残滓の導き手

残滓の導き手

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第一章 沈黙する真鍮

東京の胃袋、その奥底。

古書店兼骨董店『アトリエ・ムネモシュネ』は、湿った路地の突き当たりで、死に体のように蹲っていた。

店内の空気は、呼吸をするだけで肺が汚れるようだ。

黴びた紙。酸化した鉄。

そして、何百人もの持ち主が遺した、どす黒い情念の腐臭。

「……あ゛ぁ、クソ」

天野悠理は、カウンターの木目を睨みつけながら呻いた。

胃液が逆流する。

さっき買い取った江戸期の簪(かんざし)。

あれがいけなかった。

触れた指先から、脳髄へ直接流し込まれたのは、身を焦がすような恋慕ではない。

もっと粘着質な、首を絞められるような『嫉妬』の味だった。

眉間を爪で食い込むほど強く揉む。

痛みで感覚を散らさなければ、吐いていた。

『残滓(ざんし)』。

物にへばりついた記憶の垢。感情の排泄物。

それが悠理には、極彩色の映像と、生々しい触覚となってなだれ込んでくる。

便利な能力?

冗談じゃない。

これは、他人の人生の汚泥を、無理やりストローで飲まされる拷問だ。

カラン。

乾いた音が、粘りつく空気を切り裂いた。

ドアが開いている。

逆光。

男が立っていた。

仕立ての良いグレーのスーツ。だが、その輪郭がどこか曖昧だ。

まるで、古いフィルム映像のような粒子の粗さを感じる。

「……天野悠理」

問いかけではない。記号を読み上げるような声。

「今日は、もう店じまいです」

悠理は手を振った。これ以上、他人の『ゴミ』には触れたくない。

「受け取れ」

男は聞く耳を持たない。

カウンターに、無造作に包みを置いた。

黒いビロードの布。

その瞬間。

悠理の背骨を、氷柱のような悪寒が突き抜けた。

(――なんだ?)

臭わない。

この店に充満する情念の悪臭が、その包みの周囲だけ、真空のように消えている。

圧倒的な『無』。

嵐の目の静寂。

あまりの異質さに、悠理は吸い寄せられるように手を伸ばした。

震える指が、ビロードを解く。

現れたのは、真鍮の塊。

懐中時計だ。

鈍い金色の輝きが、店内の薄暗がりを貪欲に吸い込んでいる。

だが、何かがおかしい。

「……針が、ない」

文字盤には数字すらなく、ただ滑らかな象牙色の海が広がっているだけ。

時を拒絶した時計。

悠理の指先が、冷たい金属に触れた。

ドクン。

心臓ではない。

魂の奥底、普段は決して触れられない領域を、万力で締め上げられたような衝撃。

頭痛も、吐き気もない。

ただ、懐かしいような、それでいて泣き出したいほどの『寂寥感』が、津波のように押し寄せた。

キィィィィン……。

耳鳴りか?

いや、時計の内部から響いている。

微かな、しかし断固とした振動。

「あんた、これをどこで……」

悠理は顔を上げた。

誰も、いない。

ドアベルは鳴らなかった。

埃が舞う西日の中に、ただ『時を刻まぬ懐中時計』だけが、重たい存在感を放って鎮座している。

世界が、回り始めた。

悠理の意思などお構いなしに、床が抜け落ちていくような浮遊感。

視界が暗転する。

第二章 鉄錆の海

いきなり、磯の匂いが鼻孔を突いた。

次いで、胃の中身がひっくり返るような揺れ。

「うぷっ……」

悠理は口元を押さえた。

店ではない。

闇の中だ。

足元が、軋んでいる。

ミシミシ、ギィギィ。木材が悲鳴を上げている。

湿った夜風。頬を叩く波飛沫。

船の上だ。

「ぜよ……」

すぐ隣で、うめき声がした。

悠理は目を凝らす。

大男が、船の手すりにしがみついている。

月明かりに照らされたその横顔。髷(まげ)。

教科書で見た英雄の顔。

坂本龍馬。

だが、そこに威厳など欠片もない。

龍馬は脂汗を流し、小刻みに震えていた。

「わしには……無理じゃ……」

歯の根が合わない音がする。

「この船が行けば、戦になる。人が死ぬ。わしのせいで、罪もないもんが……」

嘔吐する寸前の、強烈な恐怖。

英雄?

違う。

これは、ただの人間だ。歴史の重圧に押し潰され、逃げ出したいと泣き喚く、等身大の若者。

悠理の肌に、龍馬の絶望が伝染する。

心臓が早鐘を打つ。足がすくむ。

(これが、歴史の分岐点……?)

その時。

龍馬の背後に、影が立った。

目深にフードを被った男。

顔は見えない。だが、その手にはあの『懐中時計』が握られている。

(あいつは……!)

店に来た男か?

フードの男は、何も言わない。

説得もしない。

ただ、震える龍馬の背中に向けて、時計を掲げた。

カチリ。

針のない時計が、音を立てた。

瞬間、悠理の脳内に、凄まじいイメージが流入した。

言葉ではない。

『光景』だ。

焼け野原から立ち上がるビル群。

夜を昼に変える電気の光。

鉄の塊が空を飛び、人々が笑い合う未来。

そして、その礎となるために流れる血の、尊い熱さ。

「……あ」

龍馬の喉から、声が漏れる。

彼にも見えているのだ。

恐怖を上書きするほどの、圧倒的な未来のヴィジョン。

「わしが……やらねば」

龍馬の震えが止まる。

脂汗にまみれた顔が、ゆっくりと上がった。

瞳に宿っていた怯えが消え、代わりに燃えるような光が灯る。

「わしが死んでも、この景色が来るなら……安いもんじゃき」

龍馬は、濡れた手すりを強く握り直した。

船底の軋みなど、もう耳に入っていない。

彼は大きく息を吸い込み、漆黒の海を見据えた。

「行くぞ! 夜明けは近い!」

その背中は、もう迷子ではなかった。

歴史を背負う巨人の背中だった。

空間が歪む。

景色が遠のいていく。

待て。

悠理は、消えゆく景色の中で、フードの男を見た。

男は龍馬を見送ると、ふっと力を抜いた。

その仕草。

時計を持つ手の、小指を少しだけ浮かせる癖。

そして、肩を回して緊張をほぐす動作。

悠理の心臓が、早鐘を打った。

知っている。

その癖を、俺は知っている。

「おい、待て……! お前は誰だ!」

悠理が手を伸ばす。

フードの奥。

暗闇の中で、口元だけが微かに歪んだように見えた。

寂しげに。

そして、自嘲するように。

第三章 灰色の砂漠

『見ろ』

頭蓋骨の裏側に、声が響いた。

景色が一変する。

船も、海も、龍馬もいない。

色がない。

「……ここは」

悠理は、足元の砂を掴んだ。

サラサラと指の間から零れ落ちる、灰色の砂。

見渡す限り、灰、灰、灰。

建物はない。木もない。

空は鉛色に淀み、太陽すら見えない。

風が吹いている。

ヒュオオオオ……。

乾いた音が、鼓膜を擦る。

喉が張り付くほど乾燥している。

舌の上には、金属的な苦味と、焼けたプラスチックのような不快な味が広がる。

生命の気配が、絶望的なまでに『ゼロ』だ。

『これが、調律されなかった場合の結末だ』

声が響く。

『龍馬が逃げ出せば、この国は内乱で腐り落ち、列強に食い散らかされ、やがて世界大戦の火種となって焼き尽くされる』

寒気がした。

これは、ただの映像ではない。

肌を刺す寒さ。肺を焼く汚染された空気。

リアルすぎる『死』の感触。

『歴史は、放っておけば崩壊へ向かう。無数の分岐の中で、唯一「先」へ続く細い糸を手繰り寄せる。それが我々の役目だ』

「我々……?」

悠理は、握りしめていた時計を見た。

熱い。

火傷しそうなほど熱を帯びている。

先ほどの龍馬の背中を押した感覚。

あれは、他人のものではなかった。

時計を通して、悠理自身の中から湧き上がったものだ。

既視感。

(まさか)

悠理は、震える手で自分の胸元を押さえた。

あのフードの男。

あの立ち姿。

あの孤独な雰囲気。

そして、何よりも、この時計を握った時の、恐ろしいほどの『馴染み方』。

「嘘だろ……」

悠理は呻いた。

吐き気が込み上げる。

俺が?

俺が、あいつなのか?

じゃあ、この呪いのような能力は。

他人の感情に押し潰され、吐き気を催し、社会から逃げるように生きてきたこの体質は。

すべて、過去の自分が用意した『道具』だったというのか?

「ふざけるな……ッ!」

悠理は叫び、灰色の地面を殴りつけた。

拳が擦り切れ、血が滲む。

痛みだけが現実だ。

「誰のせいで……俺がこんなに苦しんでると思ってるんだ! 勝手に使命だか何だか背負わせて、俺の人生を……!」

怒りが爆発する。

普通に生きたかった。

ただ、平穏に、誰とも関わらず、静かに生きたかった。

なのに、元凶は自分自身だった。

過去の自分が、未来の自分を『道具』として作り変えていたのだ。

『怒れ。そして、絶望しろ』

声は淡々としていた。

『だが、知っているはずだ。この灰色の世界を前にして、お前の魂が何を叫んでいるかを』

悠理は顔を上げた。

見渡す限りの死の世界。

そこで、誰かの泣き声が聞こえた気がした。

生まれるはずだった命。

紡がれるはずだった物語。

それらがすべて、消滅した世界。

胸の奥が痛い。

怒りよりも深く、鋭い痛みが走る。

「……嫌だ」

悠理は呟いた。

「こんな結末は、嫌だ」

使命感ではない。

ただの生理的な拒絶。

この静寂は、間違っている。

店で感じるドロドロとした情念の方が、まだマシだ。

あれは、生きている証だから。

『ならば、継げ。天野悠理』

灰色の世界に亀裂が入る。

『お前は、孤独になるために能力を持ったのではない。この世界の痛みに気づくために、その神経を研ぎ澄ませたのだ』

光が溢れた。

最終章 名もなき秒針

「っ、はぁ……!」

悠理は、店の床で目を覚ました。

全身が汗でずぶ濡れだ。

朝の光。

埃が舞う店内。

外からは、車の走行音と、登校する子供たちの甲高い笑い声が聞こえる。

「……うるさいな」

悠理は上体を起こし、苦笑した。

以前なら、耳を塞いでいた騒音。

だが今は、その「うるささ」が、ひどく愛おしい。

世界はまだ、灰色じゃなかった。

手の中には、あの時計。

熱は冷めていたが、脈打つような鼓動は続いていた。

悠理は立ち上がり、鏡を見た。

酷い顔だ。

目の下にはクマ、髪はボサボサ。

だが、その瞳の奥には、以前のような濁りきった諦念はなかった。

覚悟を決めた人間だけが持つ、静かで冷たい光。

「……最悪の気分だ」

悠理は呟く。

これからは、この呪いと共に生きなければならない。

誰にも知られず、歴史の歪みを修正し続ける。

報酬もない。感謝もされない。

失敗すれば、あの灰色の地獄が待っている。

あまりに重い、クソみたいな「遺産」だ。

「でもまあ、やるしかないか」

悠理はコートを羽織った。

時計が、ポケットの中でカチリと鳴った気がした。

針はない。

だからこそ、この時計は永遠に止まらない。

悠理は店のドアを開けた。

湿った風ではなく、乾いた冬の風が吹き込んでくる。

次の「歪み」の場所は、なんとなく分かっていた。

ここから電車で三十分。

ある大学の研究棟。

研究に行き詰まり、命を絶とうとしている一人の若き学者がいる。彼が死ねば、五十年後に開発されるはずのワクチンが消滅する。

行かなければ。

悠理は、路地裏から眩しい表通りへと足を踏み出した。

雑踏に紛れ、背中を丸めて歩く。

誰も、彼には気づかない。

すれ違う人々は知らないだろう。

この冴えない青年が、たった今、世界を救うために歩き出したことを。

そしてこれからも、名もなき秒針として、この世界を動かし続けることを。

ポケットの中で、悠理は時計を強く握りしめた。

その掌には、微かな誇りと、確かな痛みが残っていた。

AIによる物語の考察

**登場人物の心理と伏線解説**
主人公・天野悠理は他者の「残滓(感情の記憶)」に苦しむ能力を呪いと捉え、社会から逃避していました。しかし、謎の男が持参した針のない懐中時計を通して、その男が悠理の「未来の姿」であり、能力が歴史を「調律」するための道具だったと知ります。男の曖昧な姿や悠理と同じ癖、時計に触れた時の「懐かしさ」や「寂寥感」が、その衝撃的な真実への伏線となっています。自己の存在意義が反転した事実に、彼は絶望します。

**テーマ**
本作は、個人の幸福と世界の存亡という二律背反を問います。悠理は自身の人生を奪った過去の自分への怒りを感じつつも、生命の消えた「灰色の未来」を拒絶し、生きた情念のざわめきに価値を見出します。誰にも知られず、孤独に歴史の歪みを修正し続ける「名もなき導き手」の悲哀と、それでもなお使命を受け入れる彼の選択が、運命への受容と生命への肯定という哲学的なテーマを深く描いています。
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