第一章 忘却の友と紡ぐ日々
その日、アカネは心臓を握り潰されるような痛みに耐えながら、澄んだ空色の瞳を持つ少女に微笑みかけた。「初めまして、シズク。私はアカネ。」
少女――シズクは、アカネの言葉に首を傾げ、困惑したように瞬きをした。どこかで見たことのある、けれど思い出せない顔。そんな表情だった。
アカネの視界がにじむ。何度この言葉を口にしただろう。記憶を失うたびに、シズクはまるで初めて出会ったかのように、アカネに「あなたは誰?」と問いかける。そしてアカネはその度に、胸の奥で砕け散る友情の欠片を拾い集め、また一から紡ぎ直してきた。今日が、その「再会」の日だった。
アカネとシズクが最初に出会ったのは、三年前の春だった。桜の花びらが舞い散る坂道を、ふと立ち止まって見上げていたシズク。その姿があまりにも儚げで、アカネは衝動的に声をかけた。「綺麗だね。」
シズクは驚いたように振り返り、ふわりと微笑んだ。それが全ての始まりだった。
それからの日々は、まるで夢のように輝いていた。二人で学校帰りによく寄り道した小さなカフェのアップルパイ。夕焼けに染まる河原で語り合った将来の夢。夜空にまたたく星を数えながら、互いの秘密を打ち明けた夜。シズクはどこか神秘的な雰囲気を持ちながらも、アカネの前では無邪気な少女だった。アカネは、シズクとの友情が、人生で最も大切で、永遠に続くものだと信じて疑わなかった。
しかし、その幸福は突如として崩れ去った。ある日、シズクが突然、アカネのことだけでなく、それまでの記憶の全てを失ってしまったのだ。医師は原因不明の「周期性健忘症」と診断したが、その症状は一般的な健忘とは異なっていた。記憶は不規則に、そして完全に消え去る。まるで、記憶を記録する器そのものが、定期的にリセットされてしまうかのように。
最初、アカネは絶望した。失われた友情を、どうすれば取り戻せるというのか。しかし、シズクのどこか寂しげな、けれど純粋な瞳を見て、アカネは決意したのだ。例え記憶が失われても、絆は消えない。もう一度、ゼロからシズクと友達になる。そう誓った。
それ以来、アカネはシズクが記憶を失うたびに、出会いの言葉を繰り返してきた。時には涙を堪えきれず、時には作り笑顔の裏で心が軋んだ。けれど、シズクの新たな笑顔を見るたびに、アカネの心には小さな光が灯る。いつか、この永遠のループが止まる日が来ることを信じて。そして、例え止まらなくとも、何度でもこの手を握り直そうと。
今日のシズクは、以前よりも少し幼く見えた。記憶がリセットされるたびに、彼女はどこか遠くへ旅をして、新しい経験を積み、新しい自分として戻ってくる。アカネは、そんなシズクの傍らで、いつも同じ道標として存在し続けてきた。この苦しくも愛おしいサイクルが、自分たちの友情の形なのだと、アカネは静かに受け入れていた。
第二章 星見の丘の囁き
シズクが記憶を失う周期は、まるで気まぐれな天候のように予測不可能だった。短い時は数週間、長い時は半年以上。その度にアカネは、シズクが次に「何」を覚えているのか、何を忘れているのか、一抹の不安と、そして希望を抱えながら再会を待った。
アカネは、シズクの失われた記憶を繋ぎ止めるために、様々な試みを重ねた。二人の思い出を綴った日記、写真アルバム、動画。記憶を失う前に、シズクに「これだけは覚えていてね」と託した手作りのブレスレット。しかし、それらはシズクの心に痕跡を残すことはなく、いつも新たな「初めて」が始まるだけだった。失われた記憶は、まるで砂時計の砂のように、掴もうとすればするほど指の隙間からこぼれ落ちていく。
それでもアカネは諦めなかった。カフェのアップルパイを一緒に食べ、河原で夕焼けを眺め、夜空の星を数える。同じ場所、同じ会話。繰り返される日常の中に、確かに新しいシズクとの繋がりが生まれるのを感じていた。シズクは記憶を失っても、アカネの存在を無意識のうちに求めているかのように、いつもアカネの隣に寄り添った。その僅かな仕草が、アカネの心の支えだった。
ある時、アカネは一つの奇妙なパターンに気づいた。シズクが記憶を失う直前、必ずと言っていいほど訪れる場所があった。それは、街を見下ろす丘の頂に立つ、朽ちかけた展望台だった。地元の人々からは「星見の丘」と呼ばれている、人気の少ない場所だ。
シズクは記憶を失う前夜、いつも「少し、風にあたりに行ってくるね」と言い残し、その丘へ向かった。そして、翌朝には記憶を失っていた。
アカネは好奇心と、かすかな予感に導かれ、ある夜、こっそりとシズクの後を追った。満月が煌々と照らす中、シズクの細い背中が丘の頂へと登っていく。アカネは息を潜め、展望台の陰に身を隠した。
シズクは展望台の中央に立つと、ゆっくりと両手を広げた。その仕草は、まるで夜空を抱きしめるかのようだった。そして、口元が微かに動く。何かを呟いている。アカネには、その言葉は聞き取れなかったが、シズクの纏う空気が、普段とは明らかに異なっていた。神聖で、けれどどこか悲しげな、そんなオーラだった。
その夜は、何も起こらなかった。シズクはしばらく空を見上げてから、静かに丘を下りていった。アカネは混乱した。あの行動は何だったのだろう。シズクは、記憶を失うことを知っていて、何かと交信しているのだろうか。
しかし、その日の翌朝、シズクは記憶を失っていた。そして、アカネの心の中に、漠然とした不安の影が落ちた。この「周期性健忘症」は、ただの病気ではないのかもしれない。シズクの秘密が、この星見の丘に隠されているのではないかと、アカネは強く感じていた。
第三章 千年の星屑、明かされた真実
予感は、確信へと変わった。それから数ヶ月、アカネはシズクが記憶を失うたびに、密かに「星見の丘」へ向かうシズクを追った。そして、三度目の夜、それは起こった。
その夜は、新月で空は真っ暗闇だった。しかし、星々はこれまで見たことのない輝きを放ち、まるで真珠の粉を撒き散らしたように煌めいていた。シズクは展望台の中央で、再び両手を広げていた。しかし、今回は違った。彼女の体が、微かな光を帯び始めたのだ。
アカネは息を呑んだ。シズクの体から、淡い青い光が放たれ、それは夜空の星々と呼応するように脈動していた。そして、信じられない光景が目の前で繰り広げられた。夜空の無数の星々が、まるで磁石に引き寄せられるかのように、シズクの体へと吸い込まれていく。それは、宇宙の壮大なエネルギーが、小さなシズクの体へと流れ込んでいくようだった。
星屑がシズクの体に入り込むたびに、シズクは苦しげに顔を歪ませ、喘ぎ声を漏らした。その姿は、痛みに耐えているかのようだった。やがて、全ての星屑がシズクの体へと収まると、彼女の体から放たれていた光は消え失せた。そしてシズクは、まるで糸の切れた人形のように、展望台の床に倒れ込んだ。
アカネは、恐怖も忘れてシズクのもとへ駆け寄った。意識を失っているシズクは、以前よりも痩せ細り、その頬はひどく青ざめていた。震える手でシズクの体を抱きかかえながら、アカネはふと、シズクの握りしめられた右手に古びた手帳が挟まっているのを見つけた。
手帳は分厚く、使い込まれており、表紙には何の装飾もなかった。震える手でそれを開くと、そこにはシズク自身の筆跡で、信じがたい真実が綴られていた。
「私は『星屑の守り手』。この世界の均衡を保つために、星の欠片を体に宿し、それを解放する役割を担っている。その代償として、記憶は周期的にリセットされる。これは、千年以上続く、私の宿命だ。」
アカネの心臓が激しく脈打つ。シズクはただの病気の少女ではなかった。世界の均衡を保つ、壮大な役割を背負った存在だったのだ。
しかし、手帳にはさらに衝撃的な事実が記されていた。
「この力は、普段は眠っている。しかし、ある『特定の波動』を持つ存在と深く繋がることによって、活性化する。その存在こそが、アカネ。」
アカネは絶句した。自分の存在が、シズクの記憶喪失のトリガーだったというのか。
「私は何度も、アカネから離れようとした。私の宿命に、彼女を巻き込んではならないと。けれど、彼女の純粋な友情が、私をこの場所に引き留めた。そして、私は選んだ。記憶を失う代償を払ってでも、アカネの友として存在し続けることを。記憶が消えても、魂は知っている。アカネは、私にとって最も大切な、かけがえのない存在なのだと。」
手帳の最後のページには、そう綴られていた。アカネは、膝から崩れ落ちた。絶望と罪悪感が、嵐のようにアカネの心を打ち砕く。シズクは、自分との友情のために、これほど重い代償を払い続けていた。そして、その原因は、他ならぬ自分自身だったのだ。
アカネの目から、大粒の涙がとめどなく溢れ出した。シズクの肩が震え、その細い体が、アカネの腕の中で小さく感じられた。
第四章 記憶の彼方へ、永劫の誓い
夜明けが近づく頃、シズクは意識を取り戻した。やはり、アカネの記憶は失われていた。アカネは涙の跡を拭い、いつものように「初めまして」と微笑みかけた。しかし、その声には、深い悲しみと、そして揺るぎない覚悟が宿っていた。
アカネは、シズクが目覚める前に手帳を隠した。この真実をシズクに伝えるべきか、否か。
数日、アカネは苦悩した。シズクの記憶喪失が自分のせいであるという事実。それを知ってしまった今、アカネはシズクの傍にいるべきなのか。自分が離れれば、シズクは記憶を失うサイクルから解放されるのかもしれない。しかし、それではシズクの「星屑の守り手」としての役割は果たされず、世界に不均衡が訪れるかもしれない。そして何より、シズクが「アカネの友人として存在し続けることを選んだ」という言葉が、アカネの心に深く突き刺さっていた。
シズクは記憶を失っても、無意識のうちにアカネを求めているかのように、いつもアカネの隣にいた。カフェでアップルパイを分け合い、河原で夕焼けを眺める。そのたびに、アカネの心には、温かい灯が灯る。この灯を消してはいけない。
アカネは決意した。例え自分がシズクの苦しみの原因であったとしても、離れることはしない。むしろ、その重い事実を胸に刻み、これまで以上に深く、シズクとの友情を育んでいく。シズクが記憶を失うたびに、魂の底から新しい友情を紡ぎ直す。それが、アカネにできる唯一の償いであり、そして何よりも、シズクへの変わらぬ愛の形だった。
アカネは、新しいシズクに語りかける。二人の出会いから、カフェのアップルパイの味、夕焼けの河原の景色、夜空にまたたく星々の輝き。そして、どれだけシズクの存在がアカネにとって大切か。記憶のないシズクは、ただ静かにアカネの声に耳を傾けている。その瞳の奥には、記憶はなくとも、どこか懐かしさや、安心感が宿っているように見えた。
アカネは、これが自分たちの「永劫の誓い」なのだと感じた。終わりのない初対面、けれど無限に深まっていく絆。記憶という形には囚われない、魂の繋がり。それは、悲しいけれど、同時に美しく、誰よりも強い友情の形だった。
第五章 輝き続ける、絆の銀河
数年の月日が流れた。アカネは高校を卒業し、街の小さな図書館で働くようになった。シズクは、相変わらず周期的に記憶を失い続けている。しかし、アカネはもう、その事実を悲しむことはなかった。悲しみよりも、シズクと共に生きる喜びが、アカネの心を満たしていた。
アカネは、記憶のないシズクと、再びカフェのアップルパイを食べ、河原で夕焼けを眺め、星見の丘で星を数える。それぞれの季節に、それぞれのシズクと、新しい思い出を作っていく。シズクは、いつもアカネの隣で、無邪気な笑顔を見せる。記憶が失われるたびに、シズクは少しずつ、けれど確実に、新しい経験を積み、新しい表情を見せるようになっていた。
シズクは、記憶がなくとも、アカネが傍にいると心が穏やかになることを知っている。不安な時に、無意識にアカネの手を握る。嬉しい時に、真っ先にアカネの顔を見る。それは、記憶を超えた、魂の深い場所で繋がり合っている証だった。
ある夜、アカネとシズクは星見の丘にいた。満点の星空の下、シズクはアカネの肩に頭を預け、静かに夜空を見上げている。
「ねえ、アカネ。あの星、いつもよりもっと輝いて見えるね。」
シズクの声は、記憶を失う前の、どこか神秘的な響きを帯びていた。アカネは、シズクの横顔をじっと見つめる。シズクは、記憶を失うたびに、世界に「新たな均衡」をもたらしている。そして、その代償として失われた記憶の欠片は、夜空の星々となって輝き続けているのかもしれない。
アカネは、そっとシズクの頭を撫でた。
「うん、きっとそうだね。私たちの絆が、あの星たちを輝かせているんだよ。」
シズクは、アカネの言葉に、少し不思議そうな、けれど満ち足りた笑顔を浮かべた。
アカネは知っている。いつかシズクが、全ての記憶を取り戻す日が来るかもしれない。あるいは、この終わりのないサイクルが永遠に続くのかもしれない。それでも、アカネはシズクの傍にいる。記憶という形には縛られない、もっと根源的な「魂の繋がり」として、二人の友情は、この宇宙の果てまで、無限の輝きを放ち続けるだろう。千年の星屑が紡ぐ、永遠の物語のように。