第一章: 異常なフック
接続中... ダンジョン深層『奈落』エリア999... 配信開始。視聴者数: 0人
湿った岩肌に反響するのは、己の心臓が打つ早鐘のような律動だけ。
鼻孔を刺す、腐敗した苔と鉄錆びた血の濃厚な悪臭。
灰崎レイは、薄暗い洞窟の隅でスマートフォンのレンズを覗き込んだ。
画面に映るその姿、およそ生者のそれではない。
常に乾くことのない返り血を吸って硬化した、黒ずんだパーカー。
フードの隙間から覗く蓬髪は、油と煤で固まり、かつての色を失っている。
右目は硝子玉のように光がなく虚ろだが、左目はどうだ。白目にあたる部分まで赤黒く鬱血し、瞳孔の奥で何かが蠢いている。
頬を這う黒いヒビのような紋様。脈打つたびにその範囲を広げていくようだった。
グリトニル「さあ、始めようかレイ。今日の献立は何だい? 視聴者ゼロの晩餐会だ」
脳内に直接響く、粘着質な声。
レイは表情筋を動かさず、自身の左腕をまくり上げた。
そこには無数の縫合痕と、肉が盛り上がったケロイドが地図のように広がっている。
灰崎 レイ「……聞こえるか、グリトニル。獲物が来た」
闇の奥から、重低音の唸り声。
全長五メートルはあるだろうか。強靭な顎と、剃刀のような牙を持つ『暴食の蜥蜴』が、ぬらりと姿を現した。
レイは逃げない。
腰のナイフを抜くこともない。
ただ、カメラに向かって、ひび割れた唇を歪めた。
灰崎 レイ「食事の時間ですね」
ザンッ!
躊躇い? 微塵もない。
レイは自らの手で、自身の左肘の関節にナイフを突き立て、強引に切断した。
噴き出す鮮血。カメラのレンズに散る赤い飛沫。
骨が砕ける不快な音と共に、肘から先がボトリと地面に落ちた。
反応する蜥蜴。
新鮮な肉の匂い。滴る生命の味。
怪物は涎を撒き散らしながら突進し、レイの切断された腕と、レイ本体へと大口を開けた。
痛い。熱い。焼けるようだ。
神経線維が焼き切れるような激痛。
だが、その電気信号が脳に到達する直前、別の快楽物質へと変換される。
脳髄が痺れるような甘美な感覚。
灰崎 レイ「……あぁ、いい。すごく、いい」
バクリ、と閉じる怪物の顎。
レイの上半身ごと飲み込まれる暗黒。
胃酸の強烈な酸味と、腐肉の臭気が全身を包む。
グリトニル「最高だねぇ、この閉塞感! この絶望の味! さあ、払ってやろうじゃないか。家賃(代償)をさ」
怪物の腹の中で、沸騰するレイの切断面。
肉が泡立ち、骨が軋み、瞬時に再生を開始する。
だが、元通りになるのではない。
骨は鋭利な棘へと変形し、筋肉は鋼鉄のワイヤーのように硬質化する。
ギィィィィヤァァァァァァァッ!!
怪物の絶叫。
その分厚い皮膚を内側から食い破り、突き出す無数の黒い刃。
血肉の雨が洞窟内に降り注ぐ。
蜥蜴は自らの胃袋の中で膨れ上がる『異物』に耐えきれず、風船のように破裂した。
捕食完了
血の海の中に、五体満足で立つレイの姿。
左腕は完全に再生し、怪物の返り血で濡れて艶かしく光っている。
偶然、回線のバグで迷い込んだ一人の視聴者が、その光景を目撃した。
灰崎 レイ「……これで、スパチャいくら?」
カメラに向けられたのは、血まみれの笑顔。
生理的嫌悪と、根源的な恐怖。
だが、その視聴者の指は震えながらも『高評価』ボタンを押していた。
逃げられない。
この狂気から、目が離せない。
第二章: 乖離する食卓
現在地: 第13スラム区画 居住棟
錆びついた鉄骨と、違法建築が積み木のように重なり合ったスラム街。
レイの住処は、その最下層にある。
灰崎 レイ「ただいま、ミア。今日は調子どう?」
ガチャリと重いドアを開けると、そこには外の世界とは隔絶された清浄な空間があった。
空気清浄機の静かな駆動音。
清潔な白いベッド。
そこで眠る少女、灰崎ミアが、透き通るような笑顔を向ける。
お兄ちゃん! おかえりなさい。今日も遅かったね
レイの瞳から、先ほどの狂気は消え失せている。
彼は汚れたパーカーを玄関で脱ぎ捨て、念入りに手を洗ってから、ベッドの傍らに跪いた。
灰崎 レイ「ごめんね。ちょっと……残業が長引いて。でも、薬は買えたよ」
彼は懐から、小瓶を取り出す。
中に入っているのは、蛍光色の毒々しい液体。
ダンジョンの深層でしか手に入らない、一本で家が一軒買えるほどの高価な『霊薬』だ。
グリトニル「健気だねぇ、レイ。その薬が何から出来ているか、妹ちゃんに教えてあげないのかい? モンスターの脳漿と、人間の怨念を煮詰めたスープだって」
レイの影から、不定形の黒い液体となって滲み出るグリトニル。
だが、ミアにはそれが見えていない。
彼女に見えているのは、優しい兄の姿だけだ。
レイはミアの痩せ細った手を包み込む。
陶器のように冷たく、脆い指先。
彼はその手の甲に、祈るように唇を寄せた。
死臭を覆い隠すような、甘ったるい花の香りが鼻腔をくすぐる。
レイの体温が、彼女の冷たい皮膚に移っていくのを感じる。
まるで、自分の命を分け与えるような、背徳的で神聖な儀式。
灰崎 レイ「君が生きていてくれるなら、僕はどんなことだってする。……痛いことなんて、何一つないんだ」
嘘だ。
体中が軋んでいる。
グリトニルに食い荒らされた神経が、幻肢痛のように悲鳴を上げている。
それでもレイは笑った。
この笑顔を守るためなら、何度でもあの地獄へ潜れる。
グリトニル「おいおい、そんなに見つめるなよ。溶けちまいそうだ。……本当に、美しい『標本』だねぇ」
グリトニルの言葉に混じる、微かな違和感。
レイは一瞬、眉間を跳ねさせたが、すぐにその感情を押し殺した。
ベッドサイドに置かれた、妹の日記。
『今日もお兄ちゃんが笑ってくれた。幸せ』
歪な文字で綴られたそのページだけが、レイを人間として繋ぎ止める鎖。
だが、部屋の隅にある鏡には、ミアの姿は映っていない。
そこにあるのは、空のベッドに向かって独り言を呟き、虚空を愛おしげに撫でる、狂った青年の姿だけだった。
第三章: 聖女の福音、あるいは死刑宣告
緊急速報: ランク1位配信者『聖女カレン』が、話題の『自食配信者』に接触!
その日、レイの配信枠は異様な熱気に包まれていた。
ダンジョンの広場に降り立った、純白の戦乙女。
陽光を弾くプラチナブロンドの巻き髪、一点の曇りもない白磁の肌。
天堂カレンは、カメラドローンを引き連れて、血塗れのレイの前に立った。
天堂 カレン「はじめましてぇ! あなたが噂の、レイさんですねっ☆ 体を張った配信、いつもハラハラしながら見てますぅ!」
鈴を転がすような声。
だが、レイの左目に寄生したグリトニルだけは、彼女の本質を見抜いていた。
グリトニル「……おやおや。とんだ『同類』が来たもんだ。あの女、腹の中は真っ黒だよ」
レイは無言でカレンを見据える。
彼女の青い瞳の奥に明滅する、冷徹な計算の光。
灰崎 レイ「……何の用ですか。営業妨害なんですけど」
天堂 カレン「ひどぉい! 私はただ、あなたを救いたいだけなのにぃ。……ねえ、レイさん? あなたの妹さん、ミアちゃんのことなんですけどぉ」
カレンが一歩、近づく。
甘い香水の匂いが、血の臭いをかき消す。
天堂 カレン「……あの子、もう死んでるわよ?」
ドクン。
心臓が跳ねた。
世界が、一瞬で色を失った。
耳鳴りがキーンと響き、カレンの声だけが遠くから聞こえる。
灰崎 レイ「……何を、言ってる」
天堂 カレン「あら、気づいてなかったの? あなたが見ているのは、その悪魔が見せている幻覚。あなたが必死に稼いで、あの子に投与していた高額な薬……あれはね、死体を腐らせないための防腐剤と、ダンジョンの核(コア)を育てるための『肥料』なの」
カレンは空中にホログラムを展開する。
そこには、レイのアパートの監視映像が映し出されていた。
ベッドの上には、少女ではない。
どす黒く変色し、植物の根のようなものが全身から生え出した、異形の『肉塊』が横たわっていた。
レイが手を握り、キスをしていたのは、その腐肉だった。
灰崎 レイ「あ……あ, あ……」
グリトニル「あーあ、バレちゃった。つまんないなぁ、カレンちゃん。もう少し、クライマックスまで取っておきたかったのに」
悪魔が笑う。
冷ややかに見下ろすカレン。
視聴者のコメント欄が、嘲笑と恐怖で埋め尽くされる。
『うわぁ……ガチの死体愛好家かよ』
『妹ちゃんマジで肉塊じゃん』
『これBANだろ』
天堂 カレン「あなたは妹を愛しているつもりで、世界を滅ぼす『魔王』を育てていたのよ。……さあ、その汚らわしい悪魔ごと、浄化してあげるわ」
《聖光殲滅砲(ホーリー・レイ)》
カレンの掌から放たれる、極大の閃光。
だが、レイは動かない。
動けない。
彼の世界は、音を立てて崩れ去っていた。
信じていた愛も、痛みも、希望も。
すべては、悪魔の掌の上で踊らされていた道化の芝居だったのだ。
精神汚染率: 99%... 限界突破
第四章: 世界への復讐(スパチャ)
配信タイトル変更: 『肥料集め』
閃光が晴れた後、そこに立っていたのは人間ではなかった。
レイの身体は黒い棘と粘液に覆われ、左半身は完全に異形化していた。
カレンの一撃を防いだのは、グリトニルが展開した幾重もの『影の盾』だ。
グリトニル「ねえ、レイ。絶望するのはまだ早いよ。……魔王(ミア)を完成させれば、世界の理(ルール)なんて書き換えられる。死んだ人間を蘇らせることだって、造作もない」
悪魔の甘い囁き。
それは論理的に破綻している。
だが、今のレイにとって、それは唯一縋れる蜘蛛の糸。
灰崎 レイ「……本当に?」
グリトニル「ああ、本当さ。ただ、少し『肥料』が足りないんだ。……強い魂を持つ、探索者たちの命がね」
レイの虚ろな右目に宿る、昏い炎。
彼はカレンを見た。
そして、その背後にいるカメラドローンを通して、世界中の人間を見た。
灰崎 レイ「……そうか。みんな、僕の邪魔をするんだね」
殺してやる!! 全員、ミアの糧になれぇぇぇぇッ!!
レイの身体から爆発的に伸びる、無数の黒い触手。
それは周囲にいたカレンの取り巻きや、野次馬の探索者たちを次々と貫いた。
断末魔。血飛沫。
それらが全て、レイの、いやグリトニルの糧となって吸い上げられていく。
天堂 カレン「な、なによこれ……! 冗談じゃないわよ!」
聖女の仮面が剥がれ落ちる。
彼女は悲鳴を上げて後退した。
レイはカメラに向かって、血涙を流しながら叫ぶ。
灰崎 レイ「高評価(いいね)してよ!! もっと!! もっと僕を見て!! この痛みも、罪も、全部ミアのためなんだ!!」
配信の同時接続数は、皮肉にも過去最高を記録していた。
人々は恐怖しながらも、一人の人間が完全に倫理を捨て去り、怪物へと堕ちていく様を見逃せなかったのだ。
画面の向こうで、誰かが呟く。
『これ、もう止められないんじゃないか?』
レイはカレンに向けて、変異した巨大な爪を振り上げた。
もはや金のためではない。
世界中を敵に回し、全てを『肥料』にするための殺戮ツアーが幕を開けた。
第五章: 最愛の怪物
現在地: ダンジョン最深部『子宮』
カレン率いる討伐隊、そして軍隊までもがレイを包囲していた。
だが、もはや手遅れだ。
肉塊となったミアは、膨大な『肥料』を吸い尽くし、脈動を始めていた。
グリトニル「素晴らしい! 見ろよレイ、孵化の時間だ!」
裂ける肉塊。
中から現れたのは、天使のように美しい少女……ではなかった。
それは、レイの面影を残しながらも、無数の瞳と触手を持つ、おぞましくも神々しい『何か』。
理解不能な造形。直視しただけで発狂しそうなほどの情報の奔流。
だが、レイにはそれが美しく見えた。
灰崎 レイ「……ミア? 綺麗だ」
怪物は言葉を発しない。
ただ、赤子の泣き声のような、高周波の咆哮を上げるだけだ。
その声に合わせて、ダンジョンの壁が崩壊し始める。
世界の終わりが始まった。
天堂 カレン「嘘でしょ……こんなの、勝てるわけない……」
圧倒的な力の前に、なす術なく蹂躙されていく討伐隊。
だが、怪物の肉体は不安定だった。
急速な成長に耐えきれず、崩壊を始めている。
グリトニル「おっと、最後のピースが足りないみたいだね。……『核』を安定させるための、同じ血を持つ者の肉体が」
レイは理解した。
最初から、これが結末だったのだと。
灰崎 レイ「……そうだね。僕たちは、二人で一つだったんだ」
レイはふらつく足取りで、怪物へと歩み寄る。
討伐隊の銃撃が彼の背中を打つが、痛みすら感じていない。
レイは怪物の濡れた触手に抱きついた。
かつて妹だったモノ。
その粘膜の感触は、どこか懐かしく、温かい。
怪物の無数の瞳が、レイを見つめる。
そこには確かに、兄を慕うミアの意思が残っていた。
灰崎 レイ「ねえ、見てて。これが僕の愛だ」
レイは自身の心臓に、グリトニルの爪を深く突き立てた。
そして、そのまま全ての生命エネルギーを逆流させ、怪物へと注ぎ込んだ。
うああああああああああああああッ!!
溢れる光。
レイの肉体が溶け、怪物の肉体と混ざり合う。
境界線が消失し、二つの魂が螺旋を描いて融合していく。
個体名『灰崎レイ』の消滅を確認。個体名『■■■■』の覚醒を確認。
光が収まった後、そこに立っていたのは、一柱の『神』。
男女の区別もなく、善悪の彼岸に立つ、究極の生物。
それは討伐隊を一瞥し、軽く手を振っただけで、彼らを塵へと変えた。
そして、怪物はゆっくりと、残された配信カメラを拾い上げた。
画面に映るのは、レイとミアが混ざり合った、至上の笑顔。
灰崎 レイ「……見てくれて、ありがとう。僕たちは、幸せだよ」
世界中のディスプレイに焼き付く、その笑顔。
恐怖? 感動?
言葉では形容できない感情が、人類の心に棘として突き刺さる。
怪物は幸せそうに微笑み、カメラのレンズを握りつぶした。
ブツン。
配信は唐突にブラックアウトした。
暗闇に残された視聴者たちは、自身の頬が涙で濡れていることに気づき、戦慄した。
なぜ泣いているのか、誰にもわからない。
ただ、『いいね』の数だけが、暗い画面の中で天文学的な数字を刻み続けていた。