残響と、忘れられた時間のためのレクイエム
第一章 錆びた残響
カイの指先が、煤けた街灯の鉄柱にそっと触れる。ひやりとした金属の感触。すると、世界が滲んだ。古いフィルムのようにざらついた幻影が、現実の風景に重なっていく。吐息の白さ、マフラーに顔をうずめる若い女、その肩を抱く男のぎこちない笑み。彼らの声にならない感情――淡い期待と、指先が触れ合う瞬間の熱だけが、音のない残響としてカイの意識に流れ込んできた。
だが、幻影はすぐにノイズに苛まれた。恋人たちの輪郭が揺らぎ、風景が歪む。まるで、記憶そのものが忘却に抵抗し、悲鳴を上げているかのようだ。カイはそっと指を離した。現実の街並みが色を取り戻す。灰色の空の下、人々は足早に行き交い、誰もが自分の「時間」を守ることに必死だった。
この世界では、時間は物理的な富だった。街角の時間槽(クロノ・タンク)には、人々が切り詰めた秒や分が琥珀色の液体として貯蔵され、富裕層はそれを買い占めて永遠に近い若さを謳歌する。一方で、貧しい者は自らの寿命を切り売りして日々の糧を得る。残酷なまでに公平な、ゼロサムゲーム。
しかし今、そのシステムさえも揺るがす奇妙な病が蔓延していた。「忘却の霧」と呼ばれる現象だ。歴史書の文字が滲んで読めなくなり、記念碑に刻まれた英雄の名が風化し、昨日の夕食さえ思い出せない人々が増えていた。過去が、世界から静かに剥がれ落ちていく。この霧はカイの能力にも及び、彼が触れる残響を不確かで断片的なものに変えてしまっていた。
「あなたが、『時撫で』のカイさんですね」
振り返ると、そこに一人の女性が立っていた。歴史記録院の制服を纏った、理知的な瞳の女性。彼女はエルナと名乗り、深刻な面持ちで一枚の古びた写真を差し出した。それは、街の中央広場が炎に包まれている壮絶な光景だった。
「これは『大消失』の記録です。我が国最大の悲劇であり、同時に、再建の礎となった事件。ですが……この事件に関するあらゆる記録が、今まさに消えかかっているのです。写真に写る人々の顔も、事件の原因も、全てが曖昧になっていく。あなたの力で、失われる前の真実を視てほしいのです」
エルナの瞳の奥には、歴史を守ろうとする者の最後の祈りが揺らめいていた。
第二章 時を喰らう時計
エルナがカイに手渡したのは、鈍い銀色に輝く懐中時計だった。それは通常の時計とは異なり、文字盤には数字も針もなかった。代わりに、乳白色の盤面の中央で、小さな黒曜石の破片が微かに震えているだけだった。
「『時を喰らう懐中時計』。私の家に代々伝わる遺物です。これは時間を刻むのではなく……持ち主の強い感情が宿った瞬間を、時間ごと喰らうのです」
エルナの説明によれば、この時計は残響を一時的に安定させ、より鮮明な形で可視化する力を持つ唯一の道具だという。カイはごくりと唾を飲み込み、その冷たい重みを掌で確かめた。
彼らは「大消失」が起きた旧中央広場へと向かった。再建された美しい公園の中心には、巨大な慰霊碑が静かに佇んでいる。カイは懐中時計を握りしめたまま、ゆっくりと碑の表面に手を伸ばした。
石に指が触れた瞬間、懐中時計が激しく脈動した。カイの全身を凄まじい奔流が貫く。視界が真っ赤に染まり、現実が砕け散った。
――轟音。熱波。人々の絶叫が鼓膜を突き破る。燃え盛る建物の破片が雨のように降り注ぎ、空には巨大で禍々しい幾何学模様が浮かんでいた。人々の恐怖、絶望、そして誰かへの怒り。感情の嵐がカイを打ちのめす。時計が喰らった時間の力で、残響はかつてないほど生々しい現実となって彼に襲いかかった。
だが、最も重要な核心は靄に包まれたままだった。一体、何がこの悲劇を引き起こしたのか。誰が、何と戦っていたのか。カイが必死に目を凝らそうとしたその時、幻影は唐突に途切れ、彼は膝から崩れ落ちていた。掌の中の懐中時計は、心なしか少しだけ膨らんでいるように見えた。
第三章 歪む因果
「どうでしたか?」
息を切らすカイに、エルナが駆け寄る。
「何か、見えましたか?」
「嵐のようだ……」カイは喘ぎながら答えた。「感情の嵐だ。だが、何かがおかしい。見るたびに、情景が微妙に変わるんだ」
それから数日間、カイは何度も慰霊碑に触れ、残響の追体験を試みた。しかし、その試みは彼を混乱させるばかりだった。ある幻影では、炎の中から人々を救い出す英雄の姿が見えた。だが次の幻影では、その英雄自身が破壊を引き起こす悪鬼のように見えた。またあるときは、英雄の姿はどこにもなく、人々がただ無慈悲な力によって蹂躙されるだけだった。
「過去が、一つに定まっていない……」エルナはカイの報告を聞き、青ざめた顔で呟いた。「まるで、誰かが歴史を書き換えようとしていて、元の歴史がそれに抵抗しているみたいだわ」
その仮説を裏付けるように、「忘却の霧」はさらに濃度を増していった。人々は家族の名前を忘れ、自分の家に帰る道を見失った。時間取引所は機能不全に陥り、街から活気が消えていく。世界全体が、確かな過去という土台を失い、ゆっくりと崩壊へと向かっているようだった。
カイの持つ懐中時計は、追体験を繰り返すたびに強い感情を喰らい続け、明らかに肥大化していた。乳白色の盤面には亀裂が走り、内部から不気味な光が漏れ出している。もう、あと一回が限界だろう。エルナはカイの憔悴しきった顔を見て、唇を噛んだ。
第四章 調律者の声
ひび割れた懐中時計を握りしめ、カイは最後の追体験に精神を集中させた。これが最後だ。真実を掴む、最後のチャンス。
彼は再び慰霊碑に触れた。
世界が砕け散る。これまで経験したことのないほど深く、鮮明な残響の奔流が彼を飲み込んだ。燃え盛る広場、絶叫、天を覆う幾何学模様。カイはその嵐の中心へと、意識の糸を必死に手繰り寄せた。そして、彼は見た。
炎の只中で、一人の少年が呆然と空を見上げていた。恐怖も悲しみもなく、ただ、そこに在るだけの存在。その顔を見て、カイは息を呑んだ。それは、記憶の片隅にかろうじて残っている、幼い頃の自分自身の姿だった。
その瞬間、全ての音が消えた。轟音も絶叫も、燃える炎の音さえも。世界が純白の静寂に包まれ、カイの意識に直接、声が響き渡った。それは男でも女でもなく、人間のものではない、絶対的な法則のような声だった。
『観測者よ。エラーは特定された。これより最終的な修正プロセスに移行する』
「誰だ……?」
『我らは調律者。この世界の因果律を管理する存在。お前たちが「大消失」と呼ぶ事象は、この世界の安定を著しく損なう歴史的エラーの発生点。そして、その特異点の中心にいるのが、お前なのだ、カイ』
調律者は淡々と告げる。カイが追体験していた不確かで揺らぐ残響は、調律者が過去を「正しい形」に修正しようとするプロセスと、それに抵抗する元の因果律との衝突が生み出す火花だったのだと。
『お前の存在そのものが、この世界のバグなのだ』
第五章 選択の刻
カイの目の前に、二つの未来が提示された。
一つは、調律者の修正を受け入れ、カイ自身が「大消失」の瞬間に戻り、歴史からその存在を消し去る未来。そうすれば、因果の歪みは完全に修復され、「忘却の霧」は晴れ、世界は安定した歴史を取り戻す。それが、調律者にとっての「正しい世界」。
もう一つは、抵抗する未来。特異点として存在し続け、因果の矛盾を世界に解き放つ。それは、この世界そのものを巻き込む、予測不可能な崩壊を引き起こすかもしれない選択だった。
カイは、自分が何者なのかを理解した。彼は「大消失」の日に、本来ならば死ぬはずだった少年。何らかの奇跡か偶然によって生き延びた彼の存在が、歴史にあり得べからざる歪みを生み出し、世界全体を蝕んでいたのだ。
「そんな……」隣でカイの異変を察していたエルナが、彼の腕を掴んだ。彼女には調律者の声は聞こえない。だが、カイの絶望に満ちた表情から、全てを悟ったようだった。
「行かないで、カイ」
彼女の声は震えていた。
「あなたが消えたら、世界が救われたって何の意味があるの? 私は忘れない。たとえ歴史があなたを消し去ろうとしても、私が、あなたのことを覚えているから」
エルナの言葉が、カイの心を貫いた。彼女の掌から伝わる温もり。それは、彼がこの世界に存在した、何より確かな証だった。
掌で、限界まで肥大化した懐中時計が最後の輝きを放った。エルナの強い想いを喰らい、砕け散る寸前の奇跡を紡ぎ出そうとしていた。
カイは、決断しなければならなかった。愛する人が覚えていてくれる不確かな未来か、あるいは、愛する人のために自らが忘れ去られる確かな未来か。
第六章 名もなき残響のために
カイは、穏やかに微笑んだ。それは、彼が初めて見せる心からの笑みだった。
「ありがとう、エルナ。君が覚えていてくれるなら、俺は……」
彼は懐中時計の最後の力を解放し、自らの存在を「大消失」の瞬間に座標を合わせた。因果の修正点へ、自ら飛び込むために。
カイの身体が、足元から光の粒子となってゆっくりと崩れていく。エルナが必死に伸ばした手は、空しく光をすり抜けた。彼の視線の先で、「忘却の霧」が晴れていくのが見えた。街に色が戻り、人々の顔に生気が蘇る。歴史書の滲んだ文字が、再び確かな輪郭を取り戻していく。
世界は、救われたのだ。彼という「エラー」を消し去ることで。
やがて、カイの姿は完全に消え失せた。
エルナは一人、美しく再建された中央広場に立ち尽くしていた。彼女の手の中には、針が永遠に止まった懐中時計の、小さな銀色のかけらが一つだけ握られていた。
街の人々は、何事もなかったかのように笑い合っている。歴史は正しく紡がれ、誰も「カイ」という名の男を覚えてはいない。慰霊碑に刻まれた犠牲者のリストに、彼の名前が加わることもない。
だが、エルナの胸の中だけには、確かに彼の温もりが残っていた。彼が触れた残響、彼がくれた言葉、そして、最後に彼が見せた微笑み。それは誰にも消せない、彼女だけの真実。
空はどこまでも青く澄み渡っていた。エルナは空を見上げ、頬を伝う一筋の涙を拭うこともせず、静かに呟いた。
「忘れないわ。あなたという、名もなき残響のために」