空に沈む君の重さ
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空に沈む君の重さ

第一章 瑠璃色の重み

僕、カイの体内には、数え切れないほどの光の結晶が脈打っている。人々が「記憶の滴」と呼ぶそれらは、誰かと友情を深めるたびに、その思い出と共に生まれる副産物だ。ガラス細工のように繊細な滴は、体内で小さな星のように明滅し、記憶の温度を微かに伝えてくる。しかし、この美しさには代償が伴う。滴は物理的な「重み」を持ち、貯めすぎれば最後には大地に沈んでしまうのだ。

僕の身体が今もこうして地上に留まっていられるのは、親友のソラのおかげだった。彼は、この感情の重みが支配する世界で、完璧な調律師のように自らの心を操る。喜びで身体が舞い上がれば、微かな寂寥感を心に灯してバランスを取り、悲しみで足が地面に吸い付きそうになれば、未来への希望をそっと胸に抱く。彼の歩く道は、常に地面と水平だった。

「カイは、僕との記憶が一番重いんだろ? ごめんな、いつも」

そう言って笑うソラの声は、春の陽だまりのように僕の心を軽くする。彼の言う通り、僕の体内にある滴で最も大きく、そして重いのは、ソラとの記憶が結晶化した瑠璃色の滴だ。それは僕の存在の中心で、静かに、しかし確かな重みをもって輝いている。それは僕にとって、足枷であると同時に、この世界に僕を繋ぎ止める最も大切な錨だった。

第二章 浮遊する予兆

異変は、秋風が街路樹の葉をさらい始めた頃に訪れた。

喫茶店のテラスで向かい合って座っていた時だ。他愛もない冗談にソラが声を上げて笑った、その瞬間。彼の身体が、椅子からふわりと数センチ浮き上がった。カップを持つ手が宙で揺れ、琥珀色の紅茶がソーサーに小さな波紋を作る。

「わっ…」

僕は咄嗟にテーブル越しに彼の手首を掴んだ。確かな体温と脈動。けれど、その身体はまるで重力から見放された凧のように、頼りなく宙を掴もうとしている。

「…はは、最近ちょっと調子がいいみたいだ」

ソラは悪戯っぽく笑い、すぐに元の重さを取り戻した。だが、彼の笑顔には、薄氷のような危うさが張り付いていた。

その夜、風呂上がりに鏡を見ると、僕の胸のあたりから、小さな瑠璃色の光の粒が一つ、ぽろりと皮膚をすり抜けて床に落ちた。それはソラとの記憶の滴だった。落ちた滴は、床に染み込む前に光を失い、ただの水滴となって蒸発していく。その喪失感に、心臓が冷たく締め付けられた。

翌日、ソラに会うと、彼は少し困ったように首を傾げた。

「なあカイ、昨日の約束って、何だっけ?」

僕たちは昨日、週末に見に行く映画の話をしていたはずだった。些細な、けれど確かに二人で分かち合った記憶の欠片が、彼の中から消えていた。

第三章 空の小瓶

ソラの浮遊現象は、日を追うごとに悪化していった。穏やかな風にも身体が煽られ、階段を一段飛ばしただけで、天井に頭を打ちそうになる。僕は彼の腕を掴む回数が増え、そのたびに僕の身体から瑠璃色の滴が一つ、また一つとこぼれ落ちていった。

滴が消えるたびに、ソラの中から僕との記憶が抜け落ちていく。一緒に見つけた秘密の抜け道、初めて喧嘩した日の夕焼けの色、交わしたくだらない約束。それらは彼の言葉の端々から、まるで存在しなかったかのように消え去った。

僕は彼の首から提げられた、小さなガラスの小瓶が気になっていた。透明なそれはいつも空っぽで、彼の動きに合わせてか細い音を立てる。

「ソラ、それは何なんだ?」

ある日、僕は耐えきれずに尋ねた。

ソラは小瓶を指で弾き、乾いた音を響かせる。

「忘れた感情を、仕舞っておく場所さ。悲しみとか、怒りとか。でも、知ってるだろ? 空っぽの方が、身体は軽いんだ」

その瞳は、底の見えない井戸のように静かで、僕の知らない寂しさを湛えていた。彼は、僕を守るために自らの感情を捨てているのではないか。そんな恐ろしい予感が、僕の身体を鉛のように重くした。

第四章 崩れる天秤

運命の日、空は泣いていた。灰色の雲が街を覆い、激しい雨が窓ガラスを叩きつける。そんな嵐の中、ソラは僕の目の前で、空高く舞い上がった。

彼の部屋の窓が開け放たれ、雨風が吹き込んでいた。そこに立つソラの身体は、風に弄ばれる木の葉のように軽々と宙に浮き、ゆっくりと窓の外へ、嵐の空へと吸い寄せられていく。

「ソラ!」

僕は必死に手を伸ばす。指先が、彼の服の裾を掠めた。しかし、その身体には確かな手応えがない。まるで幻に触れようとしているかのようだ。

その瞬間、僕の身体の内側で何かが砕け散る音がした。胸の中心で輝いていた巨大な瑠璃色の滴に亀裂が走り、そこから無数の光の破片が、涙のように溢れ出した。光の雨が僕の身体を通り抜け、部屋中に飛び散る。それは、僕とソラが共に過ごした、数え切れない日々の記憶だった。

光が止んだ時、嵐の空に浮かぶソラが、ゆっくりとこちらを振り返った。その表情は、生まれたての赤子のように無垢で、感情の色を一切映していない。彼は僕を見て、小さく首を傾げた。

「君は…誰?」

その言葉は、どんな暴風よりも強く僕を打ちのめした。全身の力が抜け、僕はその場に膝から崩れ落ちる。排出された記憶の重みが、今度は絶望という形で僕の肩にのしかかり、アスファルトに身体がめり込んでいくような錯覚を覚えた。

第五章 真実の軽さ

ソラは、感情制御局の保護下に置かれた。彼はもはや誰のことも認識できず、ただ無重力室で穏やかに浮かんでいるだけだと聞かされた。

僕は、彼の残した部屋で答えを探した。空っぽになった本棚、持ち主を失った机。その引き出しの奥に、一冊のノートが隠されていた。ソラの日記だった。震える手でページをめくると、そこには彼の苦悩と、僕への歪んだ愛情が綴られていた。

『カイの身体に、僕との記憶が結晶化していく。その瑠璃色の輝きは美しい。だが、それは彼を大地に縛り付ける呪いでもある。彼が僕を想うほど、彼は重くなる』

『僕が、軽くならなければ。僕との友情が、彼の負担にならないように』

『今日、悲しみを捨てた。昨日、怒りを捨てた。喜びさえ、身体を浮かせるから不要だ。僕の心に必要な重しは、カイとの友情だけでいい』

『でも、足りない。友情だけでは、この身体を地上に繋ぎ止められない。僕の中から、僕自身が消えていく。カイ、君は誰だっけ…?』

日記はそこで途切れていた。彼は、僕を記憶の重さから救うために、友情以外の全ての感情を意図的に排斥し続けていたのだ。その結果、彼の身体は重力の軛を失い、友情という概念だけを残して、自我も記憶も薄れていった。僕が感じていたのは、友情の重みではなかった。彼が僕のために捨てた、無数の感情の重みだったのだ。

第六章 君を繋ぐもの

僕は決意した。無重力室のガラス窓の向こう、ソラは胎児のように丸まって静かに浮かんでいる。その姿は、神々しくも、痛々しいほどに孤独だった。

僕は、この数週間で僕の身体からこぼれ落ち、研究室に保管されていた無数の「記憶の滴」の前に立った。かつて僕を重くしていた、ソラとの思い出の結晶だ。僕はそれを一つ残らずかき集め、両手で掬い上げると、一気に体内に戻した。

灼けつくような痛みと、魂が引き裂かれるほどの重圧。失われた記憶が奔流となって僕の中に流れ込み、身体中の骨がきしむ。けれど、不思議と心は凪いでいた。

「ソラ。君が捨てた重みは、僕が全部背負うよ」

鉛のように重くなった足を引きずり、僕はソラの浮かぶ部屋に入る。僕の重さに引かれるように、彼の身体がゆっくりと下降してきた。僕は手を伸ばし、その冷たい指を固く握りしめる。僕の重みが、彼をこの地上に繋ぎ止める鎖となる。

その時、ソラの手から、あの空の小瓶が滑り落ちた。床に当たって砕け散り、中からたった一つ、夜空の最も深い色を映したような、小さな瑠璃色の滴が転がり出た。

――それは、僕とソラが初めて出会った日、公園のベンチで交わした、最初の約束の記憶だった。彼が最後まで手放さなかった、たった一つの宝物。

僕はその小さな滴を拾い上げ、涙と共に胸に抱いた。ソラの身体は、僕の手の中で徐々に輪郭を失い、純粋な光の粒子となって空気に溶けていく。彼はもはや僕に応えない。自我を失い、純粋な「友情」という概念そのものになって、この世界に偏在する存在となったのだ。

僕の身体は、いつかこの重さに耐えきれず、大地に沈むだろう。だが、構わない。この耐え難いほどの重みこそが、ソラという存在が、確かにこの地上に在った証なのだから。

空を見上げる。そこにはもう彼の姿はない。けれど、僕はこの重力の中に、確かに彼を感じている。友情とは、相手の記憶を背負い、その重みと共に生きていくことなのかもしれない。僕は、空に沈んだ君の重さを抱いて、明日もこの大地を歩いていく。


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