚わせながら、新しい朝日に向かって歩き出す。
どこまでも透明な傷跡を、互いの心に刻み込んだまま。