第一章: 終わりの始まり
水没した街の境界。赤錆にまみれた鉄の匂いが、潮風に混じって鼻腔を刺す。
波打ち際に続く廃線路。そこに立つのは、少し長めの黒髪を乱したナギ。
着崩した黒いブレザーの裾が、夕暮れの海風に重くはためく。
見つめる先は、オレンジ色に染まる水面。
首元にぶら下がる冷たい銀時計。
ナギの指先がそれを握りしめると、小さな歯車の刻む音が微かに響く。
妹の形見。止まったままの時間。
ナギ「……ごめん、俺のせいだ」
喉仏が震え、掠れた声が波の音に掻き消される。
ドクン、ドクンと、胸の奥で重い鈍痛が脈打つ。
肺に海水が満ちていくような息苦しさ。
波立つ水面。突如として奇妙な金色の光を帯びて。
カン、カン、カン。
嫌悪すべき踏切の警報音が、海鳴りの底から響いてくる。
後ずさる一歩。
光の粒が水飛沫のように舞い上がり、海面を滑るように『星屑の列車』が姿を現す。
ガラスの車体。銀河を閉じ込めたような輝き。
続くのは、鬱蒼と茂る巨大な樹海。そして水晶のように煌めく見知らぬ海。
吸い込まれるように一歩を踏み出す。
いつしか羽織っていたのは、見知らぬ外套。
異境の植物で編まれた、星屑のように微光を放つ布地。
柔らかな苔への変貌。
静寂。
息を呑むような大自然。空は瑠璃色と紫が混ざり合い、幾千の星が瞬く。
「星幽界」。直感的に、その名が脳裏に浮かぶ。
シズク「お待ちしておりました。迷える魂の方」
鈴を転がすような澄んだ声。
開く瞳孔。
宙を舞うのは、月明かりを紡いだような銀糸の長髪。
星空を映した深く蒼い瞳が、ナギを真っ直ぐに射抜いている。
泥一つない素足の指先。
ナギ「君は……誰、だ」
自分の唇から血が滲むほど噛み締めながら、ナギは絞り出した。
シズク「私はシズク。この星の記憶を紡ぐ者です」
彼女はまばたき一つせず、ひんやりとした風を纏ってナギに近づく。
指し示すのは、ナギの胸元の銀時計。
シズク「最深部の『星のゆりかご』へ行けば、その時計の持ち主と一度だけ再会できます」
再会できる。
その言葉が、ナギの脳髄を直接殴りつけた。
痙攣する指先が、首元の肉を掻き毟る。幻でもいい。もう一度だけ、あの声を。
シズク「それが、星の導きですから」
背を向けるシズク。薄く氷のような微笑を浮かべて。
血の滲む首元を押さえながら、ナギはその後を追う。
だが、彼らはまだ知らない。この美しい世界が孕んでいるのは、底知れぬ狂気と残酷な真実。
◇◇◇
第二章: 傷だらけの獣と星空の海
空を覆い尽くす巨大な枝葉の隙間から、銀色の光が降り注ぐ。
微かな熱を放つ、脈打つ鉱石。
静寂を切り裂く、クリスタルを踏み砕く音。
ガアァァァッ!
突如、森の奥から獣の咆哮が木霊する。
同時に、鉱石の獣を粉砕する、無骨なサバイバルブーツ。
ロウ「邪魔だ! すっこんでろ、クソ石っころが!」
ボロボロのレザージャケットを翻し、金髪を泥で汚した青年が着地する。
鋭い三白眼。怒りで赤く引きつる、左頬の古い刃物の傷跡。
ロウ。現世から迷い込んだらしい、粗暴な青年。
握られているのは、血濡れたサバイバルナイフ。
ロウ「あ? なんだお前ら。俺の獲物を横取りする気かよ」
漂うのは、濃密な死の悪臭。
荒い息を吐きながら、彼はナギの胸ぐらを強引に掴み上げた。
首元の銀時計がカチャリと鳴る。
ナギ「……放せよ。俺は急いでるんだ」
ナギは無表情のまま、ロウの手首に爪が食い込むほど異常な力で握り返す。
ロウ「知るかよ! どいつもこいつも俺を哀れみやがって!」
渦巻くのは、相棒を救えなかったという呪縛。
無謀な特攻。自傷にも似た戦い方。
ナギは彼の中に、自分と同じ「過去に縛られた亡霊」の姿を見た。
ガンッ!
唐突に、ナギは自らの額を傍らの巨木に打ち付けた。額から滴る鮮血。
ナギ「遺された側の痛みが……あんたに分かってたまるか!!」
ナギの奇行と叫びに、ロウの息遣いがピタリと止まる。
手を振り払い、ナギは乱れた息を整えた。
響くのは、巨大な光の鯨の鳴き声。
圧倒的な自然の驚異。人間など、ここでは塵芥に等しい。
夜。焚き火の赤い光が、三人の顔を揺らめくように照らし出している。
ロウは不満げに舌打ちしながらも、不器用な手つきでナギの破れた外套を縫い合わせていた。
炎を見つめるシズクの横顔。
ふと、彼女の細い指先が、ナギの手に触れた。
氷のように冷たい、人間離れした温度。
ナギは驚いて手を引こうとしたが、シズクはかすかに指を絡め、離そうとしない。
シズク「温かいのですね……人間は」
感情の読めない声。しかし、その蒼い瞳の奥に灯る、微かな揺らぎ。
シズク「私は、ただの器。誰かの熱を感じることなど、不要なはずなのに」
ロウ「バカ言ってんじゃねえよ。お前も生きてんだろ。だったら笑え」
ロウが安物の缶コーヒーの空き缶を火に投げ込み、鼻で笑う。
粗暴な態度の裏にある、隠しきれない不器用な情。
微かに軋む、止まった時計の歯車。
だが、彼らを包む平和な夜は、長くは続かなかった。
滲み出す黒い霧。迫る終焉。
◇◇◇
第三章: 過去を喰らう淵
星の淵。すり鉢状の巨大なクレーターの底に広がるのは、黒く澱んだ湖。
肌を刺す、腐敗臭と冷気。
ズズ……ズズズ……
湖面が泡立ち、変貌する泥の怪物。
星幽界の自然の化身「ホシクイ」。
過去に執着する魂を嗅ぎつけ、その未練ごと喰らう存在。
ロウ「な……なんだよ、あれ……」
浮かび上がる無数の顔。
その中の一つ。ロウを見つめる、血まみれの青年の顔。
ロウ「ケン……? 違う、俺は……俺のせいじゃねえ……!」
限界まで開く瞳孔。痙攣する指先。
過去の幻影に囚われ、引き寄せられる足取り。
パカッと開く、泥の巨大な顎。
ナギ「ロウ! だめだ、行くな!」
やめろぉぉぉ!!
ナギは叫びながら泥に飛び込み、渾身の力で引き戻すジャケット。
だが、絡みつく泥の触手。
圧倒的な引力。骨が軋むほどの圧力。
ロウ「ガキ……! てめえ、離せ! 一緒に死ぬ気か!」
ナギ「勝手に死ぬんじゃねえって言ったのは……あんただろ!」
泥と血の味が口内に広がる。ナギは獣のように、自分の足首に絡みつく触手に歯を突き立てて食いちぎろうとしていた。
決して引かない意志の光。狂気じみた執念。
ロウの脳裏で、弾ける何か。
漏れる獣の笑み。
ロウ「……違いねえ。俺の命は、ここで使うためにあったんだ」
ロウは絡みつく触手をナイフで切断し、ナギをシズクの方へと全力で放り投げた。
宙を舞うナギの身体。
両腕を広げ、笑いながら。
ロウ「先に行け、ガキ! 振り返んじゃねえぞ!!」
ドゴォォォン!!
ホシクイ諸共、奈落の底へと呑み込まれる肉体。
天を衝く水柱。
ナギ「ロウぉぉぉぉ!!」