忘却の霧と最後の物語
第一章 沈黙の足音
石畳の街を、音のない灰色が覆っていた。
『沈黙の霧』。それは物語を喰らう災厄。人々の声から色を奪い、唇から紡がれるはずだった物語を、生まれる前に霧散させる。語られなくなった英雄譚は色褪せた壁画となり、囁かれなくなった恋歌はひび割れた石像と化す。この世界では、語られないものは存在できない。霧は、世界の輪郭そのものを静かに侵食していた。
カイは路地の影に潜み、息を殺していた。霧の向こうで、幼い少女のすすり泣きが聞こえる。その母親が、霧に包まれ、徐々にその姿を希薄にさせていた。母親は何かを語ろうと口を動かすが、出てくるのは意味をなさない吐息だけ。その瞳から、娘との思い出が急速に失われていくのが見えた。
カイは目を閉じる。脳裏に、自らの記憶の書架が広がる。手を伸ばし、一つの記憶を掴んだ。『七歳の誕生日、父が初めて教えてくれた星の名前』。その温かい記憶が指先で砂のように崩れる感覚に歯を食いしばる。引き換えに、脳を灼くような閃光が奔り、未来の断片が流れ込んできた。
――三分後、東の鐘楼から風が吹く。霧が一瞬だけ晴れ、母親は娘の名前を思い出す。
「東だ!」
カイは叫び、影から飛び出した。彼の声に、人々がはっと顔を上げる。カイの指さす先、鐘楼のシルエットがおぼろげに見えた。人々が半信半疑で視線を向ける中、予言通り、乾いた風が吹き抜けた。霧が渦を巻いて薄れ、母親の瞳にかすかな光が戻る。
「……アンナ」
か細い声で娘の名を呼んだ母親に、少女が泣きながらしがみつく。母娘の間に、かろうじて物語が繋ぎ止められた。だが、カイの胸にはぽっかりと穴が空いていた。夜空を見上げても、もう父が教えてくれた星の名を思い出すことはない。救済の代償は、いつも彼自身の過去だった。
そんな彼の前に、一人の女が現れた。燃えるような赤毛を風になびかせ、その瞳には霧に屈しない強い意志の光が宿っていた。
「あなたね。記憶を代償に未来を読む『詠み人』は」
女はリラと名乗った。彼女は失われた物語を蒐集し、語り継ぐことを生業とする『語り部』の一族の末裔だという。
「この霧を止める手掛かりを探しているの。古文書に記された『沈黙の筆』。力を貸してほしい」
リラの真っ直ぐな視線に、カイは何も言えずに頷いた。失い続けるだけの自分に、初めて守るべきものができた気がした。
第二章 忘れられたインク
カイとリラが目指す『忘れられた図書館』への道は、世界の死に行く様をなぞる旅路だった。かつては賑やかな市場だった広場は、売り子の声も、客の笑い声も失われ、ただ風が空っぽの露店の間を吹き抜けるだけ。道端には、誰の記憶からも消え去り、半透明になった人々が虚ろな目で空を見上げていた。その光景は、カイが失ってきた記憶の墓標のようにも見えた。
図書館の巨大な扉は、重い沈黙に閉ざされていた。二人で力を合わせこじ開けると、埃と古紙の匂いが鼻をつく。カビ臭さの中に、微かにインクの香りが残っていた。中は静寂の迷宮だった。無数の書架から滑り落ちた本が床に散らばり、その頁はどれも真っ白になっていた。物語が死んだのだ。
「ここにあるはず……」
リラは一族に伝わる古地図を頼りに、図書館の奥深くへと進む。カイは後に続きながら、自分の能力がこの惨状と無関係ではないという、漠然とした不安に駆られていた。
最深部の祭壇のような場所に、それはあった。黒曜石のように鈍く輝く一本の筆。それが『沈黙の筆』だった。リラがそっと手に取ると、筆先から冷気が漂う。
「これで、消えかけた物語を紙に書き留めれば……」
だが、リラの顔が曇る。祭壇の台座には、かすれた文字でこう刻まれていた。
『筆は語り手の魂を求める。真実の物語は、記憶のインクにてのみ呼び覚まされる』
「特別なインクが必要なのね……」
リラはため息をついた。これでは、宝の持ち腐れだ。そのとき、カイは台座の文字から目が離せなくなっていた。『記憶のインク』。その言葉が、彼の胸に突き刺さった。
第三章 記憶の残響
「俺の記憶が、インクになるかもしれない」
カイの言葉に、リラは息をのんだ。彼の能力の代償を知っているからこそ、その提案がどれほど危険なものか理解できた。
「ダメよ! あなたの記憶は、あなた自身なの。これ以上、自分を削るなんて……」
「だが、他に方法はない」
カイの決意は固かった。リラと旅をする中で、彼女の物語への情熱、失われたものへの悲しみを間近で見てきた。彼女の未来を守りたい。その想いが、彼を突き動かしていた。彼は、この旅で生まれたばかりの、まだ温かい記憶を選ぶ。
『リラが焚火の前で、故郷の古い歌を口ずさんでくれた夜』
その記憶を、カイは手放した。激しい頭痛と共に、指先に仄かな光が集まる。光は雫となり、祭壇の空のインク壺にぽたりと落ちた。インク壺は、星空を溶かしたような深い藍色で満たされた。
同時に、カイの頭からリラの歌声が消えた。彼女が何かを口ずさんでいた情景は残っているのに、その旋律だけが永遠に失われた。
「これで、試せるはずだ」
カイはリラに促した。リラは震える手で『沈黙の筆』をインクに浸し、傍らにあった羊皮紙に、失われた故郷の歌の冒頭を綴ろうとした。
しかし、カイはそれを制した。
「待ってくれ。まず、霧の発生源を知りたい。俺がもう一度、未来を見る」
彼はリラとの新しい記憶――図書館で『沈黙の筆』を見つけた瞬間の、彼女の安堵の表情――を消費した。
視界が白く染まり、無数の可能性が奔流となって押し寄せる。その中で、カイは最も確度の高い一つの未来を掴んだ。
それは、絶望的な光景だった。
灰色の霧が、まるで泉のように湧き出している。だが、その源は世界のどこかの地名などではなかった。それは、カイ自身の足元。彼が立っている、まさにその場所から、とめどなく『沈黙の霧』が生まれ、世界に広がっていた。
第四章 霧の源流
「……嘘だ」
幻視から戻ったカイの口から、かすれた声が漏れた。顔は青ざめ、その両目は信じがたいものを見た恐怖に揺れていた。
「カイ? 何が見えたの?」
リラが心配そうに彼の肩に触れる。その温もりが、カイに冷酷な現実を突きつけた。
「霧は……俺から生まれていた」
その言葉の意味を、リラはすぐには理解できなかった。
「どういうこと……?」
「俺が記憶を消費するたびに、その失われた記憶の『空白』が、この世界に霧として漏れ出していたんだ。俺が人々を救おうと未来を見るたびに、世界から物語が消えていた。俺自身が……この世界を滅ぼす災厄だったんだ」
カイは自嘲気味に笑った。良かれと思ってやってきたことの全てが、世界を破滅に導く行為だった。彼が未来を読んで母親を救ったあの瞬間にも、彼の足元から生まれた霧が、どこかの街の物語を消し去っていたのだ。
あまりにも残酷な真実に、リラも言葉を失う。彼女が希望を託した相手こそが、絶望の源だった。だが、彼女の目に浮かんだのは、カイへの憎しみや軽蔑ではなかった。それは、深い、深い哀れみと慈愛の色だった。
「あなたは……」リラは震える声で言った。「誰かを守りたかっただけじゃない。自分の大切なものを犠牲にしてまで」
その言葉が、カイの心を抉った。彼は膝から崩れ落ち、頭を抱えた。自分の存在そのものが呪いであるという事実が、重くのしかかる。霧は今この瞬間も、彼という存在から静かに溢れ出し、世界を白く染め上げていた。
第五章 沈黙の筆と最後の選択
どれくらいの時間が経っただろうか。図書館の静寂の中で、カイはゆっくりと顔を上げた。その瞳には、絶望の淵で燃える、最後の覚悟の炎が揺らめいていた。
彼はふらつく足で立ち上がると、祭壇に置かれた『沈黙の筆』を手に取った。その黒曜石の軸は、彼の体温を奪うように冷たい。
「この筆は、存在を『消去』する力を持つんだったな」
カイの呟きに、リラは不吉な予感を覚えて息をのんだ。
「物語を消すための筆。だが、物語でできているこの世界では、それは存在そのものを消すことと同じだ」
世界の法則。語られないものは、消える。
霧の原因が自分自身であるならば、答えは一つしかなかった。
自らの存在を『語られないもの』にすればいい。
カイという物語を、この世界から完全に消し去ればいい。
「そんなこと、させない!」
リラはカイの腕を掴んだ。その手は必死に震えている。
「あなたがいなくなって世界が救われたって、そんなの、私が望む物語じゃない!」
「だが、俺が存在し続ける限り、世界は沈黙に沈む。君が愛する物語も、君自身の物語も、全てが消えてしまうんだ」
カイはリラの手に、そっと自分の手を重ねた。
「俺はもう、十分に記憶を失った。これ以上、君との記憶まで失いたくない。だから……君との物語が、俺の最後の記憶であるうちに、終わらせてくれ」
その瞳は悲しいほどに穏やかで、リラはもう何も言うことができなかった。涙が彼女の頬を伝い、古びた床に染みを作った。
第六章 君の名前を呼ぶ
カイは、インク壺に残っていた『記憶のインク』を静かに見つめた。それは、彼がリラの歌声を犠牲にして作り出した、星空の色をしていた。
彼はもう一つだけ、最後の記憶をインクに変えることにした。
『リラと出会ってから、今日までの、全ての記憶』。
温かくて、切なくて、彼が初めて「生きたい」と願った、かけがえのない物語。
その記憶がインクに溶け込むと、深い藍色は夜明け前の空のような、淡く美しい紫へと変わった。カイは『沈黙の筆』をそのインクに浸し、傍らにあった一枚の羊皮紙に向かう。
彼の背後で、リラが息を殺して見守っている。
カイは、羊皮紙の中央に、震える手でただ一言、自分の名を記した。
『カイ』
それが、彼の物語の全てだった。
そして彼は、筆を走らせた。自らの名を記したそのインクの上を、なぞるように。一画、また一画と、その存在を消し去っていく。
彼の指先から、身体が透き通り始めた。まるで陽光に溶ける朝霧のように、その輪郭が揺らぎ、希薄になっていく。
「カイ……!」
リラが叫ぶ。だが、その声はどこか虚しく響いた。彼女の脳裏から、「カイ」という青年との思い出が、急速に色褪せていく。誰かと旅をしていたはず。誰かと笑い合ったはず。でも、その『誰か』の顔も、名前も、もう思い出せない。
「君の……物語を……」
消えゆくカイが、最後の力を振り絞ってリラに微笑みかける。
「……紡いで……」
その言葉を最後に、彼の姿は完全に光の中へ溶けて消えた。
世界を覆っていた『沈黙の霧』が、嘘のように晴れていく。街に人々の声が戻り、風の中に歌が混じり、世界は再び色鮮やかな物語を語り始めた。
リラは、一人、図書館に立ち尽くしていた。手には、なぜか一本の美しい筆が握られている。目の前の羊皮紙には、何かを消した後だけが、インクの染みとして微かに残っていた。
胸に、大きな喪失感が空洞のように広がっている。
なぜだろう。涙が、止まらなかった。
第七章 語り継がれるもの
幾年かの月日が流れた。
世界はすっかりと活気を取り戻し、街角の吟遊詩人たちは新しい英雄譚を高らかに歌い上げていた。
リラは、大陸で最も名の知られた『語り部』になっていた。彼女が紡ぐ物語は、聞く者の心を掴んで離さないと評判だった。不思議なことに、彼女が語る物語には、いつも顔も名前も思い出せない、名もなき英雄が登場した。その英雄は、誰にも知られることなく、自らを犠牲にして世界を救うのだ。人々は、その悲しくも美しい物語に涙した。
晴れた日の午後、リラは丘の上に立ち、眼下に広がる街並みを眺めていた。風が彼女の赤毛を優しく撫でる。
時折、彼女はこうして空を見上げる。忘れてしまった誰かの面影を、無意識に探すかのように。
胸に空いた空洞は、もう埋まることはない。
けれど、その痛みこそが、自分が語るべき物語の源泉なのだと、彼女は知っていた。
「さあ、始めましょう。これは、世界を救ったのに、誰の記憶にも残らなかった、一人の優しい英雄の物語……」
彼女は新しい聴衆に向かって、静かに語り始める。
それは、彼が最後に望んだこと。
彼という物語は消えた。だが、彼が守った世界で、新しい物語が生まれ続ける。
それこそが、彼が存在した、唯一の証なのだから。