歴史の残香、時の砂塵
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歴史の残香、時の砂塵

第一章 錆びついた羅針盤

古物店『時の揺り籠』の奥、埃と古い木の匂いが満ちる空間で、千歳奏(ちとせ かなで)は息を潜めていた。彼の指先が、ガラスケースに収められた古びた羅針盤にそっと触れる。その表面には、長い航海の痕跡である塩の結晶が白くこびりついていた。

奏は目を閉じ、深く、深く息を吸い込む。

最初に鼻腔をくすぐったのは、潮の香りと腐りかけた木材の匂い。だが、それはただの表層に過ぎない。意識を研ぎ澄ませると、その奥底から、まるで燻された香木のような、芳醇でいて物悲しい香りが立ち上ってきた。

それは、絶望の香りだった。

未知の大陸を夢見た探検家が、氷に閉ざされた海で自らの船が砕ける音を聞きながら、羅針盤を握りしめた瞬間の、最後の感情。凍てつく寒さの中で燃え尽きた希望の残り香。

奏は、その香りを肺腑の奥まで吸い込む。すると、探検家の生涯が奔流となって彼の意識を駆け巡った。出航の日の歓声、嵐の夜の恐怖、そして、白い沈黙に包まれて消えていく命の灯火。

追体験を終え、彼がゆっくりと目を開けると、視界がわずかに霞んでいた。ガラスケースに映る自分の顔が、一瞬、見知らぬ誰かのものに見える。そうだ、自分の名前は……千歳、奏。思い出すのに、心臓が一拍、余分に脈打った。これが、彼の能力の代償だった。歴史の香りを嗅ぐたびに、彼自身の「現在」が、砂の城のように少しずつ崩れていく。

その時だった。店の片隅に置かれたアンティークの砂時計――『クロノスグラス』が、りぃん、と微かに震えた。中を満たす白銀の砂は、本来決して流れることはない。一つ一つの粒が、歴史上の重要な瞬間の「時間の断片」そのものだからだ。

奏が目を凝らすと、その中の一粒が輝きを失い、ふっと塵のように消滅した。

「……またか」

消えたのは、産業革命の黎明期、とある名もなき発明家が蒸気機関の改良に成功した瞬間の砂。歴史が、また一つ痩せ細ったのだ。奏はコートを羽織り、錆びついた羅針盤ではなく、自らの心を頼りに、消えゆく歴史の残り香が漂うであろう、霧深い街へと向かう決意を固めた。

第二章 痩せゆく街

奏が降り立ったのは、かつて紡績工場で栄えた英国の古い工業都市だった。赤レンガの建物は煤で黒ずみ、空は鉛色の雲に覆われている。だが、奇妙な違和感が奏の肌を粟立たせた。

空気が、軽い。

歴史の「重み」が失われた場所は、物理的に軽くなる。人々は目的もなく早足で通り過ぎ、その動きはどこか空虚で、まるで早回しの映像を見ているかのようだった。時間の流れが、この一角だけ明らかに加速しているのだ。

奏は目を閉じ、再びあの行為に没頭する。消えた歴史の残り香を探す。

街角に佇む、今は廃墟となった工場の壁に手を触れた。冷たいレンガの感触。そこから微かに漂ってくるのは、石炭の燃え滓と機械油の匂いに混じった、焦げ付くような香り。

それは、熱狂的なまでの「希望」の香りだった。歯車と蒸気が世界を変えると信じた発明家の、眠れぬ夜の情熱。だが、その香りの芯には、紙を焼いたような、乾いた「絶望」の匂いがこびりついていた。彼の発明が、結局は誰かに奪われ、歴史の闇に葬られた瞬間の無念。

「……っ!」

その複雑な香りを深く吸い込んだ瞬間、奏の頭の中で、何かがぷつりと切れた。幼い頃、両親と訪れた遊園地の記憶。メリーゴーラウンドの柔らかな光と、綿菓子の甘い匂い。その光景が、陽炎のように揺らぎ、すうっと色彩を失っていく。大切な思い出が、また一つ、彼の中から消え去った。

足元がふらつく。自分の過去が失われる痛みと引き換えに、彼は他人の過去を拾い集める。この矛盾した行為の果てに何があるのか、今の彼にはまだ知る由もなかった。

第三章 クロノスグラスの幻影

工場の片隅で膝をついた奏は、懐からクロノスグラスを取り出した。消えた砂があった場所は、今は空虚な空間となっている。彼は震える指で、そのガラスに触れた。

瞬間、世界が反転した。

クロノスグラスが眩い光を放ち、奏の意識を未来へと引きずり込む。彼が見たのは、消え去った発明家の技術が、もし歴史に残っていたら辿ったであろう、可能性の未来。

それは地獄だった。

自己増殖を繰り返すナノマシンが、灰色の津波となって地表を覆い尽くしている。空は錆びた鉄の色に濁り、生命の気配はどこにもない。人類が生み出した究極の効率化は、生みの親である人類そのものを資源として喰らい、星を沈黙させていた。発明家の純粋な希望が、数世紀の時を経て、最悪の終末を招いていたのだ。

「これが……消された歴史の、本当の姿……?」

幻影が掻き消え、奏はぜえぜえと肩で息をしていた。歴史の消失は、無差別な破壊ではなかった。それは、悪性の腫瘍を摘出する、外科手術のようなものなのかもしれない。だとしたら、一体誰が、こんな神のような所業を?

疑念が確信に変わるより早く、彼の背後に、音もなく一つの影が立った。

第四章 時の剪定者

「あなたは、知りすぎた」

氷のように冷たく、一切の感情を排した声だった。振り返ると、そこに立っていたのは、銀色の髪を持つ少女だった。その瞳は、悠久の時を見てきたかのように深く、そして空虚だった。

「誰だ、君は」

「私たちは『剪定者』。未来より訪れ、破滅の芽となる歴史を摘み取る者」

少女――アリアと名乗った――は淡々と語った。彼女たちは、数多の可能性の中から人類が滅亡へと至る未来を観測し、その原因となる過去の出来事をピンポイントで消去するために存在するのだという。

「あなたが嗅ぎ取った発明家の希望。それは確かに美しかったでしょう。ですが、その美しさが、星を殺す毒となるのです」

「だからって、生きた証を消していい理由にはならない!」奏は叫んだ。記憶を失う痛みを知る彼にとって、その行為は許しがたい冒涜だった。「彼が生きて、感じて、夢見た全てを無に帰す権利が、君たちにあるのか!」

「権利ではありません。義務です」

アリアの目が、初めて怜悧な光を宿した。

「あなたのその能力は、私たちの『剪定』を妨げるノイズ。世界の安定のため、あなたという存在もまた、ここですべて消去します」

アリアが手をかざすと、周囲の空間がぐにゃりと歪み始めた。歴史の重みが極端に失われ、奏の存在そのものが希薄になっていく。まるで、インクが水に溶けるように。これが、歴史を喰らう者の力。抗う術はなかった。

第五章 最後の香り

薄れゆく意識の中、奏は最後の力を振り絞った。彼は自分自身に問いかける。僕が嗅ぐべき、最後の香りは何だ?

答えは、すぐに見つかった。

それは、彼自身の魂の奥底から、ずっと微かに香り続けていたもの。彼がこの世に生を受けた瞬間の、「始まり」の香りだった。

彼はその香りを、自らの内側へと深く吸い込んだ。

途端に、全ての記憶が逆流する。彼が見たのは、アリアたち『剪定者』がまだ生まれていない、さらに遠い未来だった。そこでは、繰り返される歴史の剪定によって生じた無数の矛盾が蓄積し、時間そのものが悲鳴を上げていた。空間はひび割れ、過去と未来が混じり合い、因果律は崩壊していた。世界は、緩やかに、しかし確実に「無」へと収束しつつあったのだ。

アリアたちの行為は、延命措置に過ぎなかった。

そして奏は、自らの出生の真実を知る。彼は、ある剪定された歴史の狭間で、その矛盾から偶然生まれてしまったイレギュラーな存在だった。彼の能力は、消された歴史たちが上げた最後の悲鳴を聞くために、世界そのものが生み出した、一種の免疫機能だったのだ。

だが、皮肉なことに、奏という「矛盾の結晶」の存在自体が、時間の崩壊を加速させる最大の要因となっていた。彼が歴史の香りを嗅ぐたび、世界の歪みはさらに大きくなっていたのだ。

第六章 時の砂塵へ

「……そうか。僕だったのか」

奏の呟きは、アリアの耳に届いた。彼の表情から敵意が消え、深い哀しみと、慈愛に満ちた穏やかさが浮かんでいるのを見て、アリアは戸惑い、動きを止めた。

「君たちのやっていることは、間違ってはいない。でも、それだけじゃ未来は救えないんだ」

奏は、アリアにクロノスグラスを差し出した。

「本当の病巣は、僕だ。僕という矛盾が存在し続ける限り、歴史は安定しない。君たちは、永遠に悲しい殺戮を繰り返すことになる」

彼は微笑んだ。それは、自分の運命を完全に受け入れた者の笑みだった。

「だから、僕が消える。僕が生まれた原因となった、あの小さな歴史の歪みごと、僕自身の香りで、すべてを終わらせる」

「な……何を……」

奏はクロノ-スグラスを強く握りしめると、自分自身の存在の「香り」を、一息に吸い込んだ。

「ありがとう。君たちが未来で、もう誰も殺さなくて済むように」

彼の身体が、足元から金色の光の粒子となって崩れ始める。記憶が完全に白紙に戻る、その最後の瞬間。奏の脳裏に、今まで一度も思い出せなかった、優しい母親の顔が浮かんだ。彼は、心の底から満たされたように、そっと目を閉じた。

「待って……!」

アリアが叫び、手を伸ばすが、その指先は空を切る。奏の姿は完全に消え去り、後にはキラキラと輝く光の塵だけが、静かに舞っていた。

アリアの頬を、一筋の雫が伝った。感情を捨てたはずの彼女が、初めて流した涙だった。

奏が消えた後、アリアが手にしていたクロノスグラスの砂は、すべてが穏やかな輝きを取り戻し、ぴたりと安定した。世界の歪みは消え、痩せ細った街にも、ゆっくりと、確かな時間の重みが戻り始めていた。

主を失った古物店『時の揺り籠』だけが、世界の片隅で静かに時を止める。だが、埃っぽいその店内には、誰にも知られることなく、優しくて、どこまでも切ない「感謝」の香りが、いつまでも、かすかに漂い続けていた。


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