第一章: 忘却の雪と氷の棺
砕けたステンドグラスの隙間から、群青色の雪が舞い落ちる。
星屑のように煌めく結晶は、石畳に触れた端から物質の色を奪い、世界を音もなく白紙へと還していく。
ひんやりとした空気が運んできたのは、むせ返るような鉄と泥の臭気。
色素の薄い灰色の髪に張り付く冷汗を拭い、カナタは短く息を吐き出す。
泥と返り血に汚れ、至る所に鋭利な爪痕が刻まれた戦術革鎧。
憂いを帯びた琥珀色の瞳が見据えるのは、四つん這いで痙攣を繰り返す異形の獣だ。
分厚い布を巻いた両刃の黒剣から、赤黒い液体がぼたぼたと滴り落ちる。
エメロート「本当に、見惚れてしまう剣舞だわ」
紫煙の香りが、血の匂いを上書きしていく。
祭壇の跡地に腰掛けているのは、退廃的な美貌を持つ女。
冷たい風に揺れる、艶やかな黒髪のボブカット。
細い指先で銀のキセルを弄ぶ彼女の深紅の瞳は、一切の光を反射しない。
『忘却の魔女』エメロート。次元の狭間から現れ、代償と引き換えに絶大な力を与える観測者。
カナタ「約束だ。さっさと目覚めさせろ」
喉の奥から絞り出した声。ひどく掠れていた。
エメロートがくすりと唇の端を歪め、キセルの灰を落とす。
エメロート「ええ、もちろん。契約通り、あなたの『大切な記憶』を頂くわ。ああ、なんて美しい絶望かしら」
ドクン、と。
胸の奥で響いたのは、何かが千切れる悍ましい音。
脳裏に焼き付いていたはずの映像が、群青の雪のように白く溶けていく。
誰かと笑い合った記憶。温かな日差しの記憶。名前を呼ぶ声。
指の隙間から砂がこぼれ落ちるように、大切な何かがごっそりと欠落する。
頭蓋を内側から抉られるような激痛。耐えきれず、カナタは片膝を突く。
カナタ「……っ、ぐ……!」
祭壇の奥。
亀裂が走り、砕け散る分厚い氷の棺。
そこから現れたのは、幻のように儚い少女だった。
雪のように真っ白な長髪。空の青を切り取ったような、深い群青色の瞳。
裸足の足首には銀の足枷の名残がすれている。
よろめくように歩み寄ったシラユキは、冷たい床に崩れ落ちているカナタの首に、細い腕を絡ませた。
シラユキ「カナタ……迎えに来てくれたのね……っ」
震える声と共に、温かな涙がカナタの首筋を濡らす。
すがるように抱きしめる彼女の体温。ひどく心地よい。
石鹸と、古い羊皮紙のような甘い匂い。
だが、カナタの琥珀色の瞳は激しく揺れ動く。
腕の中にいる少女が誰なのか、名前はわかる。守るべき対象であることも知っている。
しかし。
なぜ、俺はこの少女のために命を懸けているんだ?
彼女を愛していたはずの理由。それが、思い出せない。
困惑に強張るカナタの顔を覗き込み、シラユキの群青の瞳から大粒の涙が溢れ出す。
シラユキ「……また、私のために……忘れて、しまったのね」
彼女は自らの唇を血が滲むほど噛み締め、その細い指でカナタの軍服をきつく握りしめた。
ステンドグラスの向こうで響く、新たな獣の咆哮。
無意識に黒剣を握り直し、少女を背後へと庇うカナタ。
記憶の欠落した胸に空虚な風が吹き荒れる中、終わりのない旅が幕を開ける。
◇◇◇
第二章: 灰と雪の行進
世界を救う唯一の希望、『白亜の塔』を目指す道程。
空は常にどんよりとした灰色に覆われ、群青の雪が絶え間なく降り注ぐ。
廃墟と化した街の影で、パチパチと爆ぜる小さな焚き火。
シラユキ「はい、カナタ。半分こ、ね」
シラユキが差し出したのは、硬く干からびた黒パンだ。
無言でそれを受け取り、口に運ぶカナタ。
焦げた麦の苦味と、微かな塩気が舌の上に広がる。
喉を通るパサついた食感すら、今の彼らには貴重な晩餐。
カナタ「お前がもっと食え。体力がないだろう」
シラユキ「ふふ、大丈夫なの。カナタと一緒に食べるのが、一番おいしいから」
揺れる炎に照らされる、彼女の柔らかい微笑み。
出会った頃の記憶を失ったカナタに対し、シラユキは一切の不満をこぼさない。ただ無償の愛と優しさを注ぎ続けていた。
一緒に夕焼けの空を見上げる。名前のない花を見つける。古い子守唄を口ずさむ。
不器用な二人の間に、少しずつ、だが確かに積み重なっていく新しい思い出。
しかし、その平穏は長くは続かない。
翌日。徘徊する獣の群れとの戦闘。
カナタの黒剣が獣の喉笛を裂くたび、代償のシステムが容赦なく発動する。
昨夜、彼女と分け合ったパンの味。彼女の微かな鼻歌の旋律。
たった今生まれたばかりの温かな記憶さえも、冷酷な魔女の契約によって次々と喰らい尽くされていく。
戦闘を終え、肩で息をするカナタの腕。そこには深い裂傷が刻まれていた。
裸足のまま駆け寄るシラユキ。彼の腕をそっと両手で包み込む。
シラユキ「動かないで……すぐに治すから」
《白き慈悲の祈り》
彼女の細い指先からこぼれ落ちる、淡い光。
自身の生命力を削って紡がれる治癒魔法。
触れ合う肌から伝わるのは、彼女の微かな震え。
傷口が塞がるにつれて、シラユキの顔から急速に血の気が引いていく。
カナタ「……無理をするな。こんな傷、大したことはない」
シラユキ「私が無力だから……カナタを傷つけてしまうのね。ごめんなさい……っ」
夜の闇の中、焚き火の傍で静かに膝を抱えるシラユキ。
カナタが眠りについた後、彼女の群青の瞳から止めどなく涙がこぼれ落ちる。
自分が彼を頼るたびに、彼は自分を忘れていく。
その残酷な現実に、彼女は自らの細い腕に爪を立て、血が滲むほど強く掻きむしった。
グルルルォォォォッ!!
突然轟いた、大気を震わせる凄まじい咆哮。
跳ね起きたカナタが黒剣を構え、闇の奥を睨みつける。
地響きと共に現れたそのシルエット。カナタの眉間が激しく跳ねた。
知っている。記憶の底で、その影を確かに知っている。
◇◇◇
第三章: 喪失の刃
吹き荒れる冷風の中、立ちはだかる圧倒的な絶望。
かつて陽気な金髪だった面影は、もはや微塵もない。
身体の半分が群青色の結晶に侵食された、異形の獣人。
ボロボロになった軍服の残骸を羽織り、右腕は巨大な氷の刃へと変異している。
空虚に濁った黄色の瞳が、カナタとシラユキを捉えた。
レギオン「どうせ全部消えるんだ! 最初から何もかも無駄だったんだよ!」
獣の唸り声が混じる、荒々しく悲痛な咆哮。
カナタのかつての親友、レギオン。
大切な人を失った絶望に呑まれ、世界への憎悪に囚われた末路だ。
カナタ「レギオン……なぜ、お前が」
レギオン「綺麗事抜かすなァッ!!」
振り下ろされた右腕の氷刃。大地が轟音と共に真っ二つに割れる。
吹き飛ばされた瓦礫がカナタの革鎧をかすめ、頬から一筋の血が流れた。
圧倒的な質量と冷気。カナタの今の力では、到底太刀打ちできない。
背後で怯えるのは、シラユキ。
空間がぐにゃりと歪む。硝子を踏むような足音と共に、エメロートが姿を現す。
彼女の深紅の瞳が、三日月のように細められた。
エメロート「あらあら、旧友との殺し合い? さあ、もっと美しくて愚かな絶望を見せてちょうだい」
カナタは奥歯を噛み締め、口の中に広がる血の鉄の味を飲み込んだ。
選択肢はない。彼女を守るためには。
カナタ「……エメロート。俺から奪えるものを、すべて持っていけ」
シラユキ「だめっ! カナタ、それ以上は……っ!」
カナタ「俺がやるしかないんだ。たとえ全部忘れても」
エメロート「ふふ、いいわ。対価は『この少女に関する過去から現在までの全記憶と感情』。契約成立よ」
直後、カナタの身体を強大な光の奔流が包み込む。
シラユキの笑顔。
震える声。
温かな体温。
彼女を愛おしいと思う、心臓の奥の疼き。
すべてが、一切の情け容赦もなく削り取られていく。
空っぽになった器。そこへ、圧倒的な魔力だけが注ぎ込まれる。
カナタ「おおぉぉぉぉっ!!」
《黒狼の絶閃》
分厚い布が弾け飛び、眩い光の刃と化す黒剣。
レギオンの氷刃とカナタの光刃が激突し、爆発的な衝撃波が吹き荒れる。
空間そのものが悲鳴を上げ、群青の結晶が粉々に砕け散った。
黒剣が、レギオンの胸を深く貫いている。
レギオン「……あぁ……夕焼けが、綺麗だ……」
濁った黄色の瞳から光が失われ、巨大な獣の身体が雪のように崩れ落ちる。
静寂が戻った廃墟。
ゆっくりと剣を収め、振り返るカナタ。
駆け寄ろうとしたシラユキの足が、ピタリと止まる。
カナタの琥珀色の瞳は、ビー玉のように無機質だった。
カナタ「対象の安全を確認。先を急ぐぞ」
シラユキ「……え……?」
カナタ「どうした、早く立て。足手まといになるな」
その声に含まれる温もりは、皆無。
愛する人が、自分の存在を「護衛対象の赤の他人」としてしか認識していない。
シラユキの細い喉から漏れた、声にならない嗚咽。
決定的なすれ違いの絶望が、冷たい風と共に彼女の胸を無残に切り裂いた。
◇◇◇
第四章: 欠落した心音
白亜の塔の最上階。
無機質な金属の壁と、網の目のように張り巡らされた魔力回路。
中央では、世界を蝕む群青の雪を制御するための中枢システムが脈打っていた。
カナタは感情を完全に失い、ただの「剣」として機械的に扉の前に立つ。
カナタ「周辺の敵影なし。指示を待つ」
彼を見つめ、静かに目を伏せるシラユキ。
これ以上、彼を傷つけたくない。彼に何も奪わせたくない。
シラユキ「……カナタ。今まで、本当にありがとう」
彼女が向かったのは、システムの中枢。
自らの『存在そのもの』を触媒として捧げ、この世界を狂わせる群青の雪を止める。
それが、彼女の下した最後の決断。
エメロート「あはははっ! 最高傑作だわ! 自分の存在を消滅させて男を救う? なんて狂気的な自己犠牲かしら!」
虚空から現れたエメロートが、腹を抱えて嗤う。
歓喜に濡れる深紅の瞳。銀のキセルから吐き出された煙が渦を巻く。
シラユキ「あなたが何と言おうと、私の意思は変わらない」
純白のローブを翻し、裸足のまま祭壇へと足を踏み入れるシラユキ。
チャリン、と銀の足枷の名残が寂しげな音を立てる。
両手を胸の前で組み、祈るように目を閉じた。
《存在の還元・白亜の聖域》
暴力的な光を放つシステムの回路。シラユキの足元から、徐々に身体が半透明に透け始める。
その光景を横目で見ていたカナタの足が、ふらりと動いた。
なんだ、これは。
彼女がなぜ悲しそうに微笑んでいるのか。
なぜ、自分の命を投げ打とうとしているのか。
何も理解できない。記憶がない。感情がないはずだ。
それなのに。
ドクン、ドクン、ドクン。
シラユキの群青の瞳からこぼれ落ちた一滴の涙を見た瞬間。
カナタの喉の奥が、焼け付くように渇く。
呼吸が浅くなり、失われたはずの胸の奥底が、ギリギリと激しく締め付けられる。
意味のわからない喪失感。無機質なはずの思考が真っ白に染め上げられる。
ズドォォォォォンッ!!
地震のように激しく揺れる塔全体。
壁が紙屑のように引き裂かれ、空を覆うほどの巨大な獣――世界の集合無意識が、漆黒の顎門を開けて姿を現した。
◇◇◇
第五章: 群青に溶けゆく体温
死にたくねぇぇぇっ!!
消えろぉぉぉっ!!
無数の人々の絶望が入り混じった怨念の塊。
巨大な獣が、塔を破壊すべく無数の黒い触手を振り下ろす。
瓦礫が雨のように降り注ぐ中、カナタは無意識に跳躍していた。
護衛の任務だからではない。
頭より先に、身体が動いた。
カナタ「そこを……どけぇぇっ!!」
理由はわからない。
ただ、「彼女を死なせたくない」という本能だけが、ボロボロの肉体を突き動かす。
限界を超える、黒剣を振るう腕。筋肉の繊維が千切れる音が鼓膜を叩く。
口からごぼりと鮮血が溢れ、肺に突き刺さるような激痛。
触手の一撃がカナタの胴体を薙ぎ払い、彼は床に激しく叩きつけられる。
カナタ「が、はっ……!」
明滅する視界。指先から急速に熱が失われていく。
剣を握る力すら残っていない。
薄れゆく意識の中、祭壇の中心で光り輝くシラユキの姿が見えた。
シラユキ「あなたが私を忘れてしまっても……私が、全部覚えているから」
その言葉と共に、完了する儀式。
シラユキの身体から、太陽すらも霞むほどの圧倒的な光の奔流が世界へ向かって爆発した。
群青の雪が、空を覆う巨大な獣が、怨念の塊が。
光に触れた瞬間に浄化され、ガラスのように砕け散っていく。
そして、その光はカナタの脳髄を貫いた。
すべてを、思い出す。
出会った日の氷の棺の冷たさ。
一緒に見上げた、燃えるような夕焼け。
分け合った、焦げた黒パンの苦味。
焚き火の傍で聞いた、古い子守唄の旋律。
彼女の不器用な笑顔。
流した涙の温度。
彼女を、心の底から愛していたという絶対的な事実。
カナタ「あ……あぁ……っ!」
喉の奥から漏れたのは、獣のような嗚咽。
ボロボロの身体を引きずり、血の跡を残しながら、カナタは必死に腕を伸ばす。
カナタ「シラユキ……! シラユキィィィッ!!」
なりふり構わず絶叫し、彼女の手を掴もうとする。
しかし、カナタの指先は、半透明になった彼女の腕を空しくすり抜けた。
シラユキ「カナタ……泣かないで」
光の粒子となって崩れていくシラユキは、最後に一度だけ、とびきり美しい笑顔を向けた。
シラユキ「愛して、る」
カナタの頬に触れる、透き通った指先。
だが、そこにはもう体温はなかった。
空高く舞い上がり、群青の雪を完全に溶かし去っていく光の粒子。
伸ばしたカナタの腕の中には、もはや何も残されていない。
カナタ「あぁぁぁぁぁぁっ……!!」
カナタは自らの髪を乱暴に掻き毟りながら、喉が裂けるほどの悲鳴を上げた。血の混じった涙が、無情な夜明けの床を濡らしていく。
広大な空の下、虚しく響き渡る男の慟哭。
――やがて、雪は止む。
幾星霜ぶりに見る、澄み渡る夜明けの空。
地平線の彼方から、黄金色の朝日が世界を優しく照らし出す。
冷たかった風の匂いは、どこか懐かしい陽だまりの香りに変わっていた。
彼女は消えた。
だが、その温かな愛の残滓は、確かにこの世界を包み込んでいる。
ゆっくりと立ち上がるカナタ。
琥珀色の瞳から最後の涙を拭い、崩れゆく白亜の塔から一歩を踏み出す。
喪失の痛みと、生涯消えることのない愛を胸の奥に抱いて。