第一章: 廃棄される幸福
風が、腐臭を含んで吹き荒れる。
世界最深のダンジョン『奈落』の縁だ。断崖絶壁の淵に立つ少女のローブは、もはや元の色が判別できないほど灰色に汚れ、裾は無残に千切れていた。
フードの下から覗く肌は、病的なドス黒さ。壊死した古木のようにひび割れ、紫色の血管が不気味に浮き上がっている。かつての色など想像も及ばぬ澱んだ髪が、乾いた風に煽られて頬を打つ。
エルマは、自分の手を見つめる。指先まで黒く染まったその手は、震えもしない。ただ、冷たい。
[A:ゼファー:冷静]「……臭うな」[/A]
背後から投げかけられた声に、慈悲など欠片もなかった。
振り返れば、陽光を照り返して眩いばかりに輝くミスリルの聖鎧。金糸の刺繍が施された純白のマントをなびかせ、金髪碧眼の青年が立っている。勇者ゼファー。彼の手には、磨き抜かれた聖剣が握られていた。
[A:ゼファー:怒り]「おい、聞いてるのか? 俺の視界を汚すなと言ったんだ、役立たずが」[/A]
鼻をつまむ仕草。露骨な嫌悪。
エルマの喉がひくりと動く。声帯が毒に侵され、掠れた音しか出ない。
[A:エルマ:恐怖]「……申し訳、ありませ……ん」[/A]
[A:ゼファー:冷静]「お前をパーティから追放する。理由はわかるな? その薄汚い見た目だ。俺の隣に立つ資格がない」[/A]
資格。
視線を落とすエルマ。彼女の体がこうなったのは、ゼファーが受けるはずだった致死性の呪毒、麻痺毒、石化の呪い……その全てを『調律』し、我が身に引き受けてきたからに他ならない。
だが、彼は知らない。知ろうともしなかった。彼にとって勝利は自分の実力であり、エルマはただそこにいるだけの、薄気味悪い背景でしかないのだから。
[Think]弁解? いいえ、そんな気力はもう……[/Think]
不思議と、胸に湧き上がったのは絶望ではなかった。
重い鎖が外れるような、安堵。
もう、毒を飲まなくていい。痛みを数えなくていいのだ。
[A:ゼファー:狂気]「さっさと消えろ。俺の栄光の歴史に、そんな黒い染みは不要なんだよ!」[/A]
[Shout]ドンッ![/Shout]
衝撃。
ゼファーの蹴りが、華奢な体を突き飛ばした。
浮遊感。
宙に投げ出される体。視界が反転し、遠ざかる空と、歪んだ笑みを浮かべる勇者の顔が見えた。
奈落の底から吹き上げる風は、氷のように冷たく、そしてどこか甘い死の匂いがした。
[Think]ああ……やっと、眠れるんですね[/Think]
抵抗などしない。まぶたを閉じる。
重力に身を任せ、無限の闇へと吸い込まれていった。
◇◇◇
第二章: 闇の中の光
硬い。冷たい。
背中に走る激痛が、意識を強引に現世へ引き戻した。
咳き込むエルマ。口の中に充満するのは、鉄錆の味と、古いカビの匂い。
目を開けると、そこは完全な闇……ではなかった。
[A:オライオン:冷静]「……目覚めたか」[/A]
地の底とは思えぬほど低く、だが驚くほど澄んだバリトンボイス。
闇の中から一人の男が歩み寄ってくる。
長身痩躯。黒い竜革のロングコートを纏い、背中には身の丈ほどもある巨大な漆黒の大剣。目元は黒い包帯で覆われ、その相貌は彫像のように整っているが、どこか人外の威圧感を放っていた。
盲目の男。
反射的に身を縮める。自分の醜い姿を見られたくない。そう思った瞬間、彼が目が見えないことに気づき、安堵の息を漏らす。
しかし、男はエルマの目の前で膝をつき、包帯越しにじっと彼女を見据えた。
[A:オライオン:冷静]「妙だな。これほどの深淵に落ちて、なお輝きを失わぬとは」[/A]
[A:エルマ:恐怖]「……あ、なたは……? 私、は……汚れて、いて……」[/A]
[A:オライオン:冷静]「汚れ? 何を言っている」[/A]
伸びてくる、男の大きな手。
身構えたが、その手は恐るべき優しさで、ドス黒く変色した頬に触れた。
指先は熱いほどに温かい。革手袋の粗い感触が、凍りついた肌を摩擦する。
[Sensual]
オライオンは指の腹で、ひび割れた彼女の肌をなぞる。まるで壊れかけの至宝を扱うように、慎重に、愛おしげに。
[A:オライオン:愛情]「目など不要だ。俺には視える。お前の魂は……どんな星よりも眩しい。まるで、夜空そのものだ」[/A]
男の吐息が近く、エルマの鼓動が不規則に跳ねる。
[/Sensual]
[A:エルマ:驚き]「きれい……? 私が……?」[/A]
[A:オライオン:冷静]「ああ。俺の名はオライオン。かつて魔王と呼ばれ、ここに捨てられた成れの果てだ。……お前の名は?」[/A]
[A:エルマ:照れ]「エルマ……です」[/A]
[A:オライオン:喜び]「エルマか。良い名だ。……立てるか? ここは冷える」[/A]
差し出された手。
機能としての価値ではなく、存在そのものを肯定されたのは、生まれて初めてだった。
瞳からこぼれ落ちたのは、黒い涙ではなく、透明な雫。
彼女はその手を、震えながら握り返した。
◇◇◇
第三章: 崩落する栄光
地上。王都の広場。
凱旋パレードの最中だ。
[A:ゼファー:興奮]「見ろ! この俺の輝きを! 魔王の残党どもなど敵ではない!」[/A]
ゼファーが剣を掲げた、その瞬間。
バキンッ、と嫌な音が響く。
名剣と謳われた聖剣の刀身に、亀裂が走ったのだ。
[A:ゼファー:驚き]「な……っ!?」[/A]
それだけではない。
上がる観衆の悲鳴。
ゼファーの顔。美しいその皮膚が、見る見るうちに紫色の斑点に覆われ、膿が吹き出した。
喉が焼けるように熱い。肺が空気を吸うたびに、ガラス片を飲み込んだような激痛が走る。
[System]警告:状態異常【猛毒】【麻痺】【腐食】を確認。耐性スキル……不在。[/System]
[A:ゼファー:恐怖]「ぐあっ……!? なんだ、これは……! 痛い、熱い! 誰か、治癒を……!」[/A]
僧侶が駆け寄るが、回復魔法をかけたそばから皮膚が崩れ落ちていく。
今まで無傷でいられたのは、彼が強かったからではない。
エルマという『フィルター』が、呼吸をするように毒を吸い取っていたからだ。
そのフィルターを捨てた今、世界に満ちる穢れが、無防備な勇者に牙を剥く。
[A:ゼファー:怒り]「エルマ……あいつか! あいつが何かしたんだな!?」[/A]
違う。あいつが「いなくなった」からだ。
だが、ゼファーの歪んだ自我はそれを認めない。
[A:ゼファー:狂気]「許さん……俺の所有物の分際で……! 取り戻せ! 今すぐ奈落へ潜るぞ! あれは俺の道具だ、俺の命綱なんだよぉぉぉ!!」[/A]
顔面の皮が剥がれ落ち、赤い肉が見える形相で絶叫する勇者。
その姿に、もはや英雄の面影はない。ただの、醜悪な怪物だった。
◇◇◇
第四章: 限界と覚醒
奈落最深部。
そこは、地上の光など届かぬ絶対の闇。だが今、無数の魔物の群れが、紅い瞳を光らせて二人を取り囲んでいた。
[A:オライオン:怒り]「下種どもが……!」[/A]
《重力波》
オライオンが大剣を一閃させる。空間が歪み、押し寄せた魔物たちが挽肉のように圧縮され、弾け飛ぶ。
だが、数が多すぎる。
盲目の騎士はエルマを背に守りながら戦い続けていたが、死角から伸びた魔獣の爪が、彼の脇腹を深々と抉った。
[A:オライオン:冷静]「ぐっ……!」[/A]
[A:エルマ:悲しみ]「オライオン様!」[/A]
駆け寄るエルマ。傷口からは大量の血が溢れ出ている。魔王と呼ばれた彼の生命力をもってしても、この奈落の瘴気の中では回復が追いつかない。
[A:エルマ:絶望]「私のせい……私がいるから、あなたが傷つく……やはり私は、誰かの犠牲になる運命なの……?」[/A]
まただ。
また、大切な人が傷つく。私が呪われているから。
エルマの手が震える。いっそ、この身の毒を爆発させて、敵ごと消滅すれば――。
[A:オライオン:怒り]「馬鹿なことを考えるな!!」[/A]
オライオンが、血塗れの手でエルマの肩を掴んだ。
[A:オライオン:愛情]「犠牲? 運命? そんなくだらん鎖、俺が断ち切ってやる」[/A]
彼は自らの胸に指を突き立てる。
心臓の鼓動と共に脈打つ、強大な魔力。それを引き抜き、エルマの唇へと押し当てた。
[Sensual]
[A:オライオン:冷静]「受け取れ。俺の命……魔王の核だ。これでお前の毒を、全て燃料に変える」[/A]
重なる唇。
流れ込んでくるのは、灼熱の奔流。
オライオンの命が、エルマの中にある膨大な『死の毒』と化学反応を起こす。
黒と赤が混ざり合い、臨界点を超え――
[/Sensual]
[Shout]カッッッッ!![/Shout]
閃光。
闇を食らい尽くすほどの、純白の光が炸裂した。
剥がれ落ちていく黒い色。
ひび割れた皮膚は瑞々しい白磁へ。
澱んだ髪は、星の光を編んだようなプラチナブロンドへ。
背中からは光の翼が噴出し、彼女の瞳は黄金に輝き出した。
[System]個体名エルマ:覚醒。【毒喰らい】より【浄化の聖女】へクラスチェンジ。[/System]
[A:エルマ:冷静]「……もう、迷いません」[/A]
その声は鈴を転がすように美しく、しかし絶対的な威厳に満ちている。
彼女は手を掲げる。ただそれだけで、周囲の魔物たちが灰となって崩れ去った。
◇◇◇
第五章: 決別と旅立ち
静寂が戻った奈落の底に、場違いな足音が響く。
鼻をつくのは、肉の腐る臭い。
[A:ゼファー:狂気]「はぁ……はぁ……見つけたぞ……俺の、道具……」[/A]
現れたのは、半ばゾンビと化したゼファーだった。
片目は溶け落ち、鎧は錆びつき、かつての美貌は見る影もない。
だが、彼の残った瞳が、光り輝くエルマを捉えて大きく見開かれた。
[A:ゼファー:驚き]「な……なんだ、その姿は……? 美しい……女神、か……?」[/A]
よろよろと歩み寄るゼファー。その手は汚濁にまみれ、何かを乞うように震えている。
[A:ゼファー:愛情]「エルマ、だろう? 綺麗だ……そうだ、その姿こそ俺に相応しい! 戻ってこい! 愛しているんだ、なぁ、やり直そう!」[/A]
あまりに醜悪な愛の囁き。
だが、エルマの黄金の瞳には、怒りも、軽蔑さえも映っていなかった。
あるのは、道端の石を見るような『無関心』だけ。
エルマは、傷ついたオライオンの肩を抱き寄せ、優しく治癒の光を注いでいた。オライオンの傷が塞がっていく。
[A:エルマ:冷静]「……誰ですか?」[/A]
[A:ゼファー:驚き]「は……? 俺だ! 勇者ゼファーだ! お前の主だぞ!」[/A]
[A:エルマ:冷静]「私の世界に、あなたは必要ありません。……オライオン様、行きましょう」[/A]
[A:オライオン:喜び]「ああ。……案内してくれ、俺の光」[/A]
指先を軽く振るエルマ。
[Magic]《サンクチュアリ》[/Magic]
展開される拒絶の結界。ゼファーの体は目に見えない壁に弾き飛ばされた。
[A:ゼファー:絶望]「待て! 置いていくな! 痛いんだ、苦しいんだ! 俺を救えぇぇぇ!!」[/A]
木霊する勇者の絶叫。
しかし、二人は一度も振り返らない。
オライオンの背にある大剣が、空間を切り裂き、地上とは違う「どこか」への道を開く。
光の中へ消えていく二人の背中は、あまりに神々しく、そして残酷なほどに幸福そうだ。
残されたのは、暗闇と、腐りゆく元英雄の嗚咽だけ。
毒を喰らい続けた聖女は、もういない。
彼女は新しい地図を描くために、愛する人と共に旅立ったのだから。
[System]物語は、ここで閉じられる。[/System]