第一章: 終わりの始まり
灰が、雪のように音もなく降り積もる。
かつて緑に覆われていた大地。今は一面の死の世界。
アレンは泥水に塗れ、必死に足を動かしていた。
くすんだ黒髪には粘つく樹液と灰。怯えに揺れる琥珀色の瞳の周囲には、黒々とした隈。
身を包むのは、魔獣の鉤爪で無惨に引き裂かれ、泥と灰に塗れたみすぼらしい革鎧。
肺の奥でひゅるひゅると奇妙な音が鳴る。口の中に広がるのは、錆びた鉄のような血の味。
背後から迫る、四つ足の異形の息遣い。
毛穴という毛穴から吹き出す冷や汗。
石に躓き、アレンは無様にぬかるみへと顔面から倒れ込んだ。
アレン「ひぃぃっ! いやだ、いやだいやだ! 来ないでくれぇぇ!」
頭を抱え、土下座の姿勢で泥に顔を埋める。
直後。頭上を通過しようとした異形の巨体が、突如として崩落した崖の岩塊に巻き込まれた。
地鳴り。
生臭い肉の潰れる音。
恐る恐る顔を上げる。岩の下敷きになった魔獣の死骸。その脇に、奇跡のように咲く一輪の青い花。
……リリィ
泥まみれの指先で、アレンはその花を摘み取る。
ほのかに甘い、雨上がりの土の匂い。
これで、あの子が笑ってくれる。
人類最後の砦、第七防衛砦の城門。それをくぐった瞬間。
耳をつんざくような大歓声が、アレンの鼓膜を震わせた。
「見ろ、帰還されたぞ!」
「凶獣ベルゼガルを単機で……なんという気高さだ!」
群衆の波が割れ、一人の女騎士が歩み出る。
銀色の重厚な甲冑が、僅かな陽光を弾いて冷たい輝きを放つ。
プラチナブロンドのポニーテール。凛とした蒼の瞳がアレンを真っ直ぐに射抜く。
氷の女騎士、エリス。
彼女の美しい唇が、微かに震えていた。
エリス「アレン殿……。貴方はまた、誰にも告げずに死地へ赴かれたのですか」
いや、逃げ回ってたら迷子になっただけなんだけど。
引きつる頬を必死に取り繕い、アレンは砦の奥へと歩を進める。
薄暗い石造りの部屋。
軋む木製ベッドの上に、ちょこんと座る小さな影。
色素の薄い銀髪。清潔だが古びてほつれた白いワンピース。
両目を覆う分厚い包帯が、痛々しく白い。
リリィ「お兄ちゃん? 帰ってきたの?」
無言のまま、泥だらけの掌に握りしめた青い花を、少女の細い指先に触れさせるアレン。
リリィの鼻先が微かに動く。ふわりと綻ぶ顔。
リリィ「いい匂い……。お兄ちゃんの手、いつも震えてるね。でも、すごくあったかい」
その光景を部屋の入り口で見つめるエリス。彼女の蒼い瞳から、一筋の雫がこぼれ落ちた。
自らの命を削り、ただ一輪の花を妹へ届ける男。
なんて気高く、哀しい人。
世界は、彼一人に重すぎる荷を背負わせている。
だが、感動にむせび泣く砦の空気とは裏腹。破滅の足音はすでにアレンの背後に迫りつつあった。
第二章: 虚勢と死神
胃の腑から這い上がる、焼け付くような酸の匂い。
人類総指揮官の豪奢な椅子に縛り付けられたアレン。こめかみを冷たい汗が伝い落ちる。
逃げたい。今すぐこの窓から飛び降りて、誰も知らない場所へ……!
だが、逃げるわけにはいかない。
リリィの致死の呪い。進行を遅らせるには、この砦の特別な医療設備が不可欠。
突如、砦の巨大な鉄扉が紙屑のように吹き飛んだ。
巻き上がる粉塵の奥から歩み出る、圧倒的な死の気配。
身長を遥かに超える巨大な黒大剣。全身傷だらけの赤銅色の肌。
獅子のように荒々しい髪を揺らす筋骨隆々な魔人、魔王軍幹部ヴォルク。
大気が悲鳴を上げる。周囲の騎士たちが次々と泡を吹いて倒れ伏す。
ヴォルク「ククク……探したぞ、人類の守護者よな!」
アレンの喉仏が、上下に激しく動く。
膝の力が完全に抜け落ちる。持っていた指揮官用の長剣がカランと乾いた音を立てて床に転がった。
あまりの恐怖に声すら出ない。アレンはただへたり込み、ガタガタと全身を痙攣させる。
終わった。死ぬ。痛いのは嫌だ!
しかし、ヴォルクの瞳孔が驚愕に見開かれる。
ヴォルク「なるほど……。我に武器など使う価値すらないという、達人の構えであるか!」
アレン「……へ?」
黒大剣を大上段に構え、渾身の力で踏み込むヴォルク。
その瞬間。ステンドグラスから差し込んだ強烈な西日。それが磨き上げられたアレンの指揮官章に反射し、ヴォルクの両目を直撃する。
ヴォルク「ぬおあっ!?」
視界を奪われた巨体。自らの突進の勢いを殺しきれない。
砦の後方に口を開けていた千尋の谷底へ。錐揉み回転しながら真っ逆さまに落ちていった。
静寂。
そして、爆発的な歓声。
エリス「見ましたか! アレン殿は一歩も動かず、あの狂戦士の自滅を誘ったのです!」
周囲の狂乱とは裏腹に、アレンの視野は白く明滅する。
吐き気。過剰な期待が、見えない鎖となって首を絞める。
夜。砦の屋上。
頬を撫でる、冷たい夜風。
リリィ「お兄ちゃんは、私の英雄なの。世界で一番優しくて、無敵の強いお兄ちゃん」
目を見えないリリィが、アレンの背中に小さな額を押し当てる。
その細い腕の温もり。それだけが、アレンをこの世界に繋ぎ止めている錨。
嘘だ。俺は臆病者だ。
けれど、この無邪気な言葉にだけは、絶対に嘘をつけない。
その夜。リリィの小さな咳が、べっとりと黒い血を床にぶちまけた。
第三章: 暴かれた凡人
冷たい雨が、頬を打ち据える。
裏路地の汚泥に膝をつき、アレンは自らの頭をかきむしっていた。
指先に絡みつく黒髪。泥と混じった生温かい涙が滴り落ちる。
雨の匂いに混じる、ひどく甘ったるい腐敗の臭い。
リリィの命を蝕む、活性化した瘴気の匂いだ。
残された時間は、数日。
あの子を救うには、致死量の瘴気に包まれた「世界樹の中心」にある雫を口に含ませるしかない。
アレン「無理だ……あんな場所、行けるわけがないッ! 俺には無理だ!」
石畳に拳を叩きつける。爪が剥がれて血が滲む。
喉の奥から漏れる、獣のような嗚咽。
「アレン……殿?」
背後から掛けられた声。ビクッと跳ねるアレンの肩。
振り返ると、雨に濡れたプラチナブロンドを貼り付かせたエリス。傘も差さずに立ち尽くしている。
その蒼い瞳。泥水に塗れて鼻水を垂らし、怯えた子供のように泣きじゃくるアレンを信じられないものを見るように見つめている。
見られた。終わった。殺される。
幻滅、軽蔑、そして怒り。
強さを絶対の正義と信じるこの女騎士に、ただの臆病な凡人であると知られた。
斬られる。
そう覚悟したアレンは、這いつくばったまま泥だらけの両手でエリスのブーツに縋り付いた。
アレン「ごめん、ごめんなさい! 俺は英雄じゃない! ただの卑怯者だ! だけど……!」
顔を上げる。
かつてないほどの醜さ。そして、狂気的な熱を帯びた目。
アレン「俺はただ、あの子に星空を見せてやりたいだけなんだ! 一度でいい、俺の命と引き換えでいいから!」
エリスの胸の奥。何かが激しく砕け散る音。
圧倒的な強者だと思っていた。
手の届かない高みにいる神のような存在だと。
違う。
彼は誰よりも死を恐れ、痛みに泣き叫ぶ、か弱い一人の人間。
それなのに、たった一人の少女のために、震える足で地獄へ向かおうとしている。
エリスは泥だらけのアレンの前に跪く。その両頬を、鋼籠手ごと優しく包み込んだ。
エリス「……なんて、不器用で、美しい人」
雨音に混じる、静かな誓い。
私だけは、貴方の弱さを守り抜く。
だが、世界樹への道程は、人類の生存限界を超える死地。
地獄への門が、今、開かれようとしていた。
第四章: 虚構の限界
空が、赤黒く爛れている。
世界樹の根元へと続く枯れ野。踏み出すたびに靴底を焦がすような熱気。
アレンは幾度も嘔吐を繰り返し、胃液すら枯れ果てていた。
帰りたい帰りたい帰りたい死ぬ死ぬ死ぬ
震える両膝を無理やり叩き、前へ進む。
隣を歩くエリスは、大剣を握りしめ、襲い来る瘴気の魔獣たちを次々と両断していく。
エリス「アレン殿、息を整えて。私が道を切り拓きます」
銀の甲冑はすでに魔獣の返り血で黒く染まり、彼女の呼吸も限界に近い。
その背中を見るたび、アレンの胸にどす黒い罪悪感が渦巻く。
アレン「……エリス。もういい。俺を置いていけ」
エリス「馬鹿なことを言わないでください! 貴方を死なせはしない!」
怒鳴る彼女の横顔。だが、その直後。
空間が、歪んだ。
谷底に落ちたはずの魔人、ヴォルク。血だるまになりながらも、怨念だけで這い上がってきたその巨体が、エリスの背後に出現する。
ヴォルク「アアアアレンンンッ! 貴様ァァァ!」
凄まじい衝撃。
エリスの体が宙を舞う。銀の甲冑がひしゃげ、彼女はくずおれたまま動かなくなった。
アレン「エリス……っ!」
ヴォルクの赤銅色の肌からは、黒い瘴気が噴き出している。
もはや理性を失った狂鬼。巨大な黒大剣が、アレンの頭上に振り下ろされる。
逃げ場はない。奇跡も起きない。
ただ、己の無力がそこにあるだけ。
……ごめん、リリィ。
死を覚悟し、瞳を閉じるアレン。
だが。
アレン「……ふざけ、んな」
鼓動が、跳ねる。
脳裏に焼き付く、妹の笑顔。冷たい雨の中、俺の弱さを肯定してくれたエリスの温もり。
アレン「俺の妹に、星空を見せるんだァァァッ!」
泥に塗れた手を伸ばし、アレンは落ちていたエリスの大剣の柄を握りしめた。
目も眩むような光。
決して開花することのなかったアレンの魔力が、極限の死の淵で暴走を始める。
第五章: 星空の約束
世界樹の中心。
水晶のように澄み切った泉の畔で、アレンは膝をついた。
右腕は骨折し、全身は無数の裂傷から血を流している。
ヴォルクをどうやって退けたのか、記憶はない。ただ、エリスを背負い、ここまで這いずってきた。
泉の中央で輝く、一粒の光。
「世界樹の雫」。
震える手でそれを掬い上げる。
静寂。
数日後。第七防衛砦。
夜風が吹き抜ける屋上。
リリィの目元を覆っていた包帯が、静かに解かれる。
ゆっくりと開かれる、薄紫色の双眸。
初めて世界を見る少女の瞳に、満天の星空が映り込んだ。
リリィ「……きれい」
言葉を失うリリィ。
その隣で、包帯だらけのアレンが、不器用に笑う。
アレン「ああ。約束、したからな」
背後で見守るエリス。
彼女の顔には、かつての氷のような冷たさはない。
ただ、一人の臆病で勇敢な青年への、深く静かな愛情が宿っている。
エリス「……私の、本当の英雄」
アレンはリリィの小さな手を強く握りしめる。
彼はもう、ただの凡人ではない。
愛する者を守るため、震えながらも一歩を踏み出す、真の勇者だった。