第一章 空白のカンヴァス
古書の黴とインクが混じり合った独特の匂いが、僕の世界のすべてだった。神保町の裏路地にひっそりと佇む『月読堂』。その店主である祖父から店を継いで三年、高槻蓮(たかつきれん)、二十八歳の僕の毎日は、埃をかぶった物語のページをめくるように、静かに、そして単調に過ぎていくはずだった。
あの日までは。
湿った夏の空気が店内に流れ込んだ午後、郵便配達員が置いていった束の中に、それはあった。褪せた海の色をした一枚の絵葉書。そこに踊る、見間違えようのない奔放な筆跡。五年前にぷっつりと音信を絶った、唯一無二の親友、相葉陽介(あいばようすけ)からだった。
『蓮へ。
俺の最高傑作が、もうすぐ完成する。
お前にだけは、一番に見てほしい。
金曜の夜、いつものアトリエで待ってる。
陽介』
心臓が、錆びついたブリキの玩具のように軋みながら脈打った。「いつものアトリエ」とは、彼が街を出る前に使っていた、川沿いの古い倉庫のことだ。僕と陽介。内向的で本の虫の僕と、太陽のように人を惹きつける天性の画家。正反対の僕たちは、なぜか互いに引かれ合い、青春時代のほとんどを共に過ごした。彼が描く世界の最初の観客は、いつも僕だった。
金曜の夜、僕は逸る気持ちを抑えながら、埃っぽい階段を上った。軋むドアを開けると、テレピン油の懐かしい匂いが鼻をつく。しかし、そこに陽介の姿はなかった。がらんとしたアトリエの中央、イーゼルに立てかけられていたのは、息を呑むほど巨大な一枚のカンヴァス。
それは、僕たちが共に見た風景の断片で埋め尽くされていた。子供の頃に忍び込んだ神社の鬱蒼とした緑、高校の屋上から見下ろした夕焼けの街、僕が彼に語った物語に出てくる架空の森。陽介の力強い筆致が、記憶の中の色彩を、より鮮やかに、より切実に描き出している。紛れもなく、彼の最高傑作だった。
ただ、一つだけ奇妙な点を除いては。
カンヴァスの中心、最も重要なはずの場所が、ぽっかりと、下塗りのままの空白で残されていたのだ。それは、まるで心臓をえぐり取られたかのような、痛々しいほどの空虚さだった。
床には、一枚のメモが落ちていた。
『あとは、お前が見つけてくれ』
その短い言葉が、僕の足元から世界を崩していくような、不吉な予感を孕んでいた。陽介はどこに消えたのか。なぜ、最高傑作は未完成のままなのか。そして、僕に何を見つけろというのか。謎だけが、絵の具の匂いと共に、がらんどうのアトリエに満ちていた。
第二章 色彩の追憶
陽介の行方は杳として知れなかった。警察に相談しても、成人男性の自発的な失踪として、すぐには動けないと言われるだけ。僕は途方に暮れ、アトリエの隅で彼のスケッチブックを見つけた。ページをめくると、そこは僕と陽介の時間の化石だった。
スケッチブックには、無数のデッサンと共に、陽介のメモが書き込まれていた。『蓮が言っていた。「星は、死んだ過去の光だ」。面白い』『蓮の横顔。本の影が落ちて、まるで別の世界の住人みたいだ』。僕は驚きに目を見張った。僕が何気なく口にした言葉、僕の些細な仕草。それらが、陽介の創作の源泉になっていたことを、僕は初めて知った。僕はただ、彼の才能の光を一方的に浴びているだけだと思っていた。彼にとって、僕もまた、光であったのかもしれない。その事実に、胸が締め付けられた。
スケッチブックの後半は、僕の知らない風景で埋まっていた。荒々しい波が打ち寄せる北の海岸、寂れた港町。メモには『コバルトブルーに、絶望と希望を一滴ずつ』とある。僕はいてもたってもいられず、月読堂を臨時休業にし、その港町へと向かう列車に飛び乗った。
数日後、たどり着いたその町は、潮風がひゅうひゅうと鳴る、寂しい場所だった。聞き込みをすると、陽介のことを覚えているという民宿の老婆に出会えた。
「ああ、あの絵描きの兄ちゃんかい。ひと月ほど前に、ここの離れに泊まってたよ」
老婆は、皺だらけの顔で遠くを見つめた。
「毎朝、崖っぷちにイーゼルを立ててね。咳き込みながら、それでも憑かれたように描いてた。楽しそうだったよ。まるで、命の残りを全部、その絵に叩きつけてるみたいにね」
命の残り。その言葉が、僕の心に冷たい棘のように突き刺さった。陽介は、ただ旅をしていたのではなかった。彼は何かから逃げるように、あるいは何かを追い詰めるように、最期の力を振り絞っていたのではないか。スケッチブックを追う僕の旅は、いつしか陽介の魂の軌跡を辿る、巡礼のようなものに変わっていた。
第三章 最後の一筆
スケッチブックの最後のページ。そこに挟まっていたのは、古びた灯台の写真だった。僕たちの秘密基地。子供の頃、二人で宇宙船だと呼び、将来の夢を語り合った場所だ。写真の裏には、走り書きがあった。『始まりの場所で、答えを』。
僕は錆びた螺旋階段を駆け上った。灯台の頂上、灯室の床板に、僕たちだけが知る隠し場所がある。震える手で板を外すと、そこには、丁寧に布で包まれた木箱が置かれていた。中に入っていたのは、真新しい絵の具セットと、一通の手紙だった。陽介の、あの文字だった。
『蓮へ。
この手紙を読んでいるってことは、お前はちゃんとここまでたどり着いてくれたんだな。ありがとう。
驚かせるなよ。俺はもう、この世にはいない。
医者には、とっくに言われてたんだ。脳に厄介な腫瘍ができてて、もう長くはないって。だから、街を出た。お前の前で、みじめに弱っていく姿を見せたくなかった。勝手だよな。ごめん。
俺は最後の時間を使って、お前とのすべてを一枚の絵に描くことにした。お前がくれた言葉、お前と見た景色、お前と分かち合った感情。それらすべてが、俺の人生そのものだったから。
でも、どうしても、最後の中心だけが描けなかった。
未来を描く力が、もう俺には残っていなかったんだ。
だから蓮、お前に託したい。
あの絵の最後の空白を、お前が完成させてくれ。
お前の色で。お前がこれから見ていく世界、お前がこれから紡いでいく物語の色で、あの絵を満たしてほしい。
俺はお前の影なんかじゃなかった。お前がいたから、俺は描くことができた。お前は、俺の光だったんだ。
だから、今度はお前が、自分の足で歩いていくんだ。俺の絵を、お前の未来への第一歩にしてくれ。それが、俺たちの友情の、最後の共同作業だ。
じゃあな、最高の友よ。
陽介』
手紙を握りしめたまま、僕はその場に崩れ落ちた。涙が後から後から溢れて、止まらなかった。失踪じゃなかった。病。死。そして、託された絵。陽介が遺したもののあまりの重さと、あまりの優しさに、僕の心は張り裂けそうだった。彼は、僕が彼の影として生きるのではなく、僕自身の光を生きることを、最後の力で願ってくれていたのだ。
第四章 僕らの夜明け
アトリエに戻った僕は、空白のカンヴァスの前に、ただ立ち尽くしていた。陽介の最高傑作。僕が、これを完成させる? 無理だ。僕にはそんな資格も、才能もない。彼の完璧な世界を、僕が汚してしまう。恐怖と無力感が、鉛のように僕の体を縛り付けた。
何日も、何日も、僕は絵と向き合った。陽介との記憶が、映画のように頭を駆け巡る。彼が笑った顔。怒った顔。そして、民宿の老婆が語った、命を削って絵筆を握る彼の姿。陽介は、僕に未来を託した。僕が立ち止まることは、彼の最後の願いを裏切ることになる。
ある朝、眠れぬまま夜を明かした僕の目に、窓から差し込む光が飛び込んできた。暗い藍色の空を、金色と柔らかな薔薇色がゆっくりと侵食していく。夜が終わり、新しい一日が生まれる瞬間。絶望の果てにある、静かで、しかし力強い希望の光。
――これだ。
僕は、陽介が遺した絵の具セットを手に取った。震える手でパレットに色を出す。白、黄、赤、そしてほんの少しの青。僕は、特定の何かを描こうとは思わなかった。僕が描くべきは、風景でも、物でもない。僕自身の心の色。陽介という巨大な光を失った喪失感と、それでも彼が遺してくれた希望を胸に、これから生きていこうとする、僕自身の魂の色だ。
僕は、カンヴァスの中心の空白に、そっと筆を下ろした。色を重ね、滲ませ、光を編み上げていく。それは、悲しみのように深く、祈りのように静かで、そして夜明けのように確かな温もりを持つ光だった。
数年後。
とあるギャラリーの一角に、その絵は飾られている。『夜明け』と名付けられたその作品は、多くの人の足を止めさせ、静かな感動を呼んでいた。
僕は今も、古書店『月読堂』の店主だ。時々、店の片隅で小さな絵を描いている。陽介のように、誰かを圧倒するような絵は描けない。でも、僕だけの色で、僕だけの物語を描いている。
僕は、ギャラリーの絵を見上げる。カンヴァスの中央で輝く光は、あの日僕が描いたものだが、もはや僕だけのものではなかった。それは陽介の情熱と、僕の決意が溶け合った、僕たちの友情そのものの色をしていた。
「見てるか、陽介」
心の中で呟く。
「僕たちの絵、なかなかいいだろ?」
答えはない。だが、カンヴァスの光が、ほんの少しだけ強く輝いたような気がした。僕はもう、誰かの影ではない。友が遺してくれた光を道標に、自分の足で、朝の光の中を歩いていく。