第一章: 反転する海と錆びた祈り
雨上がりのアスファルトから立ち昇る熱気。むせ返るような鉄の匂いと混ざり合う。
逆巻く突風の中、無造作に伸びた黒髪が汗で額に張り付く。腕まくりした白いシャツには黒いオイルの染みが点在し、使い古された作業ズボンがバタバタと乱暴に音を立てていた。焦燥を煮詰めたような黒い瞳が、頭上のあり得ない光景を睨みつける。
空に向かって落ちていく体。
風に揺れる亜麻色の長い髪が、重力に逆らって真上へと巻き上がる。透き通るような、病的なほど白い肌。華奢な足首には、彼女を地上に留めるためのひどく重い鉛のブーツ。
[Impact]空の深淵をそのまま掬い取ったような青い瞳が、宙吊りのままナツキを見つめていた。[/Impact]
錆びついた廃線跡。枕木を蹴り飛ばし、ナツキは宙へ手を伸ばす。
指先が擦れ、爪の間に泥が食い込む。間一髪。細い手首を掴み取った。手首の骨が軋むほどの強い力。
[Tremble]頭上に広がるのは、波打つ巨大な水鏡。[/Tremble]
空の青ではなく、深く黒い『もう一つの海』がそこにあった。水たまりから撥ねた雨粒が、重力を忘れたように天に向かって一滴、また一滴と昇っていく。
[A:アサガオ:悲しみ]「ごめんね、ナツキ」[/A]
風に掻き消されそうな声。アサガオの唇の端が、諦めを孕んで微かに引きつる。
[A:アサガオ:愛情]「私ね、いつかあの空の海を泳いでみたいんだ」[/A]
[A:ナツキ:怒り]「ふざけんな。俺が絶対に、お前を地上に繋ぎ止めてやる」[/A]
喉仏が大きく上下する。全身の筋肉が軋みを上げ、手首を握りしめる指にさらに力がこもる。
だが、アサガオの体はまるで羽毛のように軽い。彼女を天空へと引きずり込もうとする『浮遊病』の目に見えない引力が、ナツキの腕ごと天へ持ち上げようとしていた。
冷たい雨の滴が、下から上へと頬を逆流していく。
◇◇◇

第二章: 鉛の靴と鉄屑の翼
微かに舌を刺す、ラムネの甘い炭酸。
結露したガラス瓶の冷たさが、掌の熱を奪う。
海沿いの錆びれた廃駅。屋根の抜け落ちた待合室に、鉛のブーツを引きずる重たい足音が響いていた。
[A:アサガオ:喜び]「今日は雲の形が綺麗だね。クジラみたい」[/A]
イーゼルの前でキャンバスに向かうアサガオの背中。彼女は一度見た情景を完璧にカンバスへ焼き付ける。その手首には、鉛を仕込んだ太い革のブレスレット。すべては、彼女をこの地面に縛り付けるための『重り』だ。
[A:ナツキ:冷静]「……そうだな」[/A]
気休め。
そんなものでは、到底抗いきれない。
背後の影。規則正しい足音が、ひび割れたタイルを踏みしめる。
銀縁の眼鏡の奥に冷たい光を宿したトウヤ。きっちりと一番上までボタンを留めた制服には、シワ一つない。
[A:トウヤ:冷静]「馬鹿げている。現実を見ろ、ナツキ」[/A]
平坦な声。トウヤは、床に散らばった歯車やモーターの残骸を爪先で小突く。
[A:トウヤ:怒り]「空なんて見上げるな。絶望が深くなるだけだ。彼女の体が軽くなる速度は、お前の想像を超えている」[/A]
[A:ナツキ:怒り]「うるせえ。俺が直す。全部俺が繋ぎ止めるって言ってんだろ」[/A]
スパナを握る手に油汗が滲む。
ナツキの目の前にあるのは、山のような廃材。圧縮シリンダー、車のラジエーター、千切れたパラグライダーの布。それらを溶接し、組み上げ、不格好な『翼』の骨格を作り上げていた。
[A:トウヤ:絶望]「彼女がいなくなる前に、お前の方から手を離せ。……でないと、引き留めるお前の腕ごと千切れるぞ」[/A]
トウヤの眉間に深いシワが刻まれる。その言葉の奥底で、何かが致命的に軋む音をナツキは聞いた気がした。
だが、手を止めるわけにはいかない。
鋭利な鉄の破片が指先を切り裂き、赤い血が黒いオイルと混ざり合う。痛覚すらもどかしい。
ふと、視界の端。
キャンバスに向かうアサガオの、鉛のブーツの靴底。
それが、地面から数ミリ、音もなく浮き上がっていた。
◇◇◇

第三章: 裁ち鋏と星の海
秋の風が、冷たく頬を撫でる。
灯籠祭りの夜。無数の和紙の光が、ゆらゆらと天の海へ向かって舞い上がる。
廃駅の屋上。
[Sensual]
アサガオの足は、もう完全に地を捉えていなかった。
宙に浮く彼女の細い腰に巻き付けられた、太い麻縄。その端を、ナツキは両手で血が滲むほど固く握りしめている。
[A:アサガオ:愛情]「ナツキ」[/A]
亜麻色の髪が風に踊る中、アサガオが両手でナツキの頬を包み込んだ。
氷のように冷たい指先。
[A:アサガオ:愛情]「ナツキの手、温かいね……」[/A]
その体温を確かめるように、彼女の親指がナツキの目の下をそっと撫でる。触れ合う肌の境界線だけが、唯一の現実。彼女の吐息の甘い匂いが、すぐ鼻先を掠める。
[/Sensual]
[A:ナツキ:愛情]「絶対に離さねえからな。俺が、お前をここに置いておく」[/A]
[Pulse]ドクン、ドクン。[/Pulse]
鼓動が早鐘を打つ。ナツキの腕の筋肉が限界まで張り詰める。アサガオを引っ張る空の引力は、もはや麻縄の繊維を引きちぎりそうなほど強烈だった。
[A:アサガオ:悲しみ]「ううん。違うよ、ナツキ」[/A]
青い瞳が、悲しいほど透き通った光を放つ。
アサガオの華奢な手が、ポケットに滑り込む。
取り出されたのは、銀色の裁ち鋏。
[A:ナツキ:驚き]「おい、何して……やめろ!」[/A]
[A:アサガオ:絶望]「私のせいで、ナツキの人生が縛られるのは嫌なの。誰かの重荷になるくらいなら、私は……」[/A]
ハサミの刃が、ピンと張り詰めた麻縄に当てられる。
[A:ナツキ:恐怖]「やめろッ! ふざけんな、俺は重荷なんかじゃねえ!」[/A]
[A:アサガオ:愛情]「ごめんね、私なんかのために。……私を、空に放して」[/A]
微笑み。
その顔は、初めて出会った日よりもずっと、穏やかで美しい。
[Impact]ジョキリ。[/Impact]
鈍い音。
繊維が弾け飛ぶ。
手の中から、重さが消滅した。
◇◇◇

第四章: 剥き出しの牙
[Shout]アサガオォォォ!![/Shout]
喉が裂けるほどの絶叫。
切断された麻縄が、蛇のように宙を舞う。
足首の鉛のブーツごと、アサガオの体はゆっくりと、抗いがたい速度で上空へと吸い込まれていく。
手を伸ばす。届かない。あと数ミリ。指先が虚空を掻く。
[A:ナツキ:絶望]「ああああぁぁぁッ!!」[/A]
膝から力が抜け、コンクリートの床に崩れ落ちた。拳を叩きつける。何度も、何度も。皮膚が破れ、骨が軋む。口の中に広がる、鉄のような血の味。
見上げることしかできない。重力という名の呪いに縛られた己の体が、これほど憎いことはなかった。
[A:トウヤ:冷静]「……だから、言ったはずだ」[/A]
背後の暗がり。
トウヤが立っていた。銀縁の眼鏡の奥、その瞳はひどく充血している。
[A:ナツキ:怒り]「てめえ……ッ! 引っ込んでろ!」[/A]
胸ぐらを掴もうと飛びかかるナツキを、トウヤは避けない。そのまま壁に打ち付けられながら、トウヤの口から吐き出されたのは、冷笑ではなく、血を吐くような慟哭だった。
[A:トウヤ:悲しみ]「俺も、手を離したんだッ!」[/A]
[Tremble]トウヤの全身が激しく震える。[/Tremble]
平坦だった彼の声が、ボロボロにひび割れていた。
[A:トウヤ:絶望]「姉さんが空に落ちる時……引き留める自分の腕が痛くて、手首が千切れるのが恐ろしくて……俺は、自分から縄を手放した! 希望を持たなければ、こんな痛みを知ることもなかった!」[/A]
瞳孔が開き、涙が眼鏡のレンズを濡らす。
[A:トウヤ:怒り]「お前の自由は、ここから目を逸らして生き延びることか! そうじゃないだろ!」[/A]
息を呑む。
ナツキは、壁の隅に鎮座する『それ』を見た。
オイルにまみれ、不格好に溶接された鉄屑。未完成の、ガラクタの翼。
己の恐怖を彼女に押し付け、ただ縛り付けようとしていた自分。
本当の自由とは、彼女を手放すことではない。
共に空へ落ちることだ。
遠くから、重低音の雷鳴が轟く。
超大型の台風が、港町を飲み込もうとしていた。
◇◇◇

第五章: 反転空の青春譜
[Flash]閃光。[/Flash]
空を真っ二つに裂く稲妻。
暴風雨の轟音が、世界中のあらゆる音を塗り潰す。
廃駅の屋上。風速は秒速四十メートルを超え、コンクリートの破片が弾丸のように飛び交っていた。
[System]主機駆動開始――気筒圧力臨界点突破[/System]
背中に固定された重い鉄屑の塊。ガラクタの翼が、内燃機関の爆音と共に火を噴く。
強烈な上昇気流。
[A:ナツキ:狂気]「飛べえええぇぇぇッ!!」[/A]
両足で、大地を蹴り砕く。
重力が反転する。
強風で機体が軋み、ボルトが弾け飛んだ。熱を帯びたオイルが頬を掠め、火傷の痛みが走る。それでも止まらない。
分厚い黒雲の壁に突入した。氷の粒が激しく全身を打ち据える。視界はゼロ。計器類はとうにショートして火花を散らしていた。
機体が悲鳴を上げる。右翼のパラグライダー布が引き裂かれ、姿勢が大きく崩れた。
[Think]終わるか。こんなところで。[/Think]
スロットルを限界まで捻り切る。
[Impact]ドンッ!![/Impact]
雲を、突き抜けた。
[FadeIn]静寂。[/FadeIn]
暴風の轟音は嘘のように消え去った。
頭上に広がる(いや、眼下に広がる)満天の星。
そして、波打つ『反転した海』。
黒く澄んだ水面が、星々の光を反射して青白く揺らめいている。
重力は完全に逆転し、ナツキは空に向かって『落下』していく。
その広大な水鏡の真ん中。
亜麻色の髪をたなびかせ、目を閉じて漂う白い影。
[A:ナツキ:愛情]「アサガオッ!!」[/A]
声に気づき、青い瞳が見開かれる。
[A:アサガオ:驚き]「ナツキ……? どうして……」[/A]
背中の翼は役目を終え、バラバラに崩壊して漆黒の闇へ落ちていく。
ナツキは宙を蹴り、無防備な体を広げて、彼女の元へ飛び込む。
衝突するほどの勢いで、その細い体を両腕の中に閉じ込めた。
[A:ナツキ:愛情]「俺が絶対に、お前を繋ぎ止めてやる。……たとえここが、空の果てでもな」[/A]
[A:アサガオ:喜び]「馬鹿……だね、本当に」[/A]
アサガオの腕が、ナツキの背中に回される。
二人の頬がすり寄せられ、こぼれ落ちた涙が空中で交じり合う。
その滴が水面(空の海)に触れた瞬間。
[Flash]視界が、青に染まる。[/Flash]
幾千万の青い光の奔流が、波紋となって広大な空の海を一瞬にして駆け巡る。
重力も、過去の傷も、全てが光の中に溶け落ちていく。
ただ、二つの重なり合った体温だけが、永遠の静寂の中で確かな鼓動を打ち続けていた。