第一章: 水没駅の幽霊
錆びた鉄と潮風の入り混じる生温かい匂いが、鼻腔を突く。
コンクリートを打ち据える夕立。波の砕ける轟音が重なり、視界は白く煙っていた。
朔は荒い息を吐き出し、濡れた前髪を無造作に掻き上げる。
少し日に焼けた肌。跳ねた黒髪から、雨の雫がしたたり落ちる。汗と雨にまみれた開襟シャツから覗く鎖骨の鈍い光。腕に巻かれた安物のデジタル時計。そして、色褪せた赤いミサンガ。
焦茶色の瞳孔が、目の前のあり得ない光景を捉え、大きく収縮する。
コンクリートの先。海へと真っ直ぐに沈んでいく廃線のレール。
水面を叩く雨粒が、重力に逆行して[Pulse]逆回り[/Pulse]に弾け飛ぶ。
巻き上がる青白い光の粒子。それが雨のカーテンを切り裂き、一つの輪郭を結ぶ。
[FadeIn]透き通るような白い肌。肩口で切り揃えられた、濡れ羽色の黒髪。[/FadeIn]
朝顔柄の古風な浴衣が、夕暮れの微かな光を吸い込んで淡く浮かび上がる。足元。そして指先。それらが時折、[Glitch]ざざっ[/Glitch]とテレビのノイズのように透過し、背後の広大な海を透かして見せていた。
[A:鳴海 朔:興奮]「宵……!」[/A]
喉の奥から絞り出した声。泥水を蹴立て、朔は狂ったように駆け出す。
濡れたスニーカーが滑る。膝を鋭く打ち付けながらも手を伸ばす。
目の前にいる。五年間、狂おしいほどに焦がれ続けた存在。
[A:星野 宵:愛情]「朔。また、来てくれたんだね」[/A]
儚くも優しい声が、雨音の隙間を縫って鼓膜を震わせる。
唇の端が柔らかく弧を描く。宵はそっと右手を差し出した。
朔の指先が、彼女の冷え切った指に触れる——その瞬間。
[Impact]空を切る。[/Impact]
指の感触はない。ただ、雨上がりの生ぬるい風が掌をすり抜けただけ。
勢い余った腕が虚空を掻き、バランスを崩して水溜まりに倒れ込む。口の中に、泥と血の鉄の味が広がった。
[A:鳴海 朔:怒り]「なんで……ッ! また、触れない!」[/A]
[A:星野 宵:悲しみ]「ごめんね。私、もうこの世界にはいないから」[/A]
足元が崩れ落ちる感覚。
朔は濡れたコンクリートを力任せに殴りつける。皮膚が裂ける。赤黒い血が雨水に滲んでいく。痛みなどない。ただ、目の前で笑う彼女の体温を感じられない事実だけが、心臓を鷲掴みにする。
[A:鳴海 朔:絶望]「俺は、絶対に諦めない。何度だって繰り返す。お前が生きている世界を、俺が必ず……!」[/A]
[A:星野 宵:冷静]「私ね、朔が笑っている世界が好きなの。だから……」[/A]
言葉の途中で、宵の輪郭が激しく[Glitch]明滅[/Glitch]する。
空がひび割れるような奇妙な電子音。彼女の姿が光の粒子となって融解し始めた。
[A:鳴海 朔:恐怖]「待て、行くな! 宵!!」[/A]
[Shout]叫び[/Shout]が空に吸い込まれる。
次に瞬きをした時、そこには打ち寄せる波と、永遠に続くような夕焼けの海だけが残されていた。
握りしめた拳の隙間から、赤い血がぽたぽたと滴り落ちる。
[A:鳴海 朔:狂気]「また、失敗した。でも、次は必ず」[/A]
血塗れの唇が、狂気を孕んだ呪文のようにその言葉を紡ぐ。だが彼はまだ知らない。次のループが、この世界に決定的な終焉をもたらすことを。

第二章: 崩壊の足音とオーロラ
斜陽の街、凪ノ浦。
空を見上げれば、巨大なオーロラのような「時間の断層」が、毒々しい紫と緑のグラデーションを描いて揺らめいている。
「カシャッ」
乾いたシャッター音が、路地裏の静寂を切り裂く。
後ろでルーズに束ねた茶髪を揺らし、鳴海岬がファインダーから目を離す。履き慣れたデニム。擦り切れたレザージャケット。首から下げた年代物のフィルムカメラからは、微かに古い薬品の匂いが漂っていた。
[A:鳴海 岬:悲しみ]「今の景色を、ちゃんと見ておきなさい。……なんて言っても、あんたには届かないわよね」[/A]
視線の先。錆びたガードレールの傍らに立ち尽くし、空の断層を虚ろな目で見上げる弟の背中。
口を真一文字に結び、岬は小さく息を吐き出す。
[A:鳴海 岬:怒り]「あんた、また寝てないんでしょ。目の下、真っ黒じゃない」[/A]
[A:鳴海 朔:冷静]「平気だよ。姉ちゃんこそ、そんなガラクタで空撮っても何にもならないだろ」[/A]
[A:鳴海 岬:冷静]「ガラクタじゃないわよ。……変わっていくものを、残しておきたいだけ」[/A]
弟の背中が、どこか遠い異次元へ消えてしまいそうな危うさを帯びている。岬は革ジャンのポケットで拳を握りしめ、それ以上踏み込む言葉を奥歯で噛み殺した。
◇◇◇
[Tremble]ギリッ[/Tremble]と、ネジを巻き上げる音が理科室に響く。
廃校となった中学校。机の上に積み上げられた無数のジャンク品。複雑な数式が書き殴られた黒板。ブラックコーヒーの焦げたような苦い匂いが、部屋の空気を重く沈ませていた。
[A:灰原 蓮:冷静]「君の行動は確率の無駄遣いだよ、鳴海くん」[/A]
長身痩躯。ボサボサの銀髪の下から、三白眼が朔を射抜く。季節外れのヨレヨレの黒いタートルネックの上に、薄汚れた白衣。目の下の深い隈が、彼もまた夜の闇に取り憑かれた住人であることを示している。
[A:鳴海 朔:怒り]「うるさい。観測の精度は上がってる。次はあの特異点に干渉できるはずだ」[/A]
蓮は手に持っていたチェスの駒——黒のキング——を、盤面の外へと無造作に弾き飛ばす。
駒が床に落ち、甲高い音を立てた。
[A:灰原 蓮:絶望]「奇跡なんてものは、観測エラーの別名に過ぎない。いい加減に理解したらどうだい。……世界はただの物理法則だ」[/A]
[A:鳴海 朔:興奮]「法則なんか知るか! 宵を救えるなら、俺はどうなったっていい!」[/A]
蓮の眉間が一瞬だけ跳ねる。かつての自分を見るような、哀愁と苛立ちの入り混じった視線。
彼は白衣のポケットから、古びた懐中時計を取り出した。針は、狂ったように逆回転を続けている。
[A:灰原 蓮:冷静]「次の夏祭りの夜。空の断層が臨界点に達する。次元の境界は完全に崩壊し、この街は量子の海に沈むだろうね」[/A]
[Impact]宣告だった。[/Impact]
[A:鳴海 朔:驚き]「崩壊……? そんな、じゃあ時間が巻き戻るわけじゃ……」[/A]
[A:灰原 蓮:冷静]「タイムリミットさ。君が過去に執着し続けた結果、世界の存在確率は底をついた」[/A]
心臓が嫌な音を立てて早鐘を打つ。
喉が渇く。朔は胸元のシャツを強く握りしめ、呼吸を整えようともがく。
窓の外。夕暮れの街を包み込むオーロラが、不気味な脈動を始めている。世界をやり直す猶予など、もうどこにも残されていなかった。

第三章: 届かない指先
冷たい雨が、頬を容赦なく叩く。
水没駅のプラットホーム。足元まで迫った海面が、黒く波打っている。
傘も差さず、朔は肩で息をしながら立っていた。
雨のベールの向こう側。
[FadeIn]宵がいる。[/FadeIn]
だが、その姿は目を覆うほどに酷い有様だった。
足元だけでなく、浴衣の裾、白く細い腕、そして頬までもが[Glitch]激しいノイズ[/Glitch]に侵食されている。
空間が歪み、彼女の姿が二重、三重にブレては元に戻る。
[A:鳴海 朔:恐怖]「宵! なんだよそれ、体が……!」[/A]
[A:星野 宵:悲しみ]「来ちゃダメ……ッ!」[/A]
一歩踏み出そうとした朔を、鋭い声が制止する。
宵の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。だがその涙も、地面に届く前に青い光となって消滅していく。
[A:星野 宵:悲しみ]「気づいてたんだ。私がここに現れるたびに、空のオーロラが大きくなっていること。私の存在が、朔の時間を……この世界を壊してる」[/A]
[A:鳴海 朔:怒り]「違う! お前のせいじゃない! 俺が、俺がもっと早く見つけていれば!」[/A]
朔の全身が[Tremble]小刻みに震える[/Tremble]。
安物の時計が刻む電子音が、やけに大きく耳に響いた。
[A:星野 宵:愛情]「もう私を探さないで、朔」[/A]
[Whisper]絞り出すような、ひび割れた声。[/Whisper]
[A:星野 宵:冷静]「私はもう、五年前の夏に死んでいるの。ただの過去の幽霊なの」[/A]
[A:鳴海 朔:絶望]「ふざけるな! 生きてるだろ、ここで俺と話してるだろ!」[/A]
朔はなりふり構わず駆け出した。
水しぶきを上げ、ノイズに包まれた彼女の肩を強く抱き寄せようとする。
だが。
[Impact]すり抜ける。[/Impact]
幾千回、幾万回と繰り返した残酷な物理法則。
朔の腕は虚空を抱き、彼女の体温を僅かばかりも感じ取ることはできない。
[A:鳴海 朔:悲しみ]「どうして……っ、触れさせてくれよ! なぁ!」[/A]
膝から力が抜け、冷たい水溜まりに崩れ落ちる。喉の奥で詰まった嗚咽が、声にならずに漏れる。
宵はそっとしゃがみ込み、透ける指先で朔の濡れた頬を撫でるような仕草を見せた。感触はない。ただ、彼女の切なげな微笑みだけが網膜に焼き付く。
[A:星野 宵:愛情]「さようなら、私の大好きな人」[/A]
[Glitch]ザザザザザッ!![/Glitch]
鼓膜を破るようなノイズ音と共に、宵の姿が爆発的に発光する。
目を細めた一瞬の隙に、彼女の姿は完全に空間の深淵へと溶けて消え去った。
残されたのは、激しさを増す雨音と、手の中に残る永遠の空白。
決定的な喪失が、朔の胸のど真ん中に、ぽっかりと黒い穴を穿つ。

第四章: 観測者の選択
夏祭りの夜。
本来ならば、遠くで太鼓の音が響き、夜店が並ぶはずの時刻。
だが、凪ノ浦の空は完全に狂っていた。
[Flash]ピシッ……! ピキキキィィン!![/Flash]
空を覆うオーロラに、巨大な亀裂が走る。
ガラスが割れるような轟音と共に、次元の断層が口を開けた。
地上にあるすべての物体——信号機、ガードレール、打ち捨てられた自転車——が、重力を失って空へと吸い上げられていく。
焦げたオゾンのような異臭が、暴風に乗って街を蹂躙する。
[A:鳴海 岬:恐怖]「朔! あんた、どこに行くの!」[/A]
強風に煽られながら、岬がレザージャケットの襟を掴んで叫ぶ。
その手には、フィルムの切れたカメラが握られていた。
[A:鳴海 朔:興奮]「姉ちゃんは逃げて! 俺は、あそこに行く!」[/A]
朔が指差す先。渦巻く光の嵐の中心に、黒々とした特異点の穴が開いている。
そこに、蓮が白衣をはためかせて歩み寄ってきた。
銀髪が狂ったように舞い上がり、彼の三白眼には確かな焦燥が浮かんでいる。
[A:灰原 蓮:怒り]「馬鹿な真似はよせ! 世界を安定させるには、あの特異点に干渉し、彼女の存在確率を完全に消去するしかないんだ!」[/A]
[A:鳴海 朔:冷静]「……消去なんて、させない」[/A]
[A:灰原 蓮:絶望]「君が死ぬぞ! 観測者が特異点に飛び込めば、君自身の存在が確率の海に散る! 君という人間が、最初からいなかったことになるんだぞ!」[/A]
蓮の言葉が、雷鳴のように響く。
だが、朔の足は止まらない。
色褪せたミサンガを指でなぞり、彼はゆっくりと振り返る。
[A:鳴海 朔:冷静]「蓮さん。俺は、完璧な世界なんていらない」[/A]
唇の端が引きつる。恐怖ではない。それは、五年間の執着の果てに見つけた、ただ一つの答え。
[A:鳴海 朔:愛情]「あいつがいない世界で、息をして、飯を食って、年を取っていく。……そんなの、生きてるって言わないだろ」[/A]
[A:鳴海 岬:悲しみ]「朔……やめなさい! お願いだから!」[/A]
岬の悲鳴を背に受けながら、朔は地を蹴った。
崩れゆく時空の渦へ。
周囲の景色が極彩色に歪み、重力が捻じ曲がる。
[A:鳴海 朔:興奮][Shout]「死にたくねぇ! でも、お前を一人にはしない!!」[/Shout][/A]
鼓膜を突き破る暴風の中、朔は単身、特異点の暗黒へとダイブする。
世界が裏返るような衝撃が、彼の意識を白く染め上げていった。

第五章: 水没都市と君の特異点
[Sensual]
りんご飴の甘い匂いが、ふわりと鼻をかすめる。
気がつけば、朔は五年前の夏祭りの踏切に立っていた。
周囲の景色は白飛びし、音のないスローモーションの世界。
カン、カン、カンという幻聴のような警報音が遠くで鳴っている。
遮断機の向こう側。
[FadeIn]宵が立っている。[/FadeIn]
朝顔柄の浴衣。少しだけ驚いたように見開かれた瞳。
その体は、今まさに光の粒子に分解され、特異点へ吸い込まれようとしていた。
[A:鳴海 朔:愛情]「宵……!」[/A]
朔は踏切のレールを蹴り、無我夢中で両腕を広げる。
今度こそ。今度こそ、すり抜けさせない。
[Impact]ドンッ、と。[/Impact]
確かな質量が、腕の中に飛び込んできた。
柔らかい髪の感触。華奢な肩。そして、微かに震える熱い体温。
[A:星野 宵:驚き]「朔……? どうして、触れ……」[/A]
[A:鳴海 朔:喜び]「捕まえた。もう、絶対に離さない」[/A]
朔は宵の身体をきつく抱きしめる。
互いの鼓動が、薄い浴衣と制服のシャツ越しに重なり合う。
ドクン、ドクンと、一つの生き物のように脈打つ。
朔の視界が急速に霞み、自身の指先から光の粒子がこぼれ落ち始めた。
[Magic]《観測者の存在確率の譲渡》[/Magic]
己の命、記憶、存在そのものを、彼女の輪郭を繋ぎ止めるための楔として流し込む。
朔の体が透け始め、代わりに宵の体に確かな血の気が戻っていく。
[A:星野 宵:恐怖]「やだ、朔が消えちゃう! だめ、こんなの……っ!」[/A]
宵の瞳から大粒の涙が溢れ、朔の頬を濡らす。
温かい。本物の涙の温度。
[A:鳴海 朔:愛情]「泣くなよ。……お前が生きている世界を、俺が観測した。それだけで、俺の時間は完璧なんだ」[/A]
朔の唇が、宵の額にそっと触れる。
生温かい息遣い。震える唇の感触。
それが、彼がこの世界に残した最後の熱だった。
[A:鳴海 朔:喜び]「またな、宵」[/A]
[Flash]カッ——!![/Flash]
圧倒的な光の奔流が、二人を包み込む。
朔の体は無数の星屑となって弾け飛び、崩壊しかけていた空のオーロラを修復するように、世界中へと降り注いでいった。
[/Sensual]
◇◇◇
数年後。
完全に海に沈んだ、水没駅の跡地。
穏やかな波音が響く中、一人の女性が水際を歩いている。
白いサマードレスの裾が潮風に揺れる。
大人になった星野宵は、透き通るような青空を見上げて立ち止まる。
空からは、狐の嫁入りのような細い雨が降っている。
雨粒が海面を叩き、小さな波紋を広げていく。
ふと、雨上がりの生ぬるい風が、彼女の頬を優しく撫でた。
まるで、少し不器用な誰かの掌のように。
[A:星野 宵:喜び]「……うん。私も、絶対諦めないよ」[/A]
彼女の首元で、色褪せた赤いミサンガが揺れる。
宵は目を閉じ、深く息を吸い込む。
悲しみはない。ただ、彼女の胸の奥底には、確かに彼が観測し、繋ぎ止めた世界の熱が脈打っている。
雨粒に反射する陽光の中。宵は希望に満ちた柔らかな微笑みを浮かべ、未来へと続く道を歩き出した。