第一章: 雨上がりの夕暮れ
アスファルトの窪みに溜まった雨水が、燃えるような茜空を鈍く反射している。
オーバーサイズの黒いパーカーのポケットに両手を突っ込み、凪原 透は靴底でその水面を濁した。無造作に伸びた黒髪が、海から吹き付ける湿った風に煽られる。焦点の定まらない三白眼。見つめる先は、色褪せたデニムの裾にこびりついた泥の染みだけ。
鼻腔を突く、雨上がりのアスファルトが発する生温かい匂い。夏の終わりの、ひどく息苦しい残香。
[A:凪原 透:冷静]「どうせ、何も変わりはしない」[/A]
独り言は、遠くの波音に容易くかき消された。
[Pulse]背後で、重ったるいエンジン音が響く。[/Pulse]
ブレーキの甲高い摩擦音。振り向くよりも早く、聞き慣れた声が鼓膜を打つ。
[A:宵野 湊:喜び]「透! 迎えに来たよ」[/A]
錆びついたキャンピングカーの窓から身を乗り出しているのは、宵野 湊。肩で切り揃えられた栗色のボブヘアが夕日を受けて透き通る。鮮やかな黄色のカーディガンと白いワンピースが、夕闇の迫る灰色の町で、暴力的なまでに目を引いた。
[A:凪原 透:冷静]「……何してんだ、お前」[/A]
[A:宵野 湊:照れ]「お姉ちゃんの忘れ物、届けに行こうと思って」[/A]
湊がダッシュボードから無造作に取り出し、こちらへ差し出したもの。
[Impact]呼吸が、止まる。[/Impact]
ずっしりとした金属の質量。銀色のフィルムカメラ。透き通るような白い肌の少女が、いつも首から下げていた代物。
[A:凪原 透:驚き]「それは……」[/A]
[A:宵野 湊:冷静]「昨日、お姉ちゃんの部屋の片付けしてたら見つけたの。それと、これ」[/A]
湊の指先から渡されたのは、ひどく黄ばんだ一枚の葉書。
裏面には何も書かれていない。表の切手部分に押された消印の文字だけが、微かな輪郭を保っている。
『星降る岬』。
北へ数百キロ離れた、最果ての断崖絶壁。
[A:宵野 湊:興奮]「私がいなきゃダメなんだから、しっかりしてよ。ほら、乗って!」[/A]
無理に作ったような明るい声。ドアが開く。
透の指先が、冷たいカメラのボディに触れた。シャッターボタンの感触が、手のひらを焼くように熱い。
水溜まりに映る茜空が、タイヤに轢かれて無数の飛沫へと砕け散る。
止まっていた時間が、強引に歯車を回し始めていた。
◇◇◇

第二章: 北へ向かう海岸線
夜の帳が下りた国道を、キャンピングカーは呻き声を上げながら北上していく。
ヘッドライトが照らし出すのは、ひたすらに続く白線と、右手に広がる漆黒の海。
エンジンオイルの焦げたような匂いが、車内に充満していた。
[A:宵野 湊:喜び]「この車、お父さんが昔乗ってたやつだからさ、ちょっと癖があるんだよね」[/A]
湊はハンドルを握りながら、早口でまくしたてる。
透は助手席で黙ったまま、膝の上のカメラを見つめていた。窓ガラスに反射する自分の顔は、ひどく空虚だ。
道中、明かりの灯るプレハブ小屋に車を寄せる。
シャッターが半開きになったガレージ。[Impact]カーン、と甲高い金属の打撃音が夜気を切り裂いた。[/Impact]
[A:柴崎 蓮:驚き]「あ? なんだお前ら、こんな夜更けに」[/A]
油汚れのついたツナギ姿の柴崎 蓮が、レンチを手に姿を現した。短く刈り込んだ茶髪。日焼けした筋肉質な体躯から、汗と安い煙草の匂いが漂う。首に巻かれたタオルで顔を拭い、蓮は不機嫌そうに眉をひそめる。
[A:宵野 湊:照れ]「蓮くん、久しぶり。ちょっとエンジンの調子が悪くて」[/A]
[A:柴崎 蓮:冷静]「……ボンネット開けな」[/A]
蓮は手際よく点検を済ませると、ボンネットを乱暴に叩き閉めた。
[A:柴崎 蓮:怒り]「だましだましなら走る。だがな、こんなポンコツでどこ行くつもりだ」[/A]
[A:凪原 透:冷静]「星降る岬だ。灯里の、忘れ物を届けに」[/A]
その名前が出た瞬間、ガレージの空気が凍りつく。
蓮の動きが止まった。舌打ちが夜の空気に鋭く響く。
[A:柴崎 蓮:怒り]「いつまで過去に縋ってんだ、バカ野郎」[/A]
[Impact]胸ぐらを締め上げられる。[/Impact]
油と鉄の匂いが鼻先まで迫る。蓮の目が、暗闇の中で獣のように光っていた。
[A:柴崎 蓮:怒り]「灯里は死んだ! もういねぇんだよ! お前が写真から逃げたのも、生ける屍みたいに生きてんのも、全部あいつのせいにしてんじゃねえぞ!」[/A]
[A:凪原 透:恐怖]「違う、俺は……俺が、あいつを救えなかったから」[/A]
喉の奥から絞り出した声。自分でも驚くほど弱々しい。
[Tremble]透の身体が、細かく震える。[/Tremble]
[A:柴崎 蓮:絶望]「救えなかった? 思い上がるな。お前一人が背負えるような命じゃなかったんだよ。それをお前は……隣にいる湊のことすら見ようとしないで!」[/A]
蓮の手が離れる。よろめいた透の背中を、冷たい海風が打ち据えた。
振り返る。キャンピングカーの影で湊が俯いていた。黄色のカーディガンを強く握りしめ、顔を伏せたまま。
[A:宵野 湊:悲しみ]「……蓮くんの言う通りだよ」[/A]
絞り出すような、ひび割れた声。
[A:宵野 湊:絶望]「透が見ているのは、私じゃない。お姉ちゃんの幻影だ。私がいくら隣で笑ったって……透の目は、ずっと遠くの空っぽな場所を見ている!」[/A]
[A:凪原 透:驚き]「湊……」[/A]
[A:宵野 湊:怒り][Shout]「もういい! 触らないで!」[/Shout][/A]
湊は透の手を振り払い、運転席へと駆け込む。
乱暴にドアが閉まる音。エンジンが咆哮を上げた。
夜の海辺。容赦なく打ち寄せる波音が、三人の間に開いた巨大な亀裂を嘲笑うように反響し続けていた。
◇◇◇

第三章: 嵐の夜のすれ違い
フロントガラスを打ち付ける雨粒が、視界を完全に奪っていく。
ワイパーは狂ったように左右に振れ、ゴムの擦れる嫌な音を立てる。
車内は重く、冷たい沈黙に支配されていた。
突然、足元から鈍い爆発音が響いた。
[Glitch]ガガガガッ、シュルルルル……![/Glitch]
ハンドルが激しくブレる。湊が必死にブレーキを踏み込むが、キャンピングカーは黒いアスファルトの上を滑り、ガードレールの寸前でようやく止まった。
ボンネットから、白い水蒸気が雨の中に噴き出していた。
[A:宵野 湊:恐怖]「どうしよう……動かない、エンジンがかからないよ」[/A]
何度キーを回しても、虚しいセルモーターの音が響くだけ。
透の喉仏が上下する。蓮に言われた言葉が、頭の奥で呪いのように渦巻いていた。
[A:凪原 透:怒り]「だから言っただろ。こんなオンボロで来るべきじゃなかった」[/A]
[A:宵野 湊:驚き]「え……?」[/A]
[A:凪原 透:絶望]「お前が無理やり引っ張り出したんだろうが。俺は元々、こんなことしたくなかった。どうせ何も、変わりはしないんだ」[/A]
吐き捨てた瞬間、自分の口から出た言葉の鋭さに気づく。
湊の大きな瞳が、暗闇の中で揺れた。唇の端が引きつり、呼吸が浅くなる。
湊は静かにドアノブへ手をかけた。
手には、あの銀色のカメラが抱き抱えられていた。
[A:凪原 透:驚き]「おい、どこへ行く」[/A]
[A:宵野 湊:絶望]「探さないで」[/A]
[Flash]ドアが開き、横殴りの雨が車内に吹き込む。[/Flash]
黄色のカーディガンが、夜の闇へと吸い込まれていく。
透は一瞬遅れて車を飛び出した。
泥水がスニーカーを汚し、冷たい雨が全身の体温を容赦なく奪っていく。
[A:凪原 透:恐怖][Shout]「湊! 湊ぉっ!」[/Shout][/A]
視界は泥と雨で完全に塞がれている。
ライトのない山道。足元がぬかるみ、膝から崩れ落ちる。手のひらに泥の冷たさと、鋭い石の痛みが走った。
雨の匂いに混じる、土の生臭さ。
[Think]俺は何をしている。何を失おうとしている?[/Think]
灯里の幻影を追いかけ、過去に縛られていた。
だが今、この暗闇の中で消えてしまいそうなのは、いつも不器用に笑って、自分の隣にいようとしてくれた湊だ。
胸の奥が、焼け焦げるように痛む。
[A:凪原 透:恐怖][Shout]「湊ぉぉぉっ!!」[/Shout][/A]
泥まみれになりながら、透は叫び続ける。
木々のざわめきと雨音が、透の声を無情に呑み込んでいく。絶対的な孤独の夜が、彼を押し潰そうとしていた。
◇◇◇

第四章: 星降る岬
雨が上がり、東の空が白み始めている。
泥だらけのまま夜通し歩き続けた透の視界に、ついに海が開けた。
『星降る岬』。
眼下には、底知れないほど深い群青の海。頭上では夜の帳が引き裂かれ、燃えるような朝焼けが広がっていた。
満天の星の名残が、白んでいく空に微かに瞬いている。
冷たい潮風が、頬にこびりついた泥を乾かしていく。
岬の先端、白い灯台のふもと。
そこに、膝を抱えてうずくまる小さな影があった。
白いワンピースは泥に汚れ、黄色のカーディガンはずぶ濡れになっている。
[A:凪原 透:愛情]「湊……!」[/A]
足をもつれさせながら駆け寄った。
湊がゆっくりと顔を上げる。その目は赤く腫れ、唇は寒さで青ざめていた。胸には、カメラがしっかりと抱きしめられている。
[A:宵野 湊:悲しみ]「ごめんね……私、お姉ちゃんみたいに、透を救えなかった」[/A]
[A:凪原 透:悲しみ]「違う。違うんだ。俺の方こそ……ごめん」[/A]
透は湊の隣に膝をつき、その震える肩を不器用に包み込む。
湊の手からカメラを受け取る。
指先が震える。背面のカバーを開けると、中には一本のフィルムが装填されたままになっていた。
透はリュックから、携帯用の現像タンクと薬品のボトルを取り出した。
岬の休憩所の裏手、光の届かない影に隠れ、手探りでフィルムを巻き取る。
現像液の強烈な酸っぱい匂い。潮風に混じるそれは、どこか痛切だ。
無限とも思えるほどの時間が過ぎ去る。
やがて、水で洗い流したフィルムを、朝陽に透かした。
[Flash]透の瞳孔が、限界まで開く。[/Flash]
フィルムの最後に焼き付いていたのは、風景ではなかった。
ピントは甘く、少しブレている。
写っていたのは、不意に吹き出しそうに笑い合う、透と湊の姿。
キャンピングカーの横で、他愛もないことでじゃれ合う二人。
[A:宵野 灯里:愛情]『一番綺麗な瞬間を、ずっと残しておきたいの』[/A]
[FadeIn]風の音に混じって、ふんわりとした消え入るような声が聞こえた。幻聴だ。だが、確かに。[/FadeIn]
灯里が残したかったのは、自分という過去への呪縛ではない。
残される透と、妹の湊。二人が共に笑って生きていく、未来の景色。
[A:凪原 透:絶望]「ああ……あああっ……」[/A]
喉の奥で何かが決壊する。
透の両目から、大粒の涙が溢れ落ちた。泥に汚れた手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣き崩れる。
[A:凪原 透:悲しみ]「俺は、馬鹿だ……ずっと、ずっと背を向けて……」[/A]
湊がそっと、透の背中に腕を回す。
[A:宵野 湊:愛情]「透……」[/A]
[Sensual]
湊の温かい体温が、濡れた服越しに伝わってくる。
透は顔を上げ、湊を強く抱きしめ返した。泥だらけの二人の体が重なり、互いの鼓動が重鳴り合う。
[Pulse]ドクン、ドクン。[/Pulse]
[A:宵野 湊:愛情][Whisper]「もう、どこにも行かないで」[/Whisper][/A]
湊の小さなつぶやきが、透の首筋に熱い吐息と共に触れる。
[/Sensual]
燃えるような朝陽が、二人のシルエットを岬の先端に長く描き出す。
波の音が、すべての痛みを洗い流すように優しく響いていた。
◇◇◇

第五章: 君のいない朝へ
帰路。
役目を終えたキャンピングカーは、もう二度とエンジンがかからなかった。
代わりに二人が乗っているのは、海岸線を走るローカル線のボックス席。
ガタン、ゴトン。単調で心地よい揺れ。
窓の外を流れる海は、昨夜の嵐が嘘のように穏やかに煌めいている。
奇跡は起きなかった。
死んだ人間は生き返らない。失った時間が戻ることもない。
だが。
[A:凪原 透:冷静]「……」[/A]
透は膝の上に置いたカメラを、静かに持ち上げる。
ファインダーを覗き込む。
レンズの先にあるのは、向かいの席で微かな寝息を立てる湊の姿。
黄色のカーディガンには泥の染みが残っていた。それでも、窓からの柔らかな光に包まれたその寝顔は、ひどく無防備で愛おしい。
[Think]変わらないものなんて、ない。[/Think]
指先が、シャッターボタンに触れる。
もう、迷いはない。
[Impact]カシャッ。[/Impact]
乾いた機械音が、車内の静寂に響いた。
湊が小さく身をよじり、うっすらと目を開けた。
[A:宵野 湊:照れ]「……ん、透……? 今、撮った?」[/A]
[A:凪原 透:喜び]「ああ。ひどい寝顔だったからな」[/A]
[A:宵野 湊:怒り]「ちょっと! 消してよ、もう!」[/A]
唇を尖らせて抗議する湊の顔を見て、透の唇から自然と笑みがこぼれる。
何年ぶりかわからない、自分自身の笑い声。
窓の外。
星の降る海を抜けて、君のいない朝が続く。
その痛みも、喪失も、すべてをこのファインダー越しに抱擁していく。
微かな現像液の匂いが残る指先で、透はもう一度、未来に向けてシャッターを切った。