君が遺した色彩のパレット

君が遺した色彩のパレット

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第一章 色彩の共鳴

僕、水島湊の世界は、洗いざらしの布のように、ずっと色褪せていた。喜びも悲しみも、まるで薄い膜を一枚隔てた向こう側の出来事のようで、僕の心に鮮やかな痕跡を残すことはない。街も空も人々も、すべてが濃淡の異なるグレーのグラデーションで構成された、静かで退屈な風景画だった。

月島陽と出会うまでは。

高校の入学式、隣の席になった彼は、太陽そのものだった。屈託なく笑い、些細なことで怒り、そして感動してはすぐに涙ぐむ。彼の感情は常に振り切れていて、その激しい揺らめきは、僕にとって未知の生命力に満ちていた。そして、何より信じられなかったのは、僕にだけ、彼の感情が「色」として見えたことだ。

陽が笑うと、彼の周りに陽だまりのような金色の粒子が舞った。悲しむと、身体の輪郭が深海のような藍色に沈んだ。怒れば、燃え盛る炎のような緋色がオーラとなって立ち上る。僕のモノクロの世界で、陽だけが唯一、鮮やかな原色を放つ存在だった。

「湊にも見えるんだ、俺の色が」

ある日の放課後、屋上でそう告げると、陽は驚くどころか、嬉しそうに目を細めた。

「やっぱりな。俺にも見えるから。湊の色」

彼の言葉に、僕は自分の目を疑った。僕に色なんてあるはずがない。けれど陽は、僕の心に浮かぶ微かな戸惑いを指して「ほら、今みたいな時は、霞がかった薄紫になる」と言い、僕が驚きで目を見開くと「今は、夜明け前の空みたいな、白に近い水色だ」とこともなげに言った。

僕たちは、これを「魂の共鳴」と名付けた。お互いだけが感知できる、特別な友情の証。僕にとって、感情表現が豊かな陽のそばにいることは、自分の代わりに世界を彩ってもらっているような、心地よい感覚だった。陽が放つ色を浴びることで、僕の灰色の世界に、ほんの少しだけ色が滲む気がした。陽にとっても、感情の起伏が少ない僕の隣は、荒れ狂う嵐の後の凪のように、安らげる場所なのだと言ってくれた。僕たちは互いにないものを補い合う、完璧な二人組だと信じていた。

その幻想が、音を立てて崩れ始めたのは、高校二年の秋だった。僕が飼っていた老犬が死んだ。物心ついた時からいつもそばにいた家族の喪失は、僕の心の奥底に眠っていた感情の栓を、初めてこじ開けた。世界が歪むほどの悲しみが、濁流となって僕を襲った。その時、僕の身体から、自分でも見たことのないほど濃い、絶望的な藍色が溢れ出すのが分かった。

その瞬間、隣で僕の肩を抱いてくれていた陽が、ふっと糸の切れた人形のように崩れ落ちたのだ。彼の周りを彩っていたはずのあらゆる色が、まるでインクを吸い取られた紙のように、一瞬で真っ白な空白へと変わっていた。救急車が到着するまでの間、僕は意識のない陽を抱きしめながら、ただ震えていた。僕の悲しみが、陽の色を奪ってしまった。その恐ろしい直感が、僕の心を氷のように凍てつかせた。

第二章 色褪せる世界

陽は数日で退院したが、何かが決定的に変わってしまった。あれほど豊かだった彼の感情の色彩が、ひどく薄く、淡くなってしまったのだ。以前なら金色に輝いていたはずの笑顔は、今はせいぜい淡いクリーム色にしかならず、それもすぐに消えてしまう。僕のせいだ。僕の激しい感情が、陽の魂に回復不能なダメージを与えてしまったのだ。

罪悪感に苛まれた僕は、ひとつの決意をした。二度と陽を傷つけないために、僕自身の感情を完全に殺してしまおう、と。

それからの僕は、心を無にすることに全力を注いだ。嬉しいことも、悲しいことも、すべてを意識の外へ追いやる。面白い映画を観ても笑わず、理不尽なことがあっても怒らない。心を揺さぶるものすべてから目を逸らし、分厚い壁の内側に閉じこもった。僕の感情の色は、陽が言うには「ほとんど透明に近い、薄い灰色」になったらしい。これでいい。僕が無色透明でいれば、陽の色が奪われることはないはずだ。

だが、僕の目論見は最悪の形で裏切られた。僕が感情を殺せば殺すほど、陽の色彩もまた、比例するように輝きを失っていったのだ。彼の笑顔から色は消え、言葉数は減り、教室の隅で窓の外をぼんやりと眺めている時間が増えた。かつて太陽のようだった彼の周りには、今やどんよりとした鉛色の空気が漂っている。

「最近、なんだか、何も感じないんだ」

ある日、陽がぽつりと呟いた。

「面白いことも、悲しいことも、全部が他人事みたいで。……湊、俺、どうしちゃったんだろうな」

その虚ろな目に、僕は何も言えなかった。良かれと思ってしたことが、彼から生きる力そのものを奪っていた。僕たちの「共鳴」は、僕が考えていたような美しいものではなく、もっと歪で、危険なバランスの上に成り立っていたのかもしれない。僕たちは互いに向き合うことを避け、二人の間には気まずく、色のない沈黙だけが横たわるようになっていった。陽を守るために始めたはずの自己犠牲が、僕たちの友情そのものをゆっくりと蝕んでいた。

第三章 魂の交換

卒業を間近に控えた冬の日、陽は再び倒れた。今度は、ただ意識を失っただけではなかった。彼の身体は冷たく、呼吸は浅く、まるで生命の炎が消えかかっているようだった。

病院の集中治療室の前で呆然と立ち尽くす僕に、声をかけてきたのは、しわの深い、穏やかな目をした老婦人だった。陽の祖母だという彼女は、僕の顔をじっと見つめると、「あなたが、湊くんね」と静かに言った。そして、陽の病室ではなく、病院の小さな面談室に僕を導いた。

「あの子から、全部聞いています。感情の色が見えること、そして、それを『共鳴』と呼んでいること」

祖母はゆっくりと、しかし決して目を逸らさずに語り始めた。その言葉は、僕が信じてきた世界のすべてを根底から覆す、残酷な真実だった。

「あれは共鳴なんかじゃない。……『交換』なのよ」

彼女によると、陽と僕は、もともと一つの魂を持つ存在だったという。生まれる直前、何らかの理由でその魂は二つに分かたれ、別々の人間として生を受けた。魂の双子。それが僕たちの正体だった。感情の色が見えるのは、分かたれてなお、魂が繋がりを求めている証拠。しかし、その繋がりは、一方の感情がもう一方へ流れ込むという、一方通行の交換システムだった。

「陽くんは、感情を生み出すのが得意な半身。湊くんは、感情を受け取り、溜め込むのが得意な半身。陽くんが豊かな感情を放つことで、感情の乏しいあなたの世界は彩られていた。そして、あなたの穏やかさが、感情の激しい陽くんにとっての錨になっていた。それは奇跡的なバランスだったの」

だが、そのバランスは脆かった。僕が老犬の死で強い悲しみを感じた時、僕の魂は、バランスを保とうとして陽の魂から大量の感情エネルギーを無意識に吸い上げてしまった。それが、陽が倒れた原因だった。そしてその後、僕が感情を殺したことで、陽へのエネルギー供給が完全に断たれてしまった。陽は感情を生み出すことはできても、それを自分の内に留めておくことができない。僕という受け皿を失った彼の感情は、ただ霧散し、彼の生命力そのものが枯渇していったのだ。

「このままでは、二人とも消えてしまうわ。魂は元に戻ろうとする。けれど、今のままではエネルギーが足りず、共倒れになるだけ。……元に戻る方法は、一つしかない」

祖母は深く息を吸い込んだ。

「どちらか一方が、自らの存在を賭して、持てるすべての感情エネルギーを、もう一方に渡すこと。そうすれば、片割れは完全な一つの魂として、生きていける」

絶望が、僕の心を黒く塗りつぶした。友情だと思っていたものは、生存を賭けた魂の奪い合いだった。僕の無知が、陽をここまで追い詰めた。僕が感情を殺したせいで、陽は死にかけている。涙すら出てこなかった。僕の心は、色も形も失った、完全な虚無に陥っていた。

第四章 君に贈る虹

虚無の底で、僕は一つの光を見つけた。それは決意の光だった。僕が消えれば、陽は生きられる。僕が奪ってしまった色彩を、今度は僕のすべてを懸けて、彼に返すのだ。

陽が眠る病室のドアを、静かに開けた。白いベッドの上で眠る彼の輪郭は、ほとんど透明に近く、かろうじてそこに存在しているのが分かる程度だった。僕は彼のベッドのそばに座り、冷たくなった彼の手を握りしめた。

「陽。ごめんな。ずっと、気づかなくて」

僕は心の壁を取り払った。忘れていた感情、蓋をしていた記憶、そのすべてを解き放つ。

陽と初めて出会った日の、胸の高鳴り。屋上で二人で見た、燃えるような夕焼け。くだらないことで笑い転げた、きらめくような金色の時間。僕の感情に色がなかったんじゃない。僕が、自分の感情の色を見る方法を知らなかっただけだ。陽が、僕の代わりにそれを見てくれていただけなんだ。

陽と過ごした楽しかった思い出。彼が倒れた時の恐怖。彼を傷つけてしまった罪悪感。そして今、彼を失うかもしれないという、身を切るような悲しみ。彼に生きてほしいと願う、どうしようもないほどの強い、強い想い。

「陽、ありがとう」

その瞬間、僕の世界が、生まれて初めて内側から発光した。僕の身体から、色とりどりの光が洪水のように溢れ出す。陽だまりの金色、深海の藍色、燃える緋色、そして桜の花びらのような、淡い桃色の光。それは紛れもなく、僕自身の感情の色だった。

光は僕の手を通して、陽の身体へと流れ込んでいく。僕の視界は次第に白んでいき、身体の感覚が薄れていく。けれど、心は不思議なほど温かく、満たされていた。自分の感情で世界を彩る喜びと、たった一人の親友を救えたという達成感が、僕のすべてを包み込んでいた。

流れ込む光の中で、陽がゆっくりと目を開けた。その瞳には、僕が出会った頃の、力強い光が宿っていた。彼の周りには、僕が放った鮮やかな色がオーラとなって、虹のように輝いている。

「……湊」

陽の頬を、一筋の涙が伝った。それは、僕が渡した悲しみの色ではなく、温かい感謝の色をしていた。

「……きれいだよ。君の色、すごく」

それが、僕が聞いた最後の言葉だった。

月島陽は、奇跡的な回復を遂げて退院した。彼は以前よりもさらに感情豊かになり、よく笑い、よく泣き、そして、絵を描き始めた。彼の描く絵は、いつも鮮烈な色彩で満ちていた。力強く芽吹く若葉、どこまでも青い空、人々の間に生まれる温かい光。そして、そのキャンバスの片隅には、いつも淡い光に包まれて微笑む、一人の青年の姿が描かれていた。

陽は、湊から受け取ったパレットで、二人分の世界を描き続ける。彼の世界は、一人の親友が遺してくれた、切なくも温かい虹の色彩で、永遠に輝き続けている。

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