鉄サビと腐ったアンモニアの臭いが鼻腔を焼く。
湿ったコンクリートに顔を押し付けられたヤクモは、口内に広がる泥の味を舌先で転がす。
伸びた黒髪の隙間。血と油の跳ねた作業着の袖。
痩せこけた体躯を踏み躙る革靴の重みが、肋骨をミシミシと軋ませていた。
マダラメ「価値がねぇゴミは、黙って焼却炉行きだなぁ、ええ?」
高級ブランドスーツをだらしなく着崩した巨漢が、ねっとりとした声で嗤う。
襟元から覗く和彫りの龍。薄暗い街灯の下で生々しく蠢く。
腹部への蹴り上げ。
内臓が破裂しそうな衝撃。
ヤクモは深い隈の張り付いた三白眼を虚ろに開き、背中を丸めて痛みが通り過ぎるのを待つ。
どうせ自分なんて、いつ死んでもいい。
路地裏の奥。
ゴミ山に放り出されたヤクモのポケットで、ひび割れた画面が振動する。
液晶の奥から、ザラついた電子ノイズが鼓膜を引っ掻いた。
アザミ「明日、あなたは死ぬ。生き延びたければ私の指示に従って」
ノイズ越しに響く、女の冷たい声。
イタズラだと無視しようとした直後、背後の雑居ビルからけたたましいサイレンが鳴り響く。
マダラメの拠点に警察のガサ入れが入る。女が予知した、一秒の狂いもない時刻。
息を呑むヤクモの耳元で、甘ったるい囁きが続く。
アザミ「あなたが生き延びるためには、明日の朝、同僚の足を折って囮にして」

鈍い破砕音。
錆びた鉄パイプが肉を打ち据え、骨を砕く感触が両手にこびりついている。
「ぎいぃぃっ!」
何も知らない同僚の断末魔が、夜明けの路地裏に木霊する。
ヤクモは壁に胃液をぶちまけた。
酸い匂いが充満する中、震える手でスマホを握りしめる。
マダラメの凄惨な粛清は、女の目論見通り、囮となった同僚へ向けられた。
アザミ「よくやったわ。あなたが生きている、それだけで世界は美しい」
タイピング音と共に、女の声がヤクモの脳髄を直接撫で回す。
ひどく甘く、執着に満ちたその音色が、這い上がる自己嫌悪を麻薬のように塗りつぶしていく。
血濡れの指先で、画面をなぞる。
誰かのために命を捨てるはずだった自分が、他者を犠牲にしてまで生に縋っている。
それでも、自分を必要としてくれる声の熱が、空洞の胸をじんわりと満たしていく。
アザミ「次は、マダラメの拠点から極秘の商品を盗み出して」
廃倉庫の暗がり。
重い鉄扉をこじ開けたヤクモは、息を止める。
コンテナの中に横たわっていたのは、機械の部品でも麻薬でもない。
泥と埃に塗れた、ボロボロのワンピース。
丸まった背中を震わせる、くすんだ茶髪の少女。
怯えきって涙をためた大きな瞳が、ヤクモの姿を捉える。
スズ「ごめんなさい、ごめんなさい、許して……」
弱々しい声。
裏ルートで臓器を捌かれるための、生きた肉塊。
その顔を見た瞬間、ヤクモの手の中でスマホが激しく震動した。
アザミ「その子は、5年前の私よ」
スピーカーから漏れる声が、切羽詰まった色を帯びる。
アザミ「あなたはかつて、私を助けて死んだ。でも、私が欲しい未来はそれじゃない!」
未来の彼女。右目に機械の義眼を埋め込み、無数の傷跡を残す白い肌を軍用の防弾コートで包んだ姿が、ノイズの向こうに透けて見えた。
「私を見捨てて、あなたは逃げて!」
「見つけたぞ、ネズミ野郎が!」
背後から、マダラメの怒声が鼓膜を打つ。
複数の安全装置が外れる金属音。
逃げ道は、すでに塞がれている。

スズ「助けて……お願い、嫌だ……」
細い指が、ヤクモの血にまみれた作業着の裾を掴む。
いつか本物の青空を見るのだと、地下の換気口から光を仰いでいた瞳。
ヤクモは、その指を無表情に払い除けた。
ガクンと膝をつくスズの肩を、躊躇いなく前へ蹴り出す。
「殺せッ!」
マダラメの号令。
無数の鉛玉が、盾にされたスズの華奢な肉体を容赦なく穿つ。
肉が弾け、血の飛沫がヤクモの頬に生温かく降り注ぐ。
少女の身体が蜂の巣になって崩れ落ちるその刹那。
ヤクモは肉壁の陰から地を蹴った。
巨漢の懐に潜り込み、隠し持っていた錆びた刃物を、マダラメの喉笛へ突き立てる。
マダラメ「がっ……、き、さま……」
豚の首を掻き切るような鈍い感触。
気管から鮮血が噴き出し、高級スーツを赤黒く染め上げる。
サディストの巨体が痙攣しながらコンクリートに沈む様を、ヤクモは冷たい三白眼で見下ろした。
足元では、内臓を撃ち抜かれたスズが、光を失っていく瞳でヤクモを見つめている。
血の海に沈みゆく過去の自分を眺めながら、未来の女が嗤う。
アザミ「それでいいの! 愛してる!」
ひび割れた画面から、鼓膜を突き破るような異音が噴出する。
過去の自身が死んだことによる、因果律の崩壊。
アザミの存在する未来の空間が、物理的に砕け散る轟音が響き渡る。

アザミ「これで私の世界線は終わるわ。でも……」
ノイズの向こうで、崩落する瓦礫の音が聞こえる。
それでも彼女の声は、どこまでも甘く、恍惚に満ちていた。
アザミ「あなたは生きている。私たちは永遠に繋がったのよ、ヤクモ」
次元の断絶。
決して触れ合うことのない二つの世界が、ノイズまじりの通話の中だけで重なり合う。
ヤクモの中で、最後に残っていた人間性の欠片が音を立てて砕け散った。
血溜まりの中に座り込み、ヤクモは震える両手でスマホを顔に近づける。
ひび割れたガラスの表面に、乾いた唇を深く押し当てた。
鉄の匂いと硝煙が混ざる冷たい路地裏で、彼女の体温を貪るように、幾度も幾度も口付けを落とす。
生々しい吐息が画面を白く曇らせる。
狂信的な愛の囁きが、ヤクモの髄液にねっとりと溶け込んでいく。
「ああ……」
ヤクモの口の端から、形のない笑みが零れ落ちた。
世界で最も凄惨で、ひどく美しい共犯関係。
だが、その余韻を切り裂くように、唐突に通信のノイズが途絶える。
冷たいコンクリートの底に、永遠の静寂が降り積もっていった。