蒼き残り香の調律師

蒼き残り香の調律師

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第一章 無臭の世界と少女の依頼

雨の匂いがしない。

窓ガラスを叩く激しい飛沫が見える。アスファルトが濡れて黒く染まっていくのも見える。

だが、私の鼻腔には何も届かない。

かつて「神の鼻」と呼ばれた調香師、古賀蓮次郎(こがれんじろう)の世界は、三年前に妻を亡くしたあの日から、色のない無菌室のように閉ざされていた。

「……失礼します」

重厚なオーク材の扉が軋み、遠慮がちな声が静寂を破る。

濡れたレインコートの雫が、床に小さな水たまりを作っていた。

依頼人だ。

二十代前半だろうか。意志の強そうな瞳をした女性が、私のデスクの前に立つ。

名は、水瀬(みなせ)ミオといった。

「古賀先生。……この香りを、再現していただきたいのです」

彼女が差し出したのは、何のラベルも貼られていない、古ぼけた小瓶だった。

中身は空っぽだ。完全に、乾ききっている。

「中身がないようだが」

「ええ。十五年前、父が逮捕された現場に残されていたものです。警察は『ラベンダーの香り』だと言いました。でも、違うんです」

ミオは唇を噛み、小瓶を強く握りしめた。

「あの日、私が嗅いだのは、もっと恐ろしくて、悲しい……『青い炎』のような匂いでした。父は殺人を犯してなどいない。この香りの正体がわかれば、父の無実を証明できるはずなんです」

青い炎の匂い。

嗅覚を失った今の私には、皮肉な響きだ。

だが、脳裏にある化学式が明滅する。

私は椅子に深く座り直し、指先でテスターの紙縒(こより)を回した。

「警察の鑑識よりも、十五年前の少女の記憶を信じろと?」

「信じます。あの匂いは、父が私を守ろうとした証(あかし)だから」

彼女の瞳には、迷いがなかった。

私は溜息をつき、空の小瓶を受け取る。

鼻を近づけても、やはり無臭だ。

しかし、私の脳は、そこにあるはずの「残留物」を視覚情報と状況証拠から再構築し始めていた。

「いいだろう。ただし、報酬は高い。それに、君が望む真実が出るとは限らない」

「構いません」

彼女の覚悟を受け、私は立ち上がった。

匂いのない世界で、亡霊のような残り香を追う旅が始まった。

第二章 記憶の古層

現場となった洋館は、鎌倉の山奥にひっそりと佇んでいた。

十五年という歳月は、人の記憶を風化させるには十分だが、建物に染み付いた情念を消すには短すぎる。

「この部屋です」

ミオが案内したのは、二階の書斎だった。

床には規制線のテープの跡が薄く残り、埃が雪のように積もっている。

私は手袋をはめ、部屋の中央に立った。

目を閉じる。

(視覚を遮断しろ。音と、肌で感じる空気の流れだけで構成しろ)

湿度は高い。カビの胞子が舞っているのが「見える」ようだ。

古い革張りのソファ。インクの染みたデスク。

そして、部屋の隅にある、不自然に色が褪せた絨毯の一角。

「あそこで、被害者である私の義父が倒れていました」

ミオの声が震えている。

「父は……義父を花瓶で殴ったと自供しました。動機は、金銭トラブルだと」

私は絨毯に這いつくばり、ルーペを取り出した。

繊維の奥に、微細な結晶が見える。

警察の資料によれば、現場には大量のラベンダーのポプリが散乱していたという。

犯行を隠蔽するために香りを撒いた、というのが検察側の主張だった。

「ミオさん。あの日、窓は開いていたか?」

「いいえ、閉め切っていました。台風が来ていたので」

「そうか。……なら、ラベンダーの香りが充満していたなら、君は『青い炎』などという表現はしないはずだ」

ラベンダーの主成分は酢酸リナリル。甘く、鎮静効果のある香りだ。

対して『青い炎』という言葉から連想されるのは、もっと刺激的で、鼻の奥を焼くような……。

「君のお父さんは、化学に詳しかったか?」

「父は……町工場の塗装職人でした。薬品の扱いには慣れていたと思います」

塗装職人。

ピースがひとつ、カチリと嵌まった音がした。

私は立ち上がり、部屋の隅にある小さな換気口を見上げた。

そこには、黒ずんだ煤(すす)のようなものが付着している。

「先生、何かわかったんですか?」

「仮説だ。だが、もしこれが正しければ……君の父親は、とんでもないものを調合したことになる」

私は鞄から数種類の試薬を取り出した。

匂いはわからない。

だが、化学反応の色は嘘をつかない。

絨毯の繊維から採取した微粒子を試験管に入れ、特殊な溶液を垂らす。

ジュッ、と微かな音がして、液体が鮮やかな青色に変色した。

「ルミノール反応……いや、違う。これは」

私は戦慄した。

これは血液の反応ではない。

特定の化学物質が混合された時にだけ残る、特異な痕跡だ。

「ミオさん。君はあの日、この部屋で何を見た?」

「私は……ドアの隙間から見ていただけです。義父が倒れていて、父が必死に床を拭いていて……」

「違う。君はもっと『前の時間』に何かをしていないか?」

私の問いに、ミオの顔色が蒼白になる。

「……義父は、私に乱暴しようとしました。私は必死で抵抗して、テーブルの上にあった何かを……」

彼女の記憶が、恐怖で封印されていた蓋を押し開けようとしている。

「それを父がかばった。そうだな?」

「……っ!」

ミオが膝から崩れ落ちる。

私は確信した。

この事件の真相は、殺人ではない。

もっと切実で、哀しい『中和』の物語だ。

第三章 青い炎の正体

アトリエに戻った私は、換気扇を最大出力にして実験の準備を始めた。

フラスコ、ビーカー、そして数種類の危険な薬品。

ミオは不安そうに、ガラスの向こうからその様子を見つめている。

「いいかい、今から十五年前の空気を再現する。少しでも気分が悪くなったら逃げるんだ」

私はマスクを装着し、手順を開始した。

まず、次亜塩素酸ナトリウム。

いわゆる、強力な漂白剤の主成分だ。

塗装職人だった彼女の父親なら、日常的に手に入ったはずだ。

次に、酸性洗剤。

「混ぜるな、危険」

誰もが知るその禁忌を、父親はあえて犯したのだ。

なぜか?

「強烈な塩素ガスが発生する。これが『青い炎』の正体の一部だ」

フラスコの中で液体が泡立ち、黄緑色の気体がうっすらと発生する。

普通なら、これだけで猛毒だ。

だが、ミオの証言には続きがあった。

『甘くて、でも痛い匂い』

塩素ガスだけなら、ただ痛いだけだ。

そこには、何か別の要素が混ざっていた。

私は、警察が押収品リストに記載していなかった「ある植物」のエッセンスを手に取った。

それは、洋館の庭に咲いていたという「月下美人」の花弁から抽出したものだ。

「月下美人の香り成分、ベンジルサリチラート。そして、インドール」

インドールは、微量ならば花の香りだが、濃度が高ければ排泄物や腐敗臭にもなる。

そして何より、塩素ガスと反応した時、特異な化合物を生成する。

私は震える手で、そのエッセンスをフラスコに滴下した。

瞬間。

私の視覚が捉えたのは、フラスコの底に沈殿する青白い結晶。

そして、マスク越しには何も感じないはずの鼻腔が、熱く脈打つのを感じた。

(──バカな。匂いが、戻ってくるのか?)

いや、違う。

これは脳が記憶している「情景」だ。

強烈な殺菌臭と、咽せ返るような花の腐臭。

それが混ざり合い、奇跡的なバランスで成立した、死と再生の香り。

「……これです」

インターホン越しに、ミオの声が響いた。

ガラスの向こうで、彼女が涙を流している。

「この匂いです……! 父が、私を抱きしめてくれた時の匂い!」

謎は解けた。

義父は、ミオに襲いかかった際、持病の発作か何かで突発的に死んだのだ。

だが、ミオは自分が突き飛ばしたせいで死なせてしまったと思い込んだ。

駆けつけた父親は、娘が殺人を犯したと誤解し、その痕跡──たとえば、争った際に付着した何かや、あるいは遺体そのものの状態──を消し去ろうとした。

漂白剤と洗剤を撒き散らし、あらゆる有機物を分解しようとした。

その強烈な塩素臭を誤魔化すために、庭の月下美人を大量に摘んで部屋に満たしたのだ。

ラベンダーのポプリなどではない。

あれは、月下美人の残骸だったのだ。

「警察は、月下美人を枯れたラベンダーと見間違えたのか……」

父は、有毒ガスが発生する中で、必死に娘の「罪」を洗い流し続けた。

肺を焼かれながら。

自らが殺人犯となることで、娘の未来を守るために。

最終章 赦しの芳香

実験を終え、私はアトリエの窓を開け放った。

外はまだ雨が降っている。

「……父は、刑務所で病死しました」

ミオが背後で呟く。

「最期まで、何も語りませんでした。ただ『ミオは悪くない』とだけ」

私は調合した香りを染み込ませたムエット(試香紙)を彼女に渡した。

「これは、ただの化学反応の臭いじゃない。愛の香りだ。不器用で、命がけのな」

ミオはムエットを顔に押し当て、声を上げて泣いた。

十五年間、彼女を縛り付けていた「父親を殺人犯にしてしまった」という苦悩と、「義父を殺してしまったかもしれない」という恐怖。

その両方が、この青白い香りの中で溶けていく。

父は彼女の罪を被ったのではない。

彼女の無垢を守り、事故を隠蔽し、すべてを一人で背負って逝ったのだ。

「ありがとう、ございました……」

彼女の涙声を聞きながら、私はふと、鼻先に冷たい気配を感じた。

湿った土の匂い。

アスファルトの油の匂い。

そして、彼女の髪から漂う、微かなシャンプーの香り。

(……ああ)

世界に、色が戻ってくる。

妻を失った悲しみで閉じていた私の感覚が、他人の強烈な愛の記憶に触れることで、再び回路を繋いだのだ。

「……雨の匂いがするな」

私の独り言に、ミオが涙を拭って頷いた。

「ええ。とても、優しい雨の匂いです」

私は深く息を吸い込んだ。

どこかで金木犀が咲いているのかもしれない。

甘く、切ない秋の香りが、再生したばかりの私の胸を静かに満たしていった。

小瓶の中の「青い炎」は消えた。

後にはただ、父と娘の絆という名の、永遠の残り香だけが漂っていた。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • 古賀蓮次郎 (Renjiro Koga): かつて「神の鼻」と呼ばれた天才調香師。妻の死をきっかけに心因性の嗅覚脱失に陥る。シニカルだが、香りを「化学式」と「情景」で論理的に再構築する特異な才能を持つ。
  • 水瀬ミオ (Mio Minase): 依頼人。15年前の事件で父が殺人犯として逮捕された過去を持つ。父の無実を信じ、当時の「青い炎の匂い」の正体を追い求めている。
  • ミオの父: 塗装職人。娘を守るため、禁忌の化学反応を利用して現場を隠滅し、自ら罪を被って獄中死した。不器用で深い愛の持ち主。

【考察】

  • 「青い炎」のメタファー: 実際に発生した塩素ガスの色であると同時に、父親の「静かで熱い怒りと愛」を象徴している。また、ルミノール反応のような「隠された真実を暴く光」の暗喩でもある。
  • 嗅覚の喪失と再生: 蓮次郎の嗅覚喪失は「過去(妻)への執着による停滞」を表す。ミオの父の「過去を塗り替えてでも未来(娘)を守る」という愛に触れることで、蓮次郎は停滞から脱し、感覚(生)を取り戻す。
  • 雨の役割: 物語全体を通して降り続く雨は、洗い流すべき罪と悲しみを象徴し、ラストシーンでは再生と浄化の象徴へと変化している。
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