第一章 硝煙の指先
鼻を突く硫黄の臭いが、狭い土間に充満している。
源治は、震える右手で薬さじを握りしめていた。
指の節は古木のようにゴツゴツと隆起し、黒い煤が皮膚の皺一本一本にまで染み込んでいる。
「親方、もう休んでください。日が昇っちまいます」
弟子の佐吉が、心配そうに声をかけてきた。
行灯の頼りない明かりが、土間の闇をゆらゆらと揺らしている。
「うるせえ。……あと少しなんだ」
源治は視線を配合皿から逸らさない。
明治五年。
世の中は文明開化だと騒ぎ、大川の端にはガス灯なんていうハイカラなものが立ち並び始めた。
夜が明るくなりすぎた。
花火の色も変わった。
異国から入ってきた『洋火』は、派手で、けばけばしい赤や緑を放つ。
江戸っ子たちが愛した、あの儚く消える和火の侘び寂びなんぞ、誰も見向きもしなくなっている。
「そんな配合、危険すぎます。塩素酸カリなんて……扱いを間違えたら、小屋ごと吹き飛びますよ」
「佐吉。お前は知らねぇだろう」
源治は薬さじを静かに置いた。
カチャリ、と乾いた音が土間に響く。
「あの人が見たがっていた青は、こんな安っぽい色じゃねぇんだ」
脳裏に浮かぶのは、三年前、流行り病であっけなく逝った小夜の姿だ。
『源さん。私、夜明け前の空みたいな、透き通った青い花火が見てみたい』
芸妓だった彼女が、最期にふと漏らした言葉。
それは、当時の和火では決して出せない色だった。
源治は左手で、痛む右手の震えを抑え込む。
硝石と木炭、そこに異国の薬品を混ぜ合わせる。
命を削るような配合だ。
「時代が変わろうが、俺の火は変わらねぇ。いや、変えてたまるか」
呟きは、湿った夜気の中に溶けていった。
第二章 舶来の幻影
翌日、両国の川開きは、例年以上の人出で賑わっていた。
川面には屋形船がひしめき合い、三味線や太鼓の音が風に乗って聞こえてくる。
だが、源治の心は晴れなかった。
「見てみろよ、あの赤! すごい鮮やかだなあ!」
観衆の歓声が上がるたびに、源治の胸に棘が刺さる。
打ち上げられているのは、ライバルの鍵屋が仕入れた洋火だ。
夜空を切り裂くような鋭い光。
確かに美しい。
だが、そこには『余韻』がない。
パッと咲いて、パッと消える。
まるで今の世の中そのものだ。
「親方、俺たちもそろそろ準備を……」
「ああ」
源治たちは、メインの打ち上げ場所から少し離れた、静かな河川敷にいた。
今日は、鍵屋の前座として数発上げるだけの仕事だ。
落ちぶれた老舗の扱いなんて、こんなものだ。
源治は懐から、一発の尺玉を取り出した。
通常の玉よりも一回り小さく、黒い和紙で幾重にも包まれている。
「親方、それは……昨日の?」
佐吉が目を見開く。
「こいつは、番付には載せねぇ。俺のわがままだ」
源治は玉を筒に装填しながら、空を見上げた。
満月が雲に隠れ、あたりは墨汁を流したような闇に包まれている。
風が止まった。
川の匂いと、屋台の焼きイカの香ばしい匂いが混ざり合う。
「佐吉、火種をよこせ」
「……はい」
佐吉は何か言いたげだったが、源治の鬼気迫る横顔を見て、黙って火縄を渡した。
手の震えは、もう止まっていた。
職人の魂が、肉体の衰えを凌駕していた。
(小夜。お前が待ってる場所まで、届くかわからねぇが)
源治は火縄を導火線に近づけた。
シュッ、という音と共に、赤い火花が走る。
最終章 誰も知らない青
ドン、という鈍い音が腹に響いた。
黒い塊が、夜空へと吸い込まれていく。
観衆の目は、派手な連発花火が終わった後の余韻に向いており、誰もこの一発には気づいていない。
ヒュルルル……という昇り竜の音さえ消し去った静寂。
頂点に達したその時。
音もなく、それは開いた。
ボッ。
咲いたのは、光ではなかった。
それは、夜そのものを染め上げるような、深く、冷たく、そしてどこまでも優しい『青』だった。
派手な輝きはない。
だが、その青は網膜に焼き付くのではなく、心臓を直接掴むような色をしていた。
「あ……」
隣で佐吉が息を呑むのがわかった。
それは、夜明け前の空の色。
小夜が最後に見たがっていた、静寂の色。
周囲の喧騒が一瞬、遠のいた気がした。
ガス灯の明かりさえも、その青の前では色褪せて見えた。
数秒の後、青い光は柳の枝のように垂れ下がり、川面へと溶けて消えた。
拍手はなかった。
誰も見ていなかったからだ。
だが、源治の頬には、一筋の熱いものが伝っていた。
「……綺麗でした、親方」
佐吉の声が震えている。
「馬鹿野郎。ただの火遊びだ」
源治は袖で顔を乱暴に拭った。
川向こうで、再び派手な洋火が上がり、歓声が爆発する。
新しい時代が、古い時代を飲み込んでいく。
それでいい、と源治は思った。
自分の役目は終わった。
だが、あの青だけは、誰の記憶にも残らずとも、この大川の水底と、自分の魂にだけは焼き付いた。
「帰るぞ、佐吉。腹が減った」
「へい、親方」
源治は道具箱を担ぎ上げる。
その背中は、来る時よりも少しだけ小さく、けれど、どこか誇らしげに見えた。
明治の夜風が、二人の足元を吹き抜けていった。