第一章 記憶の残響、沈黙の森へ
リオンは、自身の記憶を薪のように燃やして生きる男だった。
錆びついた港町、潮風が運ぶ魚のはらわたの匂いと、安酒のむせるような甘さが混じり合う酒場。その片隅で、彼はグラスを傾けながら世界の音に耳を澄ませていた。彼は「調律師」と呼ばれていた。常人には聞こえない音の連なりから、物事の筋道や在処を視覚化する力を持つ。その代償は、彼自身の過去。一度能力を使えば、脳裏に焼き付いた大切な思い出が、ひとつ、またひとつと色褪せ、やがて完全に消え去るのだ。
その日、リオンの耳を捉えたのは、打ち付ける雨音の隙間に紛れた、幽かな旋律だった。それは、彼が長年追い求めてきた「始まりのメロディ」の断片。失われたすべての記憶を取り戻すことができるという、伝説の聖歌。その音を聞きさえすれば、この終わりのない喪失感から解放されるはずだった。
「……見つけた」
リオンは呟き、目を閉じた。脳裏に浮かべるのは、幼い頃、病床の母が握ってくれた手の温もり。陽だまりのような優しさが胸に広がる。ありがとう、母さん。心の中で別れを告げると、その温かい記憶は白い灰となって霧散し、代わりに金色の光の糸が目の前に現れた。糸は酒場の扉を抜け、北へ、北へと伸びていく。その先にあるのは、いかなる音も飲み込んでしまうという禁忌の地、「沈黙の森」。
虚ろな胸を押さえ、リオンは立ち上がった。ポケットの中には、一音も記されていない、真っ白な五線譜の手帳。これをメロディで満たすためなら、自分が空っぽになっても構わない。彼はそう信じて疑わなかった。金色の糸だけを頼りに、彼は雨の降りしきる夜の闇へと、一歩を踏み出した。その背中には、彼が今しがた失った母親の記憶と同じくらい、深い孤独が張り付いていた。
第二章 音なき森の案内人
沈黙の森は、その名の通り、音が存在しない場所だった。風が木々を揺らしても葉擦れの音はせず、小川が流れてもせせらぎは聞こえない。踏みしめる土の音さえ、分厚い闇に吸い込まれていく。ここでは、リオンの聴覚は意味をなさなかった。頼れるのは、記憶を燃やして紡ぎ出す光の糸だけだ。
「初めて友と呼べる男と、夜通し語り合った記憶」
光の糸が、森の奥へと続く道を示す。胸にぽっかりと穴が空き、友の顔も名前も思い出せなくなった。
「初恋の少女に、言葉をかけられずに胸を痛めた記憶」
糸は、行く手を阻む幻惑の霧を払う。甘酸っぱい痛みは、もう二度と感じることはない。
彼は機械的に記憶を消費し、歩みを進めた。感情の起伏すら、失くしかけていた。そんな彼の前に、奇妙な存在が現れた。錆びかけたブリキでできた、背丈ほどの大きさの人形だった。ぜいぜいと蒸気を漏らしながら、人形は古風なタイプライターのような音を立てて話しかけてきた。
『警告。この先の領域は、高密度の記憶エーテルに汚染されています。侵入は推奨されません』
「お前は誰だ?」リオンが問うと、人形は胸のプレートを指差した。そこには「記録補助機械人形 エコー」と刻まれている。
『私は、この森に捨てられた記憶の断片を記録し、保存する役目を担っています。あなたの魂が、あまりに多くの空白を抱えているのを感知しました』
エコーは、リオンが失った記憶の残滓――その微かなエネルギーを辿ってやってきたのだという。リオンは構わず先へ進もうとしたが、エコーは彼の前に回り込んだ。
『あなたが探しているメロディ。それは、本当にあなたを幸せにするものですか? 時に、忘却こそが唯一の救いであることもあります』
「俺には救いなんて必要ない。ただ、失くしたものを取り戻したいだけだ」
リオンはエコーを振り払い、再び記憶を燃やした。今度は、父親に初めて褒められた日の、誇らしい記憶。金色の糸が強く輝き、森の最深部を指し示す。その光景を、エコーはただ静かに、そのガラスのレンズのような瞳で見つめていた。その瞳には、憐憫とも諦めともつかない、複雑な光が揺らめいていた。
第三章 水晶の洞窟、罪の旋律
森の奥深く、巨大な水晶が林立する洞窟があった。光が乱反射し、まるで星空の中にいるかのような幻想的な光景が広がっている。そして、ここには「音」があった。だが、それはリオンが想像していたような、魂を癒す聖歌ではなかった。
――グゥォォン、キィィィ……
聞く者の心を掻き乱し、不安と絶望を呼び起こす、おぞましい不協和音。伝説の「始まりのメロディ」の正体は、魂を蝕む呪いの旋律だったのだ。
「違う……こんなものであるはずがない……!」
リオンは混乱し、後ずさる。だが、ここまで来て引き返せるはずもなかった。彼は最後の、そして最も根源的な記憶に手を伸ばした。まだ名前も持たなかった赤子の自分を抱きしめ、誰かが優しく呼びかけた最初の記憶。自分の存在が、この世界に肯定された原初の思い出。
「これで、すべてを終わらせる」
彼がその記憶を燃焼させた瞬間、世界が反転した。
金色の光が弾け、洞窟全体にリオン自身の失われた記憶が奔流となって溢れ出した。母親の温もり、友との笑い声、初恋の痛み。そして、彼が忘却の彼方に葬り去っていた、おびただしい数の見知らぬ人々の顔。恐怖に歪む顔、嘆き悲しむ顔、憎悪に燃える顔。
真実が、彼の空っぽの魂に叩きつけられる。
この不協和音は、彼自身が作ったものだった。
かつて、リオンは歴史上最も強力な「調律師」だった。彼はその声で音を紡ぎ、人々の心を自在に操ることができた。彼はその力を正義のために使うと信じていたが、増長し、傲慢になり、やがて国を動かすほどの巨大な争いを引き起こしてしまった。彼の歌は、人々を狂わせ、互いに殺し合わせるための凶器となったのだ。
目の前の呪いの旋律は、彼が引き起こした悲劇、犠牲者たちの断末魔の叫び、そのすべてを練り上げて作り出した、彼自身の「罪の旋律」だった。
あまりの罪悪感に耐えきれなくなった彼は、自らの能力のすべてを懸けて、この旋律と、それに関わるすべての記憶を自分自身から切り離し、この沈黙の森の最深部に封印したのだ。
「始まりのメロディ」を探す旅。それは、失われた記憶を取り戻す救済の旅などではなかった。彼自身が捨てた罪を、無意識のうちに追い求めていた、滑稽で、あまりにも悲しい贖罪の巡礼だったのだ。
すべての記憶が流れ込み、そして再び消え去っていく。最後に残ったのは、自分が何者であったかという残酷な事実だけ。空っぽになったリオンは、その場に崩れ落ち、水晶の洞窟に響き渡る自らの罪の旋律を聞きながら、ただ静かに涙を流した。
第四章 空っぽの五線譜に描く未来
どれほどの時間が経っただろうか。リオンが顔を上げると、洞窟の入り口にエコーが静かに佇んでいた。その手には、一枚の羊皮紙が握られていた。
『……これが、私に記録できた、あなたのすべてです』
エコーが差し出した羊皮紙には、無数の言葉がタイプされていた。
『陽だまりの匂い。温かい手』
『夜明けまで続いた馬鹿話。腹の底からの笑い声』
『言えなかった「好き」という言葉。桜の花びら』
『親父の無骨な手。頭を撫でられた時の、少しだけくすぐったい感覚』
それは、リオンが消費してきた記憶の残響。エコーが拾い集めた、彼の人生の断片だった。罪の記憶だけではない。彼が確かに誰かを愛し、誰かに愛され、喜び、傷ついてきた証が、そこにはあった。
リオンは震える手でそれを受け取った。もう、その情景を鮮明に思い出すことはできない。だが、その言葉の連なりは、彼の空っぽの胸に、小さな灯火をともした。
「俺は……」
彼は立ち上がった。そして、洞窟の中心で鳴り響く不協和音と向き合った。それは紛れもなく自分の罪だ。消すことも、忘れることもできない。ならば、受け入れるしかない。
リオンは、ポケットから真っ白な五線譜の手帳を取り出した。そして、深く息を吸い込み、歌い始めた。声はかすれ、音程は定まらない。だが、彼は歌い続けた。罪の旋律を打ち消すのではない。その不協和音に、寄り添うように、新たなメロディを紡いでいく。
それは、完璧な調和ではない。悲しみと、後悔と、それでも未来へ向かおうとする小さな希望が入り混じった、不器用で、ひどく人間臭い旋律。彼の「贖罪のレクイエム」だった。
すると、奇跡が起きた。おぞましかった不協和音が、リオンの歌声に導かれるように、少しずつその猛威を収めていく。悲鳴は鎮魂歌へ、憎悪は哀悼へと、ゆっくりと変容していく。
やがて、洞窟を満たしていた呪いの旋律は完全に消え、リオンが紡いだ新しいメロディだけが、静かに響き渡った。その音色は沈黙の森の呪縛を解き、木々の葉擦れや小川のせせらぎとして、外の世界へと流れ出していった。
リオンは、もう過去の記憶をほとんど持たない。しかし、彼の手元には、今しがた生まれたばかりのメロディが記された五線譜があった。彼の心を満たすのは、もはや虚無感ではなかった。これからをどう生きるべきかという、静かで、しかし確かな重みを持った決意だった。
彼はエコーの方を振り返り、かすかに微笑んだ。
「行こう。この歌を、届けるべき場所があるはずだ」
記憶を失った調律師と、記憶を記録する機械人形。二人の新たな冒険が、今、始まった。それは何かを得るための旅ではない。失ったもの、犯した罪のすべてを背負い、未来を紡いでいくための、果てしない旅路だった。