虚ろなる時の調香師
第一章 錆びついた風の香り
俺、アキには、生まれついての奇妙な癖があった。物に触れると、その場所に染みついた『時間の香り』を嗅ぎ取ってしまうのだ。古い石壁に手を当てれば、幾星霜の風雨に晒された乾いた土の香り。打ち捨てられた工房の扉に触れれば、汗と鉄屑と、職人たちのひたむきな熱意が混じり合った香りが、鼻腔の奥で淡く蘇る。
俺が住むこの世界は、巨大な時間の堆積層でできていた。人々が暮らすのは、比較的安定した「中層」。空を見上げれば、雲の上に聳える最新の時間層『天頂』が陽光を浴びて白く輝き、足元を見下ろせば、霧に煙る遥か下層へと続く断崖が、太古の闇を湛えて口を開けていた。層間の移動を可能にするのは、特定の層を周期的に吹く『時の風』だけ。だが、その風は近年ひどく気まぐれになり、世界は緩やかに分断されつつあった。
そして、最も深刻な脅威は、世界の最深部から這い上がってくる『忘却の霧』だ。その乳白色の霧に触れたものは、建物も、人も、その存在の痕跡すら残さず、誰の記憶からも綺麗に消え去ってしまう。まるで、初めからそこには何もなかったかのように。
ある日の午後、俺は街の古い広場の石畳にしゃがみこんでいた。指先で冷たい石をなぞると、いつものように様々な香りが立ち上る。子供たちの笑い声が弾ける飴玉の香り、恋人たちが交わした囁きの甘い香り。だが、その奥にあるはずの、最も鮮烈な香りがひどく薄れていた。
「……リナ」
数年前、不規則な時の風に攫われ、下層へと落ちていった幼馴染。この場所で交わした最後の約束。「必ず帰ってくる」と誓った彼女の、決意と不安が入り混じった切ない香りが、まるで陽炎のように揺らぎ、消えかかっている。霧はまだここまで届いていない。だというのに、彼女の記憶が、世界から失われ始めている。
俺は立ち上がった。父の形見である、鈍い銀色の懐中時計を強く握りしめる。針は動かず、ただ一点、世界の最深部を指し示していた。霧の根源へ行く。そして、この世界を蝕む忘却の正体を突き止める。それが、消えゆくリナの香りをこの手に取り戻す、唯一の方法だと信じて。
第二章 逆巻く時の渓谷
下層へ向かう旅人は、もはや誰もいなかった。時の風が荒れ狂う「逆巻く渓谷」の入り口で、俺は崖下を覗き込む。渦を巻く風が、獣のような呻き声を上げていた。
目を閉じ、意識を集中する。鼻腔に流れ込むのは、無数の時間の香りだ。新しい層から吹き下ろす、金属的で冷たい風の香り。古い層から湧き上がる、湿った腐葉土と未知の鉱物の香り。それらが乱気流となって混ざり合い、危険な不協和音を奏でている。
これだ。
俺は、一筋だけ違う香りを放つ風の流れを捉えた。それは、遥か下層の、安定した地層を撫でてきた風。干からびた化石と、静謐な時間の香りがした。俺はその風が崖の縁を掠める瞬間を待ち、躊躇なく身を投じた。
体が落下する。風が全身を打ち、鼓膜を揺さぶった。眼下を、過ぎ去った時代が猛烈な速さで流れ去っていく。一瞬、鼻を掠めたのは、巨大な都市の繁栄を物語る、甘い香辛料と花の蜜の香り。次の瞬間には、大地を焼いた戦火の焦げ臭さと、夥しい血の鉄錆の香りに包まれた。時間の堆積層を貫いて降下することは、世界の歴史そのものを一息で吸い込むような体験だった。
不意に、風の流れが僅かに乱れた。俺はとっさに崖の岩棚に手を伸ばし、激しい衝撃に耐えながら着地する。そこに、何かが埋まっているのが見えた。掘り出すと、それは手のひらほどの石の欠片で、忘れ去られた王国の紋章が刻まれていた。触れた指先から、誇りと悲哀の入り混じった、滅びの香りが流れ込んでくる。
『失われた時間層の欠片』。俺は懐から懐中時計を取り出し、その欠片を文字盤の窪みにはめ込んだ。カチリ、と小さな音が響く。すると、止まっていた時計の盤面に、新たな一本の針が現れ、静かに時を刻み始めた。それは、今しがた俺が触れた、滅びた王国の時間を指し示していた。
第三章 沈黙の図書館
いくつかの時間層を経て、俺は「沈黙の図書館」と呼ばれる広大な遺跡にたどり着いた。かつて、この世界のすべての歴史と知識が収められていた場所だという。しかし、アーチ状の天井から差し込む光が照らし出すのは、無惨な光景だった。書架に並ぶ無数の書物は、そのどれもが真っ白なページを晒していたのだ。
忘却の霧が、ここに記された物語を、そのインクの香りごと消し去ってしまったのだ。
俺は残された書物の残骸にそっと触れた。英雄譚が放っていたはずの勇壮な剣の香りも、恋物語が纏っていた甘やかな涙の香りも、今はもうない。ただ、紙が朽ちていく、虚しい乾いた香りだけが満ちていた。世界は、自らの記憶を失いつつある。
図書館の最奥、かろうじて霧の侵食を免れた一角で、石板に刻まれた記録を見つけた。解読不能な古代文字の中に、周期的に繰り返される円環の図形と、「浄化」「再生」「揺りかご」といった意味を持つ象形文字が描かれている。霧は、今回が初めての現象ではないのかもしれない。
その石板の裏に、二つ目の『欠片』が隠されていた。星の形をした黒曜石だ。懐中時計にはめ込むと、三本目の針が現れ、それぞれが異なる速度で動き出す。俺の時計は、世界の複雑な時の流れを写し取る、小さな宇宙となりつつあった。その時、図書館の入り口から、霧が音もなく侵入してくるのが見えた。書架が、壁が、床が、白い静寂に飲み込まれていく。俺は背を向け、さらに深い層へと続く階段を駆け下りた。
第四章 虚ろな貌
深層へ進むにつれ、忘却の霧は粘性を増し、思考そのものを鈍らせていくようだった。自分の名前すら時折おぼろげになる。俺は何度も懐中時計を握りしめ、リナとの約束の香りを記憶の底から呼び起こし、かろうじて自我を保っていた。
霧が支配する静寂の中、不意に、人影が立った。
「リナ……?」
声が震えた。そこにいたのは、数年前に別れた時と何一つ変わらない、幼馴染の姿だった。彼女はこちらを見て、かすかに微笑んだように見えた。俺は駆け寄ろうとして、足がもつれる。
「リナ! 無事だったのか!」
だが、彼女の姿は霧のように揺らめき、その輪郭は曖昧だった。伸ばした俺の指先は、確かな感触を得ることなく、彼女の体をすり抜ける。彼女はもう、この世界の存在ではなかった。半分、霧に溶けてしまっている。
彼女の唇が動く。しかし、そこから紡がれるのは声にならない吐息だけ。それでも、彼女は必死に何かを伝えようとしていた。その小さな手がゆっくりと持ち上がり、俺の手のひらに何かを乗せる。冷たく、滑らかな感触。それは、俺が幼い頃、彼女にあげたガラスのおはじきだった。三つ目の『欠片』。
彼女の瞳から、表情が抜け落ちていく。まるで、感情という名の香りが霧散していくように。そして、彼女の姿は完全に霧へと溶け、跡形もなく消え去った。
絶望が全身を貫いた。だが、その直後、俺は奇妙な事実に気づく。彼女が消える最後の瞬間、俺が嗅ぎ取った香りは、恐怖や悲しみではなかった。それは、長い旅を終えた旅人がベッドに身を沈めるような、深く、穏やかな『安らぎ』の香りだったのだ。なぜ? なぜ彼女は、安らいでいた? その疑問が、俺の心を絶望の淵から引きずり上げた。
第五章 始まりの井戸
リナが遺したおはじきを懐中時計にはめ込むと、全ての針がぴたりと止まり、そして一斉に、世界の最深部を指し示した。導かれるようにしてたどり着いた場所。そこは、世界の底そのものだった。
「始まりの井戸」と呼ばれる、巨大な垂直の空洞。その底は暗く見えない。そして、その見えない中心から、全ての元凶である『忘却の霧』が、静かに、しかし絶え間なく湧き上がってきていた。まるで、世界そのものが深呼吸をしているかのように。
俺は震える手で、井戸の縁を形作る黒い岩に触れた。
その瞬間、途方もない量の『香り』が、俺の魂に直接流れ込んできた。それは香りというよりも、情報そのものだった。始まりも終わりもない、絶対的な『無』の香り。そして、その無の中から、あらゆるものが生まれる可能性を秘めた、胎児のような『始まり』の香り。
理解した。忘却の霧は、悪意ある破壊ではなかった。これは、一つのサイクルを終えようとしている世界が、自らを浄化し、新たな時間軸へと生まれ変わるための、壮大なリセット機構だったのだ。古くなりすぎた情報を消し去り、白紙のキャンバスを用意する、世界の自己治癒。リナが感じていた安らぎは、この大いなる循環に身を委ねる、魂の受容だったのだ。
ふと、懐中時計に目を落とす。霧が下層から世界を飲み込んでいくのに合わせ、盤面の針が一本、また一本と音もなく消えていく。滅びた王国の時間が消え、沈黙の図書館の時間が消え、俺が駆け下りてきた全ての時間層が、一つずつ『無』に還っていく。それは世界の終焉を告げる、静かで厳かな儀式だった。
第六章 時の種
やがて、最後の針が消えた。懐中時計は完全に沈黙し、ただの銀色の塊になった。同時に、俺の足元から霧が体を包み込み始める。指先が透き通り、風景が透けて見えた。痛みも、恐怖もない。ただ、自分が巨大な流れの一部となり、溶けていくという不思議な充足感だけがあった。
俺は、リナの香りを思い出した。彼女との約束も、この旅の目的も、すべてがこの壮大な摂理の中にあったのだ。救うべき世界など、初めからなかったのかもしれない。ただ、受け入れ、次へと繋ぐべき流れがあるだけだった。
意識が薄れゆく視界の隅で、俺はそれを見た。
完全に『無』に帰した世界の中心、始まりの井戸の底で、ちいさな、ちいさな一点の光が生まれるのを。
その光は、凝縮された時間の香りそのものだった。それは、まだ何者でもない、純粋な可能性の香り。これから生まれるであろう新しい世界の、最初の息吹。その香りを最初に嗅ぎ取るのは、未来の誰かだろう。あるいは、この循環の果てに、再び『時間の香り』を感じ取る能力を持って生まれてくる、未来の俺自身なのかもしれない。
俺は微笑んだ。体は完全に霧に溶け、世界の記憶から消え去っていく。だが、俺という存在は、失われたわけではなかった。
俺は、新たな世界の礎となる、最初の『時の種』になったのだ。
これは終わりではない。壮大な始まりの、ほんの一瞬前の物語。