第一章 後悔の羅針盤
カイの持つ羅針盤は、北を指したことがない。その黒曜石の盤上で静かに震える白銀の針は、いついかなる時も、ただ一つの方向を指し示していた。彼自身の、最も深く、暗い後悔の在り処だ。
人々が眠りに落ちる深い夜、カイは決まって同じ夢にうなされた。声にならない叫び、掴み損ねた指先、そして寄せては返す波のように、彼の意識を洗い流していく途方もない喪失感。目覚めれば、シーツは汗でじっとりと湿り、心臓は胸の檻を破らんばかりに激しく脈打っている。その記憶は、彼の魂に焼き付いた呪いだった。昼間は亡霊のように彼の思考に付きまとい、夜は悪夢となって彼を苛む。もはや、この痛みと共に生きることは限界だった。
そんな彼が最後の希望を託したのが、「エコー・イーター」の伝説だった。世界の果て、地図に記されぬ静寂の海に棲むというその存在は、人の最も辛い記憶を喰らい、魂を解放してくれるという。眉唾物の与太話だと笑う者もいたが、カイにとっては溺れる者が掴む最後の藁だった。
彼は、父親の形見である小さな帆船「シースワロー号」に、最低限の食料と水を積み込んだ。友人たちは引き留めたが、彼らの声はカイの耳には届かなかった。彼の心は、後悔の羅針盤が指し示す、遥か彼方の水平線にしか向いていなかったのだ。
出航の日、港は朝霧に包まれていた。カイは誰にも告げず、静かに舫い綱を解いた。ぎしり、と木製の船体が軋む音が、まるで別れを惜しむ声のように響く。羅針盤の針は、南西の彼方を指して微動だにしない。カイは舵を握り、針が示す絶望の方角へと、たった一人、船を進めた。
海は、時に優しく、時に荒々しく彼を迎えた。青く澄み渡った空の下、イルカの群れが船と並んで跳ねる日もあれば、分厚い暗雲が空を覆い、巨大な波がシースワロー号を木の葉のように翻弄する日もあった。しかし、カイの心は凪いでいた。いや、凪いでいるというよりは、あらゆる感情が麻痺してしまったかのようだった。彼の目的はただ一つ。あの記憶を、自分という存在から完全に切り離すこと。そのためならば、どんな危険も厭わなかった。
冒険ではない。これは巡礼だ。救済を求める、忘却のための巡礼だった。
第二章 記憶の渡し守
幾日も航海を続けたある日、羅針盤の針が初めて大きく揺らぎ、近くの島を指し示した。後悔の源からではない、何か別の強い引力。カイは導かれるように、その名もなき孤島へと上陸した。砂浜には奇妙な形の流木がオブジェのように点在し、島の中心からは細く白い煙が立ち上っている。
煙を目指して歩くと、そこには古びた一軒の小屋があった。戸口で、深い皺の刻まれた老婆が、静かに彼を見ていた。陽光を背にしたその姿は、まるで島の岩肌から削り出された彫像のようだった。
「おや、また迷い子が来たようだね」。老婆は、しゃがれた、しかし温かみのある声で言った。「あんたの船から、ひどく重たい記憶の匂いがしたもんだからね」
カイは警戒しながらも、老婆の言葉に引き寄せられた。「あなたは?」
「わっちは記憶の渡し守さ」。老婆はにこりともせずに答えた。「この島に流れ着く者たちの、持て余した記憶を預かり、語り継ぐのが仕事だよ。喜び、怒り、悲しみ……どれも、持ち主にとっては重すぎた荷物だ」
老婆はカイを小屋の中に招き入れた。壁一面には、無数の小瓶が並べられていた。一つ一つの瓶の中には、淡い光を放つ霧のようなものが、ゆっくりと渦を巻いている。
「これらが、預かった記憶だよ」。老婆は一つの小瓶を手に取った。「これは、初めて恋を知った男の、甘酸っぱい喜びの記憶。こっちは、故郷を追われた女の、燃えるような怒りの記憶。そして……」
彼女が指さした棚の奥には、ひときわ暗く、澱んだ光を放つ瓶が並んでいた。
「ここにあるのは、あんたと同じ。何かを失った者たちの、悲しみの記憶さ。エコー・イーターを目指す者たちが、よく置いていく」
カイは息をのんだ。「あなたも、エコー・イーターを?」
「ああ、知っているとも」。老婆は茶を淹れながら言った。「だがね、坊主。記憶を消すということは、自分の一部を殺すことと同じだよ。その痛みが、その苦しみが、あんたという人間を形作ってきたんじゃないのかい?それを捨てて、空っぽの抜け殻になって、あんたは一体何になるんだい?」
老婆の言葉は、鋭い刃のようにカイの胸を突いた。彼はこれまで、記憶を異物のように、取り除くべき腫瘍のように考えてきた。だが、それが自分自身の一部だという考えは、彼を混乱させた。
その夜、カイは老婆の小屋に泊めてもらった。老婆は、瓶の一つから光る霧を取り出し、それを物語として語って聞かせた。それは、戦で息子を亡くした母親の記憶だった。悲しみに暮れる日々、息子の好きだった花を庭に植え続けたこと、そして何年も経って、庭一面に咲き誇る花を見た時、悲しみと共に、息子と過ごした日々の温かさが蘇ってきたという物語だった。
カイは、その物語に自分の姿を重ねていた。痛みから逃げることしか考えていなかった自分。しかし、その痛みの裏側には、確かにかけがえのない何かがあったはずだ。カイの心に、初めて小さな、しかし確かな迷いが生じた。それでも、あの悪夢の苦痛は、彼の決意を鈍らせるには至らなかった。翌朝、彼は老婆に礼を言うと、再びエコー・イーターを目指して船を出した。老婆は何も言わず、ただ彼の船が水平線の向こうに消えるまで、静かに見送っていた。
第三章 静寂なる鏡の海
老婆の島を後にしてから、さらに数週間が過ぎた。羅針盤の針は、もはや狂ったように震え、船全体がその振動に共鳴しているかのようだった。そして、ついにその場所へたどり着いた。
「エコー・イーターの海」。そこは、カイが想像していたような荒れ狂う魔の海域ではなかった。風は完全に止み、海面はどこまでも滑らかな一枚の黒い鏡となっていた。空と海の境界線は溶け合い、船はまるで虚空に浮かんでいるかのようだ。音という音が一切存在しない、絶対的な静寂。自分の心臓の鼓動だけが、やけに大きく響いていた。
カイは息を殺し、伝説の存在が現れるのを待った。巨大な触手か、鋭い牙を持つ海竜か。どんな怪物が現れても、彼は動じないつもりだった。しかし、濃い霧の向こうからゆっくりと姿を現したのは、彼のあらゆる予想を根底から覆すものだった。
それは、もう一隻の「シースワロー号」。そして、その甲板に立つ、もう一人の自分だった。
髪型も、服装も、そしてその目に浮かぶ深い疲労と苦悩の色さえも、カイと瓜二つだった。鏡に映った自分の姿。だが、それは単なる幻影ではない。確かな実体を持って、そこに存在していた。
「……誰だ、お前は」。カイの声は、静寂の海にかすれて消えた。
鏡像の彼は、悲しげに微笑んだ。「私は、お前が探していたものだ。私は、エコー・イーター」
カイは言葉を失った。これが、記憶を喰らうという伝説の存在?目の前にいるのは、紛れもなく自分自身ではないか。
「私は怪物ではない」。エコー・イーターと名乗るカイが、静かに語り始めた。「私は、お前たち人間が捨てた記憶の集合体だ。耐えきれず、忘れようと願った後悔、悲しみ、痛み……それらがこの静寂の海に流れ着き、形を成したのが、私という存在だ。私は、お前たちが忘れたいと願う記憶そのものなのだ」
衝撃的な事実に、カイの思考は停止した。エコー・イーターは、何かを奪う存在ではなかった。捨てられたものの受け皿、忘れられた感情の墓標だったのだ。
「さあ、お前の記憶をよこすがいい」。エコー・イーターは手を差し伸べた。「お前が捨てようとしている、あの日の記憶。愛する者を、お前の僅かな油断が故に、永遠に失ってしまったあの記憶を。それを私に渡せば、お前は苦痛から解放されるだろう」
エコー・イーターの言葉は、カイが心の最も深い場所に封じ込めていた真実を、容赦なく抉り出した。そうだ、彼は愛する人を失ったのだ。自分のせいだという罪悪感が、彼を今日まで苛み続けてきた。
「だが、よく考えるがいい」。エコー・イーターの声が、厳かに響く。「記憶を渡すということは、それに付随する全てを失うということだ。彼女と過ごした日々の喜びも、交わした言葉の温もりも、共に見た夕焼けの美しさも。その記憶があったからこそ得られた優しさも、痛みを知ったからこそ生まれた強さも、全てが欠片となって私に吸収される。お前は、その痛みと共に、愛した彼女の全てを、お前の中から消し去ることになる。お前は本当に、空っぽの器になりたいのか?」
その問いは、雷鳴となってカイの魂を打ち据えた。空っぽになる。それは、救済などではなかった。それは、自己の完全なる消滅を意味していた。
第四章 消えない舳先
カイは、目の前の自分自身――エコー・イーターを見つめた。その瞳の奥に、これまで捨てられてきた無数の人々の悲しみが、深い海の底のように広がっているのが見えた。自分も、その一部になろうとしていたのだ。
老婆の言葉が脳裏に蘇る。『その痛みが、あんたという人間を形作ってきたんじゃないのかい?』
彼は、ゆっくりと首を横に振った。
「……いやだ」。絞り出した声は、震えていた。「俺は、忘れない」
カイは、初めて声に出して語り始めた。今まで誰にも話せず、自分の中に閉じ込めてきた、あの日の全てを。彼女と出会った日のこと。他愛ないことで笑い合ったこと。そして、嵐の夜、彼が船の係留を怠ったばかりに、彼女を乗せた小舟が波に攫われてしまった、あの日のことを。後悔も、罪悪感も、そして何よりも、彼女への消えることのない愛情も。涙がとめどなく頬を伝い、静寂の海面に落ちて、小さな波紋を描いた。
彼は逃げていたのだ。痛みからだけでなく、彼女を愛していたという事実そのものから。彼女を忘れることは、彼女がこの世に存在した証を、自分の中から消し去ることと同じだった。
エコー・イーターは、ただ静かにカイの告白を聞いていた。カイが全てを語り終え、嗚咽に肩を震わせていると、エコー・イーターは穏やかに微笑んだ。その表情は、もはやカイ自身の写しではなく、遥かな時を生きてきた賢者のように見えた。
「記憶は、喰らうものでも、消すものでもない。ただ、受け入れ、抱きしめるものだ。その痛みこそが、君が彼女を深く愛した証なのだから」
そう言うと、エコー・イーターは静かにカイに背を向けた。その姿はゆっくりと霧の中へと溶けていき、彼が乗っていたもう一隻のシースワロー号も、陽炎のように掻き消えた。
気がつくと、絶対的な静寂は破られ、優しい潮風がカイの頬を撫でていた。海面は黒い鏡ではなく、生命のきらめきを宿した深い藍色を取り戻していた。エコー・イーターは、カイの記憶を喰らわなかった。何も奪わなかった。しかし、カイの心は、嵐が過ぎ去った後の空のように、澄み渡っていた。
痛みは消えていない。胸の奥には、今も鈍い疼きが残っている。だが、それはもはや彼を苛む呪いではなかった。失った人との、決して消えることのない繋がり。彼という人間を形作る、かけがえのない一部となっていた。
カイは、シースワロー号の舵を握り、船の舳先を故郷へと向けた。彼の手にあった羅針盤は、もう後悔の念を指して震えることはなかった。ただ静かに、進むべき航路を示している。
空には満天の星が瞬いていた。その一つ一つが、誰かの記憶の光のように見えた。カイの冒険は終わった。忘却を求めた旅は、皮肉にも、決して忘れてはならないものを見つける旅となった。本当の意味での彼の人生という航海は、今、この瞬間から始まろうとしていた。