虚ろな肖像のレクイエム

虚ろな肖像のレクイエム

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第一章 霞の中の残響

霧島朔の仕事場は、静寂を売りにした高級喫茶店よりも静かだった。防音壁に囲まれた部屋の中央に、被験者が横たわるリクライニングチェアと、その頭部を覆うヘッドギア、そして朔が操作するコンソールがあるだけ。彼は「記憶鑑定士」。人の脳に残された曖昧な記憶の断片を、電気信号から再構成し、映像として映し出す専門家だ。彼にとって記憶とは、主観と願望と忘却が織りなす、最も不確かな代物だった。

その日、彼の静寂を破ったのは、警視庁の古株、田所刑事だった。持ち込まれた案件は、前代未聞の奇妙さを放っていた。

「一週間前、深夜の公園で殺人事件があった。――と、三人の目撃者が証言している」

田所は疲れた顔で言った。

「問題は、被害者の遺体も、血痕一つ、争った形跡も、何一つ見つからないことだ。そして、目撃者たちは全員、被害者の顔を『思い出せない』」

ありえない、と朔は思った。集団ヒステリーか、悪質ないたずらか。だが、田所の目は真剣だった。

「目撃者――初老の女性、帰宅途中のサラリーマン、ジョギング中の学生。三人の接点はなく、証言は驚くほど一致している。『男が倒れていた』『胸から血を流していた』『犯人らしき人影が走り去った』。だが、肝心の被害者の顔だけが、靄がかかったように思い出せないと言うんだ」

「共通点はそれだけですか?」

「いや、もう一つある」田所は少し間を置いて続けた。「全員が、現場で奇妙に澄んだ『鈴の音』を聞いたと証言している」

最初の被験者は、初老の女性、高村静江だった。穏やかな顔立ちの彼女は、おびえた様子でヘッドギアを装着された。朔はコンソールを操作し、彼女の記憶の海に潜っていく。

モニターに、ノイズ混じりの映像が浮かび上がった。夜の公園。街灯がぼんやりと地面を照らし、木々が黒い影を落としている。映像は小刻みに揺れ、高村の恐怖と動揺を伝えてくる。そして、それは現れた。ベンチのそばに、一人の男がうつ伏せに倒れている。濃い色のコート、乱れた黒髪。だが、田所の言った通りだ。顔があるべき場所は、まるでテレビの砂嵐のように、デジタルノイズが渦を巻いていて、何も見えない。

その瞬間、映像の背景から、チリン、と高く澄んだ鈴の音が響いた。それは場違いなほど美しく、聞く者の鼓膜を心地よく震わせる。しかし、映像の中のそれは、死の静寂を切り裂く不吉な残響として、朔の耳に残った。朔は、これまで何百という記憶を覗いてきたが、これほど不可解で、肌が粟立つような記憶は初めてだった。被害者が「いない」のではない。確かに「いる」のに、その存在が世界から拒絶されているような、奇妙な感覚だった。

第二章 不在の証明

他の二人の目撃者の記憶も、結果は同じだった。サラリーマンの記憶は雨に濡れたアスファルトの匂いを伴い、学生の記憶は荒い息遣いとイヤホンから漏れる音楽が混じっていたが、核心部分は同じ。ノイズで塗りつぶされた被害者の顔と、澄み渡る鈴の音。三つの異なる主観が、同じ「存在しないはずの光景」を寸分違わず描き出している。偶然にしては、あまりに出来すぎていた。

警察の捜査は、当然ながら行き詰まった。物理的証拠が皆無である以上、「事件はなかった」と結論づけるしかない。集団幻覚、あるいは虚偽記憶の一種として処理され、捜査は事実上打ち切られた。

「時間の無駄だったな、霧島君」

田所はそう言って肩をすくめたが、朔は納得できなかった。彼の仕事は、記憶の「真偽」を問うものではない。ただ、そこに記録されたものを「鑑定」するだけだ。だが、今回は違った。あのノイズの向こう側に、確かに存在するはずの「誰か」がいる。その顔を見なければならない、という強迫観念にも似た衝動に駆られていた。記憶という不確かなものに人生を捧げながら、彼自身が、確かな一つの真実を渇望していた。

朔は警察の資料を離れ、独自の調査を始めた。まず、三人の目撃者の経歴を洗い直した。年齢も職業も居住地もバラバラ。共通の知人もいなければ、同じコミュニティに属した過去もない。しかし、奇妙な点が一つだけ見つかった。彼らは皆、十年以上前に、同じ時期にあの公園の近隣に住んでいたのだ。ただそれだけ。だが、闇に差し込んだ細い光のように、その事実が朔の心を捉えた。

彼は仕事場のコンソールに向かい、三人の記憶データを再びロードした。それぞれの映像は、単体では不完全なパズルの一片に過ぎない。だが、もしこれらを重ね合わせ、共通する信号を増幅し、個別のノイズを相殺させたらどうなるか。それは鑑定士の領域を逸脱した、ほとんど研究者のような作業だった。

朔は夜を徹して、映像の同期と合成に取り組んだ。異なる視点、異なる時間軸のズレを補正し、ピクセル単位でデータを重ねていく。モニターには、無数の数式とコードが滝のように流れていった。部屋の静寂は、彼の打つキーボードの音と、サーバーの低い唸りだけが支配していた。

そして、夜が白み始めた頃、ついに解析は完了した。三つの記憶が一つに溶け合い、ノイズの奥に揺らめいていた人影が、徐々に輪郭を結び始める。砂嵐が晴れていくように、霞が取り払われていくように、隠されていた顔が、ゆっくりと、ゆっくりと姿を現した。

朔は息を呑んだ。モニターに映し出された顔を見て、全身の血が凍りつくのを感じた。

そこにいたのは、見知らぬ誰かではなかった。

あどけなさが残る、十歳ほどの少年。頬にかかる黒髪。そして、自分と瓜二つの、その顔。

それは、記憶の最も深い場所に、彼自身が固く封印してきたはずの、幼い頃の霧島朔の顔だった。

第三章 鈴の音は誰がために

頭を殴られたような衝撃と共に、忘却の扉が軋みながら開いていく。そうだ、あの公園。あの場所で、僕は……。

朔は、実家の物置の奥から、埃をかぶった段ボール箱を引っ張り出した。中には、古びたアルバムが何冊も眠っていた。ページをめくる指が震える。七五三、運動会、誕生日。どの写真にも、自分とそっくりな顔をした少年が、もう一人、隣で笑っていた。

蓮。双子の兄の名前だ。

十五年前の夏の日。僕らは、あの公園でかくれんぼをしていた。鬼だった僕が、隠れている蓮を見つけられずにいると、どこからか、チリン、チリン、と鈴の音が聞こえた。蓮が大切にしていた、お守りの鈴の音だ。音のする方へ走ると、蓮は古びた井戸のそばに立っていた。僕をからかうように笑い、腐った蓋の上に乗った瞬間、それが崩れた。悲鳴と、物が落ちる鈍い音。そして、永遠に続くかのような静寂。

その日を境に、僕の家から蓮の存在は消えた。両親は蓮の写真を隠し、彼の名を口にすることもなくなった。まるで、初めから僕が一人っ子であったかのように。あまりの悲しみに耐えきれなかった家族は、忘れることで自分たちを守ったのだ。そして、僕も、その沈黙に加担した。兄を失った罪悪感から逃れるために、蓮の記憶に自ら蓋をした。いつしか、僕自身も、兄が「いた」ことすら忘れて生きてきた。

被害者は、存在しない人間ではなかった。家族からも、世界からも、「忘れ去られた人間」だったのだ。

目撃者たちは、あの事故の関係者だったに違いない。近所に住み、事故の噂を聞き、あるいは遠巻きに現場を見ていた人々。彼らの潜在意識の底に沈んでいた「少年の死」という共通のトラウマが、何者かによって「殺人事件」という新たな記憶として上書きされ、呼び覚まされたのだ。

だが、誰が、何のために?

答えは、すぐに見つかった。最初の依頼者、高村静江。彼女は、僕らの母方の祖母だった。父と母が亡くなってからは疎遠になっていたが、彼女だけは、蓮のことを決して忘れようとしなかったのだ。

第四章 忘れられたレクイエム

朔は、祖母の家を訪ねた。縁側で静かにお茶をすする彼女は、すべてを悟ったような穏やかな顔で朔を迎えた。

「……思い出したのかい、朔」

その声は、優しく、そして深く哀しかった。

「なぜ、あんなことを」

「蓮が、あまりにも哀れでね」祖母は、遠い目をして語り始めた。「みんなの中から、あの子が消えていくのが、たまらなかった。死んだことよりも、忘れられて、いなかったことにされるのが、一番酷なことだろう? だからね、誰かに思い出してほしかったんだよ。あの子が、確かにこの世界に生きていた証を、誰かに見つけてほしかった」

祖母は、朔が記憶鑑定士になったことを知っていた。そして、この奇妙な事件の謎を解けるのは、記憶の専門家である彼しかいないと確信していた。彼女は、事故の関係者たちに、心理カウンセラーを装って接触し、「最近、あの公園で物騒な事件があった」という暗示をかけた。そして、事件当日とされた夜、公園で蓮の形見の鈴を鳴らした。それが引き金となり、彼らの心の奥底に眠っていた十五年前の記憶が、歪んだ形で蘇ったのだ。すべては、孫を忘れたもう一人の孫に、忘れられた孫を思い出させるための、歪で壮大な計画だった。

それは、法では裁けない犯罪だ。そもそも、事件など起きていないのだから。あるのはただ、深い愛情と、癒えることのない喪失感だけだった。朔は、祖母を責める言葉を見つけられなかった。

仕事場に戻った朔は、もう一度、合成された記憶映像を再生した。ノイズの向こうで、幼い兄が、こちらを見て静かに微笑んでいるように見えた。彼はこれまで、記憶を不確かで厄介なものと見なし、客観的な事実だけを追い求めてきた。だが、今ならわかる。不確かで、時に人を苦しめる記憶こそが、失われた者たちの存在をこの世に繋ぎとめる、唯一の糸なのだと。

朔は、実家から持ってきた古いアルバムを開く。蓮と肩を並べて笑う自分の写真。その横に、祖母がそっと差し出した、小さな銀の鈴を置いた。

彼は静かにそれを手に取り、一度だけ、軽く振った。

チリン。

澄んだ音色が、静寂に満ちた部屋に響き渡る。それは、忘却に抗うための鎮魂歌(レクイエム)。そして、兄と共に再び生きていくことを決意した、静かで力強い誓いの音だった。世界が忘れても、僕だけはもう二度と、君を忘れない。

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