第一章: 剥離
地下迷宮最下層。その空気は、腐った水のごとき粘り気を帯びていた。
どこからか滴る水音が、不規則なリズムで静寂を侵食してゆく。
煤けた灰色のローブが、湿った風に頼りなく揺れた。
身に纏う布地こそ粗末だが、痩せこけた指には不釣り合いなほど精緻な指輪が嵌められている。
ノア・クリスタは、自身の青白い頬を無意識に撫でた。あばら骨が浮くほど華奢な体躯。不健康な白磁の肌に、寝不足を訴える目の下の濃い隈が、まるで落ちない泥のように張り付く。
彼は怯えた子犬のように視線を彷徨わせ、七色に揺らぐ瞳を足元の石畳へと落とした。
アルヴィン・ブレイズ「おい、ノア。そこで止まれ」
鋭い金属音が鳴る。白銀の鎧を隙なく纏った男――勇者アルヴィンが振り返った。
松明の炎が、彼の整いすぎた金髪と、宝石のような碧眼を照らし出す。だが、その唇は軽蔑の形に歪んでいた。
アルヴィン・ブレイズ「お前が生成する『石』は気味が悪いんだよ。……吐き気がする」
ノア・クリスタ「え……? アルヴィン、何を……」
アルヴィン・ブレイズ「クビだと言っている。役立たずの荷物持ち風情が。これ以上、俺の聖剣を汚すな」
アルヴィンが顎で示した先には、底の見えない奈落が口を開けている。
ノアの喉が引きつり、乾いた音が漏れた。心臓が早鐘を打ち、冷たい汗が背筋を伝う。
捨てられる。
その事実が、脳髄を白く焼き尽くした。
ノア・クリスタ「ま、待ってよ。僕がいなくなったら、誰が『浄化』を……」
アルヴィン・ブレイズ「浄化? お前が勝手に拾い集めてるゴミのことか? 笑わせるな。俺たちがここまで来れたのは、俺の実力だ。お前の薄気味悪い呪いのおかげじゃない」
ドガッ、と鈍い音が響く。
アルヴィンの蹴りが、ノアの腹部にめり込んだ。
酸素を強制的に吐き出させられた肺が痙攣し、ノアの身体は宙を舞う。
ノア・クリスタ「あ、あぁ……ッ!」
視界が回転する。
遠ざかる松明の灯り。
最後に目に焼き付いたのは、鼻で笑うアルヴィンと、彼を取り巻く仲間たちの冷ややかな視線だった。
そして闇が、ノアを飲み込んだ。
◇◇◇
ノアの姿が闇に消え、足音が完全に途絶えた瞬間。
カチャリ。
微かな音が、勇者パーティの静寂を破った。
アルヴィン・ブレイズ「……なんだ?」
アルヴィンは自分の手元を見る。
聖剣の柄を握る指先が、小刻みに震えているではないか。
止めようと力を込めるほど、震えは痙攣のように激しさを増し、ガチガチと鎧が鳴り始めた。
寒い。いや、違う。なんだこの感覚は?
これまで感じたことのない、内臓を直接鷲掴みにされるような悪寒。
視界の端で、影が蠢いているように見える錯覚。
今まで「何ともなかった」はずの迷宮の瘴気が、皮膚を焦がすようにへばりつく。
アルヴィン・ブレイズ「おい、僧侶! 防御結界はどうなっている! 寒いぞ、異常なほど寒い!」
振り返った先で、仲間たちもまた、青ざめた顔で互いを抱きしめ合っていた。
彼らは知らなかったのだ。
これまで、足がすくむような恐怖も、心が折れそうな絶望も、その全てをノアが黙って吸い上げ、美しい宝石に変えて処理していたことを。
勇者の剣先が、カチカチと音を立てて石畳を叩く。
闇の奥から、無数の赤い瞳が、震える獲物を見つめていた。
第二章: 開眼
落下は永遠にも思えたが、激突の衝撃は訪れなかった。
腐食したスライムの死骸がクッションとなり、ノアは汚泥の中で目を覚ます。
鼻をつく腐臭。
だが、それ以上に強烈な「気配」が、空間を支配していた。
イブ(イヴリン)「ほう? 人間が降ってくるとはな。それも、今にも壊れそうなガラクタじゃ」
闇の奥、封印の檻の中に「それ」はいた。
透き通るような銀髪が、重力に逆らってふわりと広がる。
ボロボロの漆黒のゴシックドレス。裾は泥に汚れ、破れたレースからは呪いの刻印が刻まれた白い肌が覗く。
そして何より、血の色を煮詰めたような真紅の瞳が、ノアを射抜いていた。
元魔王、イブ。
ノア・クリスタ「き、君は……」
イブ(イヴリン)「近寄るな、人間。……貴様らの種族には反吐が出る。妾をここに閉じ込め、尊厳を奪った貴様ら全員、呪い殺してやりたいわ!」
少女の叫びと共に、どす黒い波動がノアを襲う。
それは純度100%の「憎悪」。
常人なら触れただけで発狂するほどの負の感情の奔流。
だが、ノアは無意識に手を伸ばしていた。
その黒い波がノアの指先に触れた瞬間、パァァン! と硬質な音が弾ける。
イブ(イヴリン)「……な?」
ノアの手のひらには、燃えるような赤色を放つ、巨大な金剛石(ダイヤモンド)が生成されていた。
内側から脈打つような光。これまでのどんな宝石よりも美しく、禍々しいほどの魔力を秘めている。
ノア・クリスタ「……すごい。こんなに純粋な感情、初めてだ」
イブ(イヴリン)「貴様、何をした? 妾の憎悪を……喰らったのか?」
イブは鉄格子の隙間から細い腕を伸ばし、ノアの襟首を掴んだ。
至近距離で見つめ合う。
ノアの瞳が、イブの瞳と同じ赤色に揺らいでいる。
イブの冷たい指先が、ノアの頬に触れた。
爪が肌に食い込む痛みが、逆説的に心地よい。
彼女はノアの手にある紅蓮の宝石を奪い取ると、それを光にかざし、そして愛おしげに唇を寄せた。
宝石に口づけ、舌先で転がすように味わう。
その仕草はあまりに艶めかしく、魔性そのものだった。
「……甘い」
イブが吐息混じりに漏らす。
その吐息がノアの鼓膜を撫で、背筋に電流が走る。
二人の間に流れるのは、言葉よりも濃密な共犯の熱。
イブ(イヴリン)「ククッ……アハハハハ! 面白い! 貴様、名は?」
ノア・クリスタ「ノア……クリスタ」
イブ(イヴリン)「ノアか。よいぞ、気に入った。妾のこの千年の怨嗟、全て貴様にくれてやる。……それを極上の宝石に変えてみせろ」
イブはドレスの裾を翻し、封印の鉄格子を指差した。
イブ(イヴリン)「その石を使えば、こんな封印など紙屑同然じゃ。さあ、開けろ。そして妾を連れ出せ。……外の世界を、地獄に変えてやるために」
ノアは「紅蓮の金剛石」を握りしめた。
今までゴミだと言われてきた能力。
だが今、目の前の少女はそれを「美しい」と言ったのだ。
ノア・クリスタ「……分かった。行こう、イブ」
《感情結晶化(エモーション・クリスタライズ)》――解放。
迷宮の底から、世界を揺るがす光が柱となって立ち昇った。
第三章: 崩壊と真実
地上、冒険者ギルドの本部は異様な熱気に包まれていた。
「おい見たか! あの『紅蓮の金剛石』! 魔力を増幅させる触媒として国宝級だぞ!」
「出品者はノア・クリスタ……? あの落ちこぼれ荷物持ちがか?」
豪奢なベルベットのソファに深々と座るノア。
その隣には、仕立て直した漆黒のドレスを優雅に着こなすイブが、砂糖菓子を齧りながら退屈そうに脚を組んでいる。
ノアの指にはめられた指輪の数々は、かつてない輝きを放ち、周囲の視線を釘付けにしていた。
一方、その路地裏。
ゴミ捨て場のような一角で、かつての英雄たちが蹲る。
アルヴィン・ブレイズ「なんでだ……! なんで手が震える! なんで剣が重い!」
アルヴィンの髪は脂で汚れ、かつての煌びやかさは見る影もない。
眼球は血走り、焦点が定まらずに宙を泳いでいた。
彼の仲間たちも同様。聖女はブツブツと聖句を呟きながら爪を噛み、戦士は酒に溺れて泥酔している。
怖い。怖い怖い怖い。
アルヴィンの脳内に、聖剣の声が響く。
『もっと力を。もっと魂をよこせ』
それは、英雄を導く聖なる声などではなかった。
ギルドの奥、VIPルームにて。
イブが紅茶のカップを置き、真紅の瞳を細めた。
イブ(イヴリン)「傑作じゃな。あの勇者もどき、そろそろ限界か」
ノア・クリスタ「限界……?」
イブ(イヴリン)「気づいておらぬのか? あの聖剣はな、持ち主の精神を喰らって力に変える『呪物』じゃよ」
ノアの手が止まった。
ノア・クリスタ「精神を、喰らう……?」
イブ(イヴリン)「そうじゃ。恐怖、不安、猜疑心……それらを餌にする。これまでは貴様が横からその『餌』を吸い取って宝石に変えていたから、奴の魂は無事だった。だが今は?」
フィルターを失った聖剣は、アルヴィンの精神を直接、咀嚼し始めている。
臆病な彼が、なぜあんなにも強気でいられたのか。
それは彼が強いからではない。
恐怖を感じる機能ごと、ノアに丸投げしていたからだ。
イブ(イヴリン)「空っぽの器に、聖剣の呪いが満ちる。……生まれるぞ、ノア。勇者という名の、ただの化け物が」
その時。
街の外から、悲鳴が上がった。
大地を揺らす轟音。
ギャァァァァァァァッ!!
それは人間の声帯から発せられたものとは思えない、金属を擦り合わせたような絶叫だった。
「ゆ、勇者アルヴィンが……! 街の人を襲ってるぞ!!」
ノアが窓の外を見ると、そこには異形の肉塊と化した鎧の男が、暴れ回る姿があった。
第四章: 絶望の再会
街は炎に包まれていた。
逃げ惑う人々。崩れる建物。
その中心に、肉が膨張し、鎧を内側から突き破った異形の巨人が立っていた。
顔の半分は溶け落ちているが、残った片目は確かにアルヴィンのものだった。
アルヴィン・ブレイズ「痛い……痛い痛い痛い!! ノア! ノアぁぁぁぁ!!」
巨人が、瓦礫の山の上に立つノアを見つけ、幼児のように腕を伸ばす。
アルヴィン・ブレイズ「戻ってこい! 俺の痛みを……持ってけ! お前はゴミ箱だろう!? 俺のゴミを拾えよぉッ!!」
あまりに醜悪で、身勝手な懇願。
だが、ノアの足が一歩、前に出る。
長年の習性。
「誰かの役に立たなければ、自分には価値がない」という呪いが、鎖となってノアを縛る。
僕が吸い取れば、彼は助かるかもしれない。僕がまた、全部我慢すれば……
ノア・クリスタ「アルヴィン、僕は……」
アルヴィン・ブレイズ「遅いんだよクズがァッ!!」
アルヴィンが巨大な腕を振り回す。
逃げ遅れた少女と母親が、その手の中に鷲掴みにされた。
アルヴィン・ブレイズ「俺を楽にしないなら、こいつらを潰す! プチッとなァ!! さあ、早くしろ! 俺の恐怖を消せ!!」
少女の泣き叫ぶ声。母親の悲鳴。
ノアの視界が明滅する。
僕のせいだ。僕が彼を見捨てたから。僕が彼を甘やかしてきたから。
自己犠牲という名の麻薬を彼に与え続けていたのは、他ならぬ自分だったのだ。
膝から力が抜けた。
その時。
パチン。
乾いた音がして、頬に痛みが走った。
イブが、ノアの頬を張ったのだ。
イブ(イヴリン)「痴れ者が。貴様、まだ自分を安売りする気か」
ノア・クリスタ「でも、イブ……僕のせいで……」
イブ(イヴリン)「自惚れるな! あれは奴が選んだ地獄じゃ! 奴が捨ててきた感情が、奴を喰らっているだけ。……貴様が背負う必要など、欠片もない!」
イブはノアの胸ぐらを掴み、無理やり顔を上げさせる。
真紅の瞳が、至近距離で燃えていた。
イブ(イヴリン)「貴様の手は、ゴミを拾うためのものか? ……違うじゃろう。宝石を磨くための手じゃろうが!」
視界が開ける。
そうだ。
自分はもう、ただのゴミ箱じゃない。
ノアは指輪に手をかけた。
そこには、アルヴィンから最後に受け取った、ドス黒く濁った「絶望」の結晶が嵌められている。
ノア・クリスタ「……そうだね。僕が預かるのは、もう終わりだ」
ノアは一歩踏み出す。
自己犠牲との決別。
もはやその目に迷いはない。
ノア・クリスタ「アルヴィン! その痛み……全部、お前に返してやる!!」
ノアの手から、万色の光が迸る。
それは救済の光ではない。
審判の輝きだった。
第五章: 審判の輝き
スキル《感情解放(エモーション・リリース)》発動
ノアが掲げた手から、無数の宝石が弾け飛んだ。
これまでアルヴィンが捨ててきた、数年分の「恐怖」「悲しみ」「自己嫌悪」。
美しく研磨されたそれらが、光の粒子となってアルヴィンへと殺到する。
物理的な衝撃ではない。
それは、精神の防壁を透過し、魂に直接突き刺さる「感情の逆流」だった。
アルヴィン・ブレイズ「あ、あがぁぁぁぁぁッ!? な、なんだこれはぁぁぁ!!」
巨人が頭を抱えてのたうち回る。
脳内に雪崩れ込む、かつて自分が無視した現実。
――死への恐怖。
――孤独への不安。
――自分の弱さに対する、吐き気がするほどの嫌悪。
アルヴィン・ブレイズ「やめろ、やめろ! 俺は勇者だ! 選ばれた人間なんだ! 怖い、怖い怖い怖い!」
人質となっていた親子が、緩んだ手から滑り落ちた。
ノアはすかさず駆け寄り、二人を抱きかかえて安全圏へと跳ぶ。
ノア・クリスタ「逃げちゃダメだ、アルヴィン。それが『人間』だ。痛みを感じて、恐怖して、それでも立っているのが……生きるってことなんだよ!」
うわぁぁぁぁぁぁんッ!!
化け物の姿をしたアルヴィンが、ついに地面に突っ伏し、子供のように泣きじゃくり始めた。
聖剣の呪いが、宿主の強烈すぎる「人間らしい感情」に耐えきれず、黒い霧となって霧散していく。
肉塊が収縮し、元の等身大の人間へと戻る。
そこにいたのは、煌びやかな勇者ではない。
泥と涙と鼻水にまみれ、震えながら蹲る、ただの哀れな青年だった。
戦いは終わった。
圧倒的な静寂の中、ノアはアルヴィンを見下ろす。
アルヴィン・ブレイズ「ノア……助けてくれ……怖いんだ……」
かつてなら、ここで手を差し伸べていただろう。
だが、ノアは静かに首を横に振った。
ノア・クリスタ「もう助けないよ。……その恐怖と向き合って、自分で歩くんだ」
ノアは背を向けた。
もう二度と振り返らない。
その背中には、確かな自信と、微かな哀愁が漂っている。
◇◇◇
数日後。
街を去る馬車の上に、二人の姿があった。
イブ(イヴリン)「良いザマだったな。あれで少しはマシな男になるじゃろう」
ノア・クリスタ「どうかな。……でも、もう僕には関係ないよ」
ノアは手の中にある、新しい宝石を陽光にかざした。
今回の戦いで生まれた、透明で、どこか温かい光を放つ石。
「決別の金剛石」。
イブ(イヴリン)「さて、次はどこの国へ行く? 妾の感情はまだまだ底なしじゃぞ? 飽きさせるなよ、宝石職人殿」
ノア・クリスタ「ああ。君が泣いて、怒って、笑う限り……僕は世界一美しい宝石を作り続けるよ」
馬車がガタゴトと音を立てて進む。
その軌跡には、虹色の光が微かに残っていた。
彼らが捨てた涙は、今や彼らを照らす道標となっている。
物語は、新たな輝きと共に続いていく。