虚言の羅針盤と歪んだ真実
第一章 歪んだ街の残響
アスファルトに膝をつくと、冷たさがじわりと染み込んできた。俺、カガミ・カイの能力は、地面に染み付いた嘘の残滓を拾い上げること。それは呪いにも似た才能だった。
目を閉じる。
意識を集中させると、数日前にこの場所で吐かれた嘘が、五感を通じて流れ込んでくる。
――指先に絡みつく、安物の絹のスカーフの感触。
――焦げた砂糖と、安っぽい香水が混じった甘ったるい匂い。
――「愛している」という囁き。その声の裏側に張り付いた、氷のような嘲笑。
――そして、嘘が暴かれた瞬間の、ガラスが砕け散るような絶望の叫び。
「……終わった」
目を開けると、いつもの灰色の路地裏が広がっていた。俺が体験できるのは、嘘が崩壊する直前の、ほんの数秒間の断片だけ。だが、それだけで嘘の在り処と本質を突き止めるには十分だった。依頼人に結果を報告するメッセージを送り、立ち上がる。
この街、ミストラルは嘘で満ちている。人々が大きな嘘をつくと、「虚像」と呼ばれる時空間の歪みが生じる。それは嘘が露見すれば霧散する、儚い蜃気楼のようなものだ。しかし、この街の中心には、決して消えることのない恒久的な歪みが存在した。
誰もが畏怖を込めて呼ぶ、『虚空の区区画』。
世界を揺るがしたという『原初の嘘』によって生まれた、禁断の地。その真実を知る者は、誰もいない。俺は知らず知らずのうちに、その歪んだ中心地へと足を向けていた。まるで、見えない糸に引かれるように。
第二章 虚言の羅針盤
「これは面白い。針が片時も止まらん」
古物商の老婆が、皺だらけの手で示したのは、鈍い真鍮色の羅針盤だった。手のひらに収まるほどの大きさで、ガラス盤の向こうで針が狂ったように回転を続けている。まるで、世界のあらゆる方向を同時に指し示そうとしているかのようだ。
「『虚言の羅針盤』というそうだ。大きな嘘の前でだけ、真実の在り処を指すと言われているがね。ただの与太話さ」
俺はその羅針盤に奇妙な引力を感じ、なけなしの金をはたいて手に入れた。懐にしまい込むと、針の震えが微かに伝わってくる。
その日の午後、俺は大学の古文書館で一人の女性と出会った。
「あなたが、カガミ・カイさん?」
色素の薄い髪を揺らし、知的な光を宿した瞳で俺を見つめる彼女は、アオイ・リナと名乗った。虚空の区画を研究する歴史学者だという。
「あなたの能力について聞きました。どうか、私の調査に協力していただけませんか。『原初の嘘』の謎を解き明かすために」
彼女の目は、純粋な知的好奇心に燃えていた。嘘の残滓にまみれてきた俺にとって、その真っ直ぐな光は眩しすぎた。断る理由は、なかった。
第三章 虚空の区画
虚空の区画に足を踏み入れた瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。
建物は溶けかけたロウのように形を失い、空は油絵の具を乱雑に塗りたくったような色彩をしていた。空気が重い。まるで水の中にいるようだ。
「ここが……」リナが息を呑む。
俺は懐から羅針盤を取り出した。狂ったように回っていた針が、わずかに回転の速度を緩め、区画の奥深くを指しては揺れる、という奇妙な動きを見せ始めた。
俺たちは羅針盤が示す方角へ、慎重に進んだ。区画の中心に近づくほど、歪みは激しくなる。時間の流れさえ曖昧になり、過去の幻影と未来の残響が交錯しているかのようだった。
やがて、歪みが最も激しい広場のような場所にたどり着いた。俺はそこに膝をつき、両手を地面につけた。これまで感じたことのない、途方もなく巨大で、複雑な嘘の気配がそこにはあった。
目を閉じる。
――空が燃え、大地が裂ける音。
――金属的な悲鳴と、数えきれない人々の絶望の嘆き。
――『これでいいんだ』
――そう呟く、嗄れた男の声。それは不思議なほど、俺自身の声に似ていた。
――そして、世界そのものが軋みを上げて書き換えられていく、圧倒的な感覚。
「うっ……!」
あまりの情報の濁流に、俺は思わず手を離した。息が荒くなる。これは、ただの嘘じゃない。世界の理そのものを捻じ曲げた、創造にも等しい大嘘だ。
第四章 砕かれた仮説
リナの調査と、俺が読み取る断片的なビジョン。二つの線は、奇妙な地点で交わろうとしていた。
「おかしいわ」リナが古い文献をめくりながら言った。「歴史上、『虚像』という現象が記録され始めたのは、たかだか数百年前から。まるで、その日を境に、世界の物理法則が書き換えられたみたいに」
その言葉は、俺の心に深く突き刺さった。俺が区画の中心で体験した、世界が書き換えられる感覚。あれは比喩ではなかったのかもしれない。
俺は再び虚空の区画へ向かった。一人で。
断片を拾い集めるたびに、あの嗄れた男の声が脳裏に響く。それは過去の誰かの声であると同時に、未来の俺自身の声であるかのような、奇妙な既視感を伴っていた。
そして、気づいてしまった。
嘘の残滓に触れるたび、懐の羅針盤が激しく振動し、その針が一瞬だけ、ぴたりと俺自身の胸を、心臓を指し示していることに。
最初は偶然だと思った。だが、それは何度繰り返しても同じだった。
真実の在り処は、嘘が生まれた場所は、ここだ、と。
俺の、心臓だと。
背筋を冷たい汗が伝った。俺が追っていた謎は、外の世界にあるのではなかった。最初から、俺自身の内にあったのだ。
第五章 原初の嘘、未来の真実
決意を固め、俺は再び区画の最深部、あの広場に立った。リナには何も告げずに来た。これは、俺一人が向き合うべき真実だと直感していたからだ。
羅針盤を握りしめ、もう一度、地面に手を触れる。今度は逃げない。この大嘘の根源を、最後まで見届ける。
意識が、時空の奔流に呑み込まれた。
見えたのは、俺たちの世界とは似て非なる、荒廃した風景だった。空は毒々しい紫色に裂け、そこから『真実』という名の絶望が降り注いでいた。人々はなすすべもなく、その真実の奔流に飲み込まれ、存在そのものが消滅していく。世界は、あまりにも残酷な真理に耐えきれず、崩壊しかけていた。
その地獄の中心に、一人の男が立っていた。
深く刻まれた皺。絶望と覚悟を宿した瞳。それは、紛れもなく老いた俺自身の姿だった。
未来の俺は、崩壊する世界を救うために、たった一つの途方もない計画を実行しようとしていた。
世界を崩壊させる『真実』そのものを覆い隠す、巨大な嘘を創造すること。
「嘘は、時として真実よりも優しい」
未来の俺はそう呟くと、自らの全存在を賭して、世界の法則を書き換えた。人々が嘘をつくと空間が歪む『虚像』という新たな理を、世界に上書きしたのだ。それは、人々を世界の残酷な真実から守るための、巨大な防壁だった。
『原初の嘘』とは、悪意に満ちた偽りなどではなかった。
それは、世界を救うために未来の俺がたった一人で紡いだ、あまりにも孤独で、壮大な愛の嘘だったのだ。そして虚空の区画は、その嘘をこの世界に縫い付けるための、巨大な楔そのものだった。
第六章 嘘喰いの心臓
ビジョンから解放された俺は、広場の中心で呆然と立ち尽くしていた。全てを理解した。なぜ羅針盤が俺の心臓を指すのかも。
『原初の嘘』を創り出したのは、未来の俺。
その嘘を解き明かす鍵を持つのは、過去の俺。
羅針盤は、嘘と真実の源流が、カガミ・カイという一個の存在の中に同居していることを示していたのだ。
未来の俺は、分かっていたのだろう。いつか過去の自分がこの真実に辿り着くことを。そして、その時に改めて選択をさせるために、この羅針盤を残したのだ。
俺の目の前には、二つの道が横たわっている。
一つは、この優しい嘘の世界を維持し、未来の自分と同じように『原初の嘘』の孤独な守護者となる道。
もう一つは、真実を暴き、世界を本来の姿――残酷な真理によって崩壊する、ありのままの姿――に戻す道。
どちらが正しいのか、誰にも分かりはしない。
俺はそっと、虚言の羅針盤を胸に当てた。針は、俺の心臓の鼓動と共鳴するかのように、静かに、まっすぐに俺自身を指し示したまま、微動だにしなかった。
歪んだ空を見上げる。
かつて未来の俺が見たであろう、崩壊の空をそこに重ねる。
そして、俺は静かに微笑んだ。
その笑みに込められた意味を、知る者は誰もいない。