風化のタペストリー

風化のタペストリー

9 5172 文字 読了目安: 約10分
文字サイズ:

第一章 色褪せた記憶の依頼人

リクの世界は、音もなく色を失っていく世界だった。人々が忘れ、語り継ぐことをやめた歴史や記憶は、確かな輪郭を失い、やがて「風化」して完全に消滅してしまう。それを防ぐのが、リクの仕事――記憶織師(きおくおりし)の役目だった。

彼の仕事場は、埃と乾燥した植物の匂いが混じり合った静かな工房だ。壁一面に掛けられた巨大な織機が、寡黙な主のように鎮座している。リクは、風化しかけた記憶の断片――「記憶糸(きおくいと)」と呼ばれる、淡く光を放つ繊維――を受け取り、それをタペストリーとして織り上げる。そうすることで、記憶は物質的な形を得て、消滅から免れるのだ。

「次の依頼だ、リク」

工房の扉が軋み、師であるエイラが入ってきた。彼女は年の頃は四十代に見えるが、その瞳には遥か昔を見つめているような深淵さが宿っていた。彼女が差し出した木箱には、一本の記憶糸が収められている。通常、依頼人の想いが強ければ強いほど、記憶糸は鮮やかな色を放つ。しかし、箱の中の糸は違った。まるで燃え尽きた後の灰のように、か細く、色も光もほとんど失っている。

「これは…?依頼人は?」

「いない」エイラの答えは簡潔だった。「ギルドの『風化観測システム』が捉えた。急速に消滅へ向かっている、主のいない記憶だ。誰かが保存を願ったわけでもなく、ただ、世界から消えようとしている」

リクは眉をひそめた。そんなことは前代未聞だった。記憶とは、誰かに覚えていてほしいという想いの集合体のはずだ。自ら消えようとする記憶など、存在するのだろうか。

「内容は?」

「不明だ。だが、かなり古い時代のものらしい。おそらくは、歴史から名もなきまま消えていった、どこかの少女の記憶だろう」

リクは、その灰色の記憶糸をそっと指でつまみ上げた。ひやりとした感触。まるで冬の朝の空気のようだ。記憶織師の鉄則は、記憶に感情移入しないこと。我々は記録者であり、物語の登場人物ではない。私情を挟めば、糸は絡まり、記憶は歪んでしまう。リクはこれまで、その鉄則を誰よりも忠実に守ってきた。

だが、その灰色の糸に触れた瞬間、彼の胸の奥で、今まで感じたことのない微かな疼きが走った。それは、懐かしさにも似た、しかしひどく物悲しい感情のさざ波だった。リクは首を振り、雑念を追い払う。これもまた、一つの仕事に過ぎない。彼は無心で織機の前に座り、灰色の記憶糸を慎重に経糸(たていと)へと通した。機(はた)を織る乾いた音が、静かな工房に響き始める。それが、誰も知らない歴史の扉を開ける音だとは、まだ誰も知らなかった。

第二章 聞こえ始めた少女の歌

機織りの日々が始まった。リクはいつものように感情を排し、指先の感覚だけに集中する。灰色の記憶糸は、織り進めるうちに、徐々に本来の色を取り戻し始めた。最初に現れたのは、陽光を浴びて輝く菜の花の黄色。次に、澄み切った小川のせせらぎを表す水色。そして、少女の笑い声が聞こえてくるような、柔らかな桃色。

タペストリーには、花冠を編む小さな少女の姿が浮かび上がってきた。風にそよぐ亜麻色の髪、楽しげに細められた翠色の瞳。穏やかで、幸福に満ちた光景だった。リクは機械的に手を動かしながらも、その光景の美しさに知らず知らずのうちに引き込まれていた。

不思議なことが起こり始めたのは、三日目のことだった。作業を終え、工房で一人、簡素な食事をとっていると、どこからか歌が聞こえてきた。誰もいないはずの工房で、少女の澄んだ声が、彼が織ったタペストリーの花畑で歌われていた素朴なメロディーを口ずさんでいる。リクははっとして辺りを見回すが、もちろん誰もいない。幻聴か。疲れているのかもしれない。

しかし、その日から、幻聴は頻繁に起こるようになった。機を織る音に混じって、少女の「見て、お母様!綺麗な石を見つけたわ」という弾んだ声が聞こえる。夜、眠りにつこうとすると、父親に物語をせがむ甘えた声が耳元で囁く。まるで、少女がすぐ隣にいるかのように。

記憶への過度な没入は禁忌だ。リクは自分を戒めようとしたが、少女の記憶は抗いがたい力で彼を惹きつけた。タペストリーの絵柄は、幸福な日常から、少しずつ変化を見せ始めていた。街に響く軍靴の音。食卓から消えていくパンの数。両親の顔に浮かぶ、隠しきれない憂いの影。

少女の感情が、リク自身の感情のように流れ込んでくる。空腹の辛さ。遠くで聞こえる砲声への怯え。そして、理由もわからずただ抱きしめてくる母親の腕の中で感じた、途方もない不安。リクは機を織る手を止め、自分の胸を押さえた。心臓が早鐘を打っている。額には冷たい汗が滲んでいた。

「どうした、リク。顔色が悪い」

いつの間にか背後に立っていたエイラが、心配そうに彼の肩に手を置いた。その手はひどく冷たかった。

「…いえ、少し疲れただけです」

「その記憶からは手を引け」エイラの言葉は、命令に近い響きを持っていた。「それはお前が扱うには危険すぎる。あとは私が引き継ぐ」

「なぜです!これは僕の仕事だ。それに、もう少しで…この子の物語の核心に触れられる」

「核心など知る必要はない!」エイラは珍しく声を荒げた。「我々はただ、記憶を保存するだけだ。意味を求めてはならない。特に、その記憶は…忘却こそが救いとなる記憶なのだ」

忘却こそが救い。その言葉が、リクの心に棘のように突き刺さった。忘れ去られるために記憶織師がいるのではない。覚えておくために、俺たちはいるんじゃないのか。初めて、リクは師の言葉に明確な反発を覚えた。彼はエイラの制止を振り切り、再び織機に向かった。何かに駆り立てられるように、彼は夜を徹して機を織り続けた。少女の悲しみの源泉を、その目で確かめるために。

第三章 織り込んではいけない真実

リクは狂ったように機を織った。指先は擦り切れ、血が滲む。それでも彼は止めなかった。タペストリーの絵柄は、今や見るも無残な光景を描き出していた。炎に包まれる街。崩れ落ちる家々。少女の記憶は、悲鳴と絶望の色で染め上げられていく。

そして、ついに彼は記憶の核心に辿り着いた。

それは、月明かりだけが頼りの、暗い森の中だった。少女は一人、必死に走っていた。背後からは、荒々しい男たちの声と、犬の吠える声が聞こえる。彼女の小さな手は、母親から託された小さな布の袋を、命綱のように握りしめている。中には、彼女の国がかつて存在した証である、国花の種が入っていた。

『生きなさい。そして、いつか、この花を咲かせて。私たちのことを、忘れないで』

それが、母親の最期の言葉だった。しかし、少女の心はすでに折れていた。家族も、故郷も、全てを失った。この種を咲かせたところで何になる? 悲しみを語り継ぐだけではないか。誰も幸せになどなれない。

追っ手に追い詰められ、崖っぷちに立った少女は、涙に濡れた顔で月を見上げた。そして、決意する。

――もう、誰にも思い出してほしくない。私のことも、この国の悲しみも。全て、消えてしまえばいい。歴史から、人々の記憶から、跡形もなく。忘れ去られることこそ、唯一の慈悲なのだから。

その強い、絶望に満ちた祈りこそが、この記憶を自ら風化させていた力の正体だった。少女は自らの存在を歴史から抹消しようとしていたのだ。

リクは息を呑んだ。そして、タペストリーに浮かび上がった少女の顔を、改めて見つめた。月光に照らされたその顔は、涙と泥に汚れていたが、その瞳の奥に宿る強い意志の光、固く結ばれた唇の形は、毎日見ているはずの人物の面影を色濃く映し出していた。

若き日の、師エイラの姿そのものだった。

リクは呆然と織機から離れ、よろめくようにエイラの部屋へ向かった。扉を開けると、彼女は窓辺に座り、静かに外を見ていた。

「…なぜ」リクの声はかすれていた。「なぜ、ご自身の記憶を?」

エイラはゆっくりと振り返った。その顔は、いつもリクが見ていた厳格な師のものではなく、遠い昔の悲しみを再びその身に宿した、一人の少女の顔だった。

「気づいたか。…私は、忘れたかった。私の存在が、滅びた国の記憶を呼び覚ます楔(くさび)になることが耐えられなかった。だから、記憶織師になった。他人の記憶を紡ぐことで、自分の記憶が薄れ、風化していくのを静かに待つつもりだった」

「では、なぜ今になって…」

「お前があまりにも見事に、私の記憶を織り上げるからだ」エイラは自嘲気味に微笑んだ。「お前が糸を紡ぐたび、消したはずの風景が、声が、温もりが蘇ってきた。私の意志よりも、お前の技術が勝ってしまったらしい。そして、私の記憶の風化が、私の意図を超えて加速し始めた。…だからシステムが異常を検知した」

全てが繋がった。依頼人のいない記憶。エイラの警告。忘却こそが救いだという言葉。それは全て、彼女自身の悲痛な叫びだったのだ。

第四章 未来へ紡ぐ糸

工房には、重い沈黙が流れていた。リクは、未完成のタペストリーと、目の前で小さく肩を震わせる師の姿を交互に見つめた。彼には二つの選択肢があった。エイラの願いを聞き入れ、ここで機を織るのをやめること。そうすれば、彼女の記憶は誰にも知られることなく、やがて完全に風化し、彼女は辛い過去から解放されるだろう。

もう一つは、織り上げること。彼女の悲劇も、絶望も、そして彼女が生きていたという紛れもない事実も、全てをこのタペストリーに刻み込むこと。それは彼女の願いを踏みにじる行為かもしれない。しかし、それで本当にいいのだろうか。

リクは、記憶織師になった日のことを思い出していた。感情を排し、ただ忠実に事実を記録することこそが、この仕事の神髄だと教えられてきた。だが、今、彼の内側で燃えているのは、紛れもない彼自身の感情だった。悲しみ、怒り、そして何よりも、一人の少女が懸命に生きた証を、消させたくないという強い想い。

「師匠」リクは静かに口を開いた。「僕は、織り続けます」

エイラが驚いたように顔を上げる。

「忘れることが、本当に救いなのですか。忘れられたら、あなたの愛した家族も、美しかった故郷も、本当に無かったことになってしまう。悲しみも痛みも、確かにあなたの一部だ。それを無かったことにして、本当にあなたはあなたのままでいられるのですか」

それは、リクが自分自身に問いかけている言葉でもあった。彼は、感情を切り捨てることで、自らの孤独から目を逸らしてきたのかもしれない。

「僕は、あなたの全てを織り上げたい。あなたの流した涙も、笑い声も、歌った歌も。それが、僕が見つけた、僕なりの記憶の保存の仕方です」

リクは織機の前に戻った。彼はもう、機械のように手を動かしてはいなかった。一糸一糸に、祈りを込めるように。エイラの悲しみに寄り添い、彼女のささやかな幸福を祝福し、彼女の失われた故郷を悼む。彼の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ち、タペストリーの糸を濡らした。その瞬間、タペストリー全体が、淡く、温かい光を放った。

数日後、タペストリーは完成した。それは、ただ悲劇を記録しただけの織物ではなかった。炎と闇の中に、確かに咲き誇る一輪の小さな花。絶望の淵で月を見上げる少女の瞳に宿る、未来への微かな光。見る者の心を揺さぶる、力強い生命の物語がそこにはあった。

エイラは、完成したタペストリーの前に立ち、そっとその表面に触れた。指先に伝わる糸の感触は、まるで遠い昔の母親の温もりのようだった。彼女の頬を、何十年ぶりかの涙が伝っていく。

「…ありがとう、リク。私はずっと、過去に囚われていた。でも、これで…やっと、私は私の歴史と共に、未来へ歩き出せる」

歴史とは、単なる事実の羅列ではない。それは、名もなき人々が流した涙と、喜びの笑い声が織りなす、壮大なタペストリーそのものなのだ。リクは、あの日、灰色の記憶糸に触れて感じた疼きの正体を理解した。それは、忘れ去られようとしていた魂からの、小さなSOSだったのだ。

リクが織るタペストリーは、その日を境に変わった。冷徹なまでの正確さに加え、深く、温かな感情の色合いが宿るようになった。彼の工房の扉を叩く者は後を絶たなかった。誰もが、彼の織るタペストリーに、単なる記録以上の、魂の救いを見出していたからだ。

リクは今日も、新たな記憶糸を手に、寡黙な織機の前に座る。彼の背中はもう孤独ではない。彼が織り上げた無数の記憶が、彼と共にそこに在る。風化しかけた世界で、彼は今日も、忘れられた歌を未来へと紡ぎ続けていた。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る