第一章 琥珀色のシンフォニー
僕、柏木湊(かしわぎ みなと)には、生まれつき奇妙な癖がある。他人の記憶が、色として見えるのだ。それはオーラのようにその人の周囲をふわりと漂い、喜びは陽だまりのような黄色に、深い悲しみは海の底のような藍色に、激しい怒りは燃え盛る炎のような緋色に染まる。街を歩けば、色とりどりの感情の奔流が目に飛び込んでくる。それは時として美しく、時として醜悪で、僕はいつしか、他人の内面に踏み込むことに臆病になっていた。嘘や見栄は、濁った不快な色として見えるから、心からの人間関係を築くことなど、とうに諦めていた。
そんな僕にとって、唯一の例外が藤堂陽介(とうどう ようすけ)だった。
彼だけが、僕がこの秘密を打ち明けても、気味悪がったり、面白がったりすることなく、ただ「へえ、俺は何色に見えるんだ?」と穏やかに尋ねてくれた。陽介を包む色は、いつも決まっていた。それは、古いウイスキーの瓶を透かした光のような、温かく、どこか懐かしい「琥珀色」。彼と過ごした時間、共に笑い合った記憶、くだらないことで口論した思い出、そのすべてが溶け合って生まれた、深く豊かな色。陽介の隣は、僕にとって世界で唯一の安息の地だった。彼の琥珀色のオーラに包まれていると、街に溢れるノイズのような他人の色が、すっと遠のいていく気がした。
「湊、また難しい顔してる。どうせ、そこのカップルのピンク色が目に痛いとかだろ」
大学のキャンパスにあるカフェテラスで、陽介がコーヒーカップを片手にからかうように言った。彼の言う通り、向かいの席に座る男女からは、甘ったるいローズピンクのオーラが立ち上っている。
「うるさいな。お前の琥珀色で中和してるんだよ」
「なんだそりゃ。俺は空気清浄機か何かか?」
そう言って笑う陽介の周りで、琥珀色が心地よく揺らめく。この時間が永遠に続けばいい。心の底からそう思った。
その日の夕方、事件は起きた。
駅の改札で待ち合わせをしていた僕の前に、陽介が現れた。
「よう、湊。待たせたな」
いつも通りの屈託のない笑顔。いつも通りの声。しかし、僕は息を呑んだ。彼の全身を包んでいるはずの、あの温かい琥珀色が、どこにも見当たらないのだ。
代わりに彼を覆っていたのは、見たこともない色だった。それは、磨き上げられたステンレスのような、冷たく、無機質な「銀灰色」。感情の温度を一切感じさせない、まるで生命の気配が欠落したような色だった。
「どうした? 幽霊でも見たみたいな顔して」
陽介が僕の肩を叩く。その感触は確かに陽介のものなのに、僕の目に見えるのは、得体の知れない銀灰色の塊だった。僕が知っている藤堂陽介の記憶は、どこへ消えてしまったんだ?
第二章 不協和音のパズル
あの日を境に、僕は陽介を避けるようになった。彼からの連絡に当たり障りのない返事を返し、大学では講義が終わるとすぐに彼の前から姿を消した。陽介は戸惑い、何度も理由を尋ねてきたが、僕には何も言えなかった。「お前の記憶の色が、別人のものになっている」などと、どう説明すればいいのか。
僕の頭の中は、最悪の仮説でいっぱいだった。陽介は何らかの事故に遭い、記憶を失ったのではないか。あるいは、もっと恐ろしいことに、ドッペルゲンガーか何かに成り代わられてしまったのではないか。銀灰色の彼は、陽介の姿をした全くの別人なのではないか。
僕は、まるで探偵のように、彼の周辺を密かに探り始めた。共通の友人に彼の様子を尋ねても、「いつも通りだよ」という返事しか返ってこない。陽介のSNSを覗いても、そこには僕の知る陽介の日常が綴られているだけだった。彼の家族にそれとなく電話をかけても、変わった様子は微塵も感じられなかった。
誰も気づいていない。僕の目にだけ映る、この恐ろしい変化に。
孤独感と焦りが、鉛のように僕の胸に沈んでいく。陽介との思い出が詰まった場所を一人で巡ってみた。初めて二人でライブに行ったライブハウス。徹夜で語り明かした僕のアパート。そのすべてが、色褪せた映画のセットのように空虚に見えた。琥珀色の記憶を共有していたはずの相棒は、もうどこにもいないのだ。
ある夜、僕は古いアルバムを開いた。そこに写る陽介は、もちろんオーラなど纏っていない。ただ、その笑顔を見ていると、僕の記憶の中にはっきりと、あの温かい琥珀色が蘇ってくる。写真の中の陽介と、今僕の目の前に現れる銀灰色の陽介。二人は、本当に同一人物なのだろうか。
疑念は日に日に膨れ上がり、僕の心を蝕んでいった。陽介と交わす何気ない会話の一つ一つが、巧妙に作り上げられた偽物のように感じられた。彼は僕との過去を正確に語る。僕の癖も、好きなものも、すべてを覚えている。だが、その言葉には、記憶特有の「色」が伴っていなかった。それはまるで、教科書を読み上げるような、完璧で、だからこそ不気味な正確さだった。
第三章 銀灰色のレクイエム
一ヶ月が過ぎた頃、僕は限界に達していた。このままではおかしくなってしまう。真実が何であれ、それと向き合うしかない。僕は陽介を、思い出の場所である河川敷に呼び出した。
夕日が空を茜色に染める中、陽介は少し不安そうな顔でやってきた。彼の全身は、相変わらずあの冷たい銀灰色に包まれている。僕は震える声で、単刀直入に切り出した。
「陽介…いや、お前は誰だ?」
彼の目が、驚きに見開かれた。
「湊、何を言ってるんだ? 俺だよ、陽介だ」
「嘘をつくな! お前の記憶は、どこに行ったんだ! 僕が知っている陽介は、温かい琥珀色をしていた。でも今のお前は、冷たい鉄みたいな色をしている。お前は、僕の知っている陽介じゃない!」
激情に駆られて叫ぶ僕を、陽介は悲しげな目で見つめていた。彼の周囲の銀灰色が、わずかに揺らぐ。やがて彼は、諦めたように深く息を吐き、静かに語り始めた。
「…やっぱり、湊には分かってしまうんだな」
その告白は、僕のどんな想像をも超える、衝撃的なものだった。
「半年ほど前、医者から告げられたんだ。進行性の記憶障害だって。特殊な病気で、新しい記憶から順番に、古い記憶へと遡って消えていく。治療法はない、と」
陽介は、淡々と、しかし一言一言を噛みしめるように続けた。
「最初は、昨日の夕食を忘れるくらいだった。でも、だんだん症状は重くなって、一週間前のこと、一ヶ月前のことが、まるで霧の中に消えるように分からなくなった。怖かったよ。自分が自分でなくなっていく感覚が。でも、一番怖かったのは…湊、君との記憶を失うことだった」
彼の声が震える。
「俺たちの記憶は、俺の人生そのものだったから。それを失ったら、俺はもう俺じゃない。だから…作ったんだ。俺の記憶のバックアップを」
「バックアップ…?」
「ああ。俺は、昔からつけていた日記、撮りためた写真、お前との会話の録音、SNSの記録…俺に関するあらゆるデータを、AIに学習させた。そして、俺の脳とリアルタイムで同期する、外部記憶システムを開発したんだ。俺が何かを思い出そうとすると、システムが瞬時に適切なデータを引き出して、俺に提示してくれる。俺が誰かと会話するときも、システムが文脈に合った過去の情報を補助してくれる。俺は、そのシステムのおかげで、『藤堂陽介』でいられるんだ」
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。じゃあ、僕が見ているこの銀灰色は…。
「そうだ。湊が見ているその色は、たぶん…AIが生成した『人工の記憶』の色なんだ。俺自身の、本物の記憶…湊が言ってくれた琥珀色の記憶は、もうほとんど残っていない。だから、俺はもう…君の知っている陽介じゃないのかもしれない」
テセウスの船。哲学の授業で習った思考実験が、頭をよぎった。部品を一つずつ交換していき、すべての部品が入れ替わった船は、果たして元の船と同じものと言えるのか。
記憶という部品をすべてAIに置き換えられた陽介は、果たして僕の親友の陽介と言えるのか。僕が愛した友情は、本物の記憶ではなく、それを模倣したデータとの間に結ばれた、虚構の関係だったというのか。
足元の地面が、ガラガラと崩れ落ちていくようだった。
第四章 二人のためのソナタ
世界から音が消えたようだった。夕暮れの風の音も、遠くで響く電車の音も聞こえない。ただ、目の前に立つ銀灰色の親友の姿だけが、網膜に焼き付いていた。絶望と混乱の中で、僕の思考はぐるぐると同じ場所を回り続けた。
偽物だ。僕がこの一ヶ月間、疑い、恐れていた通り、彼は僕の知る陽介ではなかった。彼を構成していたはずの琥珀色の記憶は、もう存在しない。僕が安らぎを感じていたあの温かい色は、失われた過去の幻影に過ぎなかったのだ。
だが、本当にそうだろうか。
俯く彼の、震える肩が見えた。彼が、どれほどの恐怖と孤独の中で、この決断をしたのだろう。自分が自分でなくなっていくという、想像を絶する恐怖。その中で、彼が何よりも守りたかったもの。それは、「僕との友情」そのものではなかったか。
記憶を失っても、僕の親友であり続けたい。その一心で、彼は自分自身をデータに置き換えるという、途方もない選択をしたのだ。それは、陽介が陽介であろうとする、悲痛なまでの「意志」の表れだった。
その時、僕は悟った。
友情とは、過去の記憶の共有だけで成り立つものではないのかもしれない。もちろん、積み重ねた時間は大切だ。琥珀色の記憶は、僕たちの宝物だ。しかし、それ以上に大切なのは、今、この瞬間に、相手を想い、未来に向かって共にあろうとする、その意志ではないのか。
記憶の色に囚われていたのは、僕の方だった。僕は、陽介という人間そのものではなく、「琥珀色の記憶」という過去の象徴に安らぎを求めていただけなのかもしれない。僕はこの能力のせいで、人の本質を見誤っていた。
僕はゆっくりと顔を上げた。そして、銀灰色に染まった陽介を、まっすぐに見つめた。
「陽介」
僕が彼の名を呼ぶと、彼はびくりと体を震わせた。
「お前の記憶が、何色だって構わない。それがデータだろうがAIだろうが、どうでもいい。俺は、今ここにいるお前と、これからも友達でいたい」
陽介の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。彼の周りを覆う銀灰色のオーラが、まるで安堵したかのように、ふわりと柔らかく揺らめいた。
「…ありがとう、湊」
その声は、僕の知っている陽介の声だった。
僕たちは、それからどちらからともなく歩き出し、並んで河川敷の土手に腰を下ろした。夕日はほとんど沈みかけ、空と川面を幻想的なグラデーションに染めている。僕たちは、以前のようにくだらない話をした。新しくできたラーメン屋の話や、次の休みの計画。その会話は、相変わらずAIによって補助されているのかもしれない。でも、もう僕にはどうでもよかった。僕の隣で笑っているのは、紛れもなく僕の親友、藤堂陽介だったからだ。
ふと、彼のオーラに目を向けた時、僕は息を呑んだ。冷たく均質だったはずの銀灰色の中に、ごく微かに、しかし確かに、砂金のような琥珀色の光が、きらり、と瞬いたのだ。
それは、失われた記憶の残滓か。それとも、今この瞬間に生まれた、僕と彼の新しい思い出の萌芽か。
確かめる術はない。でも、それでいいと思った。
僕たちは、新しい形の友情を、今ここから、もう一度築いていくのだ。記憶の色に惑わされることなく、互いの心を、意志を見つめながら。人の本質とは、過去の集積ではなく、未来へ向かう今の眼差しの中に宿るのかもしれない。そんなことを考えながら、僕は隣にいる親友の肩に、そっと自分の肩を寄せた。銀灰色と僕自身の透明なオーラが混じり合う空の下で、僕たちのための新しいソナタが、静かに奏でられ始めていた。