空白のプレイリスト

空白のプレイリスト

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第一章 色褪せたメロディ

彼女が僕の世界からいなくなったのは、金木犀の香りが街の隅々まで染み渡る、ある晴れた秋の日のことだった。

僕、水野航(みずの わたる)の日常は、佐伯美咲(さえき みさき)という太陽を中心に回っていた。レコード店で働く僕の少しばかり埃っぽい生活に、フラワーデザイナーである彼女はいつも鮮やかな色彩と優しい光を運んできてくれた。二人で暮らすアパートの小さなリビングには、僕が選んだ古いジャズのレコードと、彼女が生けた季節の花が、当たり前のように同居していた。休日の朝は、豆を挽く音とコーヒーの香りで始まる。彼女は僕の淹れる少し苦いコーヒーが好きだと言い、僕は彼女が作る不格好な卵焼きを世界一だと信じていた。それが僕たちの世界のすべてだった。

その日、彼女は自転車で仕入れ先に向かう途中、脇道から出てきた車にはねられた。知らせを受けて病院に駆けつけた僕の目に映ったのは、白いシーツの上で静かに眠る、血の気の失せた美咲の顔だった。心臓が氷の塊になったように冷え、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。

幸い、命に別状はなかった。数時間後、彼女はゆっくりと目を開けた。僕は安堵のあまり、涙で歪む視界のまま、彼女の手を強く握りしめた。「美咲、よかった……本当に、よかった」

しかし、僕を見つめる彼女の瞳には、見覚えのない色が浮かんでいた。それは戸惑いと、かすかな怯え。まるで、見知らぬ人間を見るような、そんな目だった。彼女はか細い声で、僕の幸福な世界を粉々にする一言を紡いだ。

「……あの、どちら様、ですか?」

時が止まった。医師の冷静な声が、遠いどこかから響いてくる。「局所的な逆行性健忘です。事故のショックで、特定の人物に関する記憶だけが抜け落ちてしまう稀なケースでして……」。僕に関する記憶だけが、彼女の世界から綺麗さっぱり消去されてしまったのだという。

僕たちの愛を証明するものは、部屋の隅々に溢れているはずだった。二人で揃えたマグカップ、並んで眠るベッド、何度も繰り返し聴いたレコード。だが、記憶という名の鍵を失った彼女にとって、それらはすべて意味をなさないガラクタに過ぎなかった。僕という存在そのものが、彼女の中で空白になってしまった。金木犀の甘い香りが、その日を境に、ただひたすらに悲しい匂いへと変わってしまった。

第二章 二人で聴いたはずの歌

退院した美咲は、戸惑う彼女を心配した両親の元へ身を寄せることになった。僕たちの住んでいたアパートは、主を失ってがらんとしている。彼女のいない部屋は、まるで音の消えたコンサートホールのように静まり返っていた。

僕は諦めきれなかった。医者は「記憶が戻る可能性は五分五分だ」と言った。ならば、僕がそのきっかけを作ればいい。僕は失われた僕たちの時間を、もう一度彼女の中に再構築しようと必死になった。

まず、初めてデートした海辺のカフェに連れて行った。夕陽が水平線に溶けていく美しい景色を前に、僕はあの日のことを語った。「ここで君は、緊張してクリームソーダをこぼしたんだよ。真っ白なワンピースに緑色のシミができて、泣きそうな顔をしていた」。美咲は困ったように微笑むだけだった。

次に、彼女の誕生日に贈ったネックレスをプレゼントした。「これを渡した時、君は世界で一番幸せだって言ってくれた」。彼女は「綺麗ですね」と礼儀正しく受け取ったが、その瞳に昔のような輝きは宿らなかった。

最後の望みは、僕たちの関係そのものだった「音楽」に託した。僕たちは、言葉以上に音楽で会話する恋人同士だった。嬉しい時には軽快なスウィング・ジャズを、悲しい時には心に寄り添うブルースを。僕は、二人の思い出の曲を片っ端から集めて、一本のプレイリストを作った。初めてのキスをした夜に流れていたビル・エヴァンスの『Waltz for Debby』、喧嘩した後に仲直りのきっかけをくれたノラ・ジョーンズの『Don't Know Why』……。

「これを聴けば、きっと何か思い出せるはずだ」

僕は震える手でスマートフォンを彼女に手渡した。美咲はイヤホンを耳に入れ、静かに目を閉じる。僕は祈るような気持ちで彼女の表情を見つめた。一曲、また一曲とメロディが流れていく。しかし、彼女の眉間に刻まれるのは、期待したような懐かしさではなく、深い苦悩の皺だった。

やがて彼女はイヤホンを外し、僕に突き返した。その声は、押し殺したような響きを帯びていた。

「ごめんなさい……何も、思い出せない」

そして、続けた言葉が僕の心を抉った。

「水野さんのその期待が……思い出せない私を、責めているように聞こえるんです。苦しいんです」

僕が良かれと思ってしてきた全てのことが、記憶のない彼女をただ追い詰めるだけの行為だったのだ。僕の愛は、彼女にとって重荷でしかなかった。その日から、僕は彼女に会いに行くことができなくなった。プレイリストは再生されることなく、僕のスマートフォンの中で沈黙を続けた。

第三章 空白の五線譜

季節は移ろい、街路樹が裸の枝を空に伸ばす冬の初め。僕が絶望の底で日々をやり過ごしていた頃、美咲の母親から電話があった。「航くん、一度、家に来てくれないかしら。美咲がいない時に」

訪ねて行った僕に、彼女の母親は一冊のノートを差し出した。表紙には『My Diary』と、美咲の丸い文字で書かれている。

「あの子の部屋を片付けていたら、これが見つかって。事故に遭う少し前からつけていたみたい。……あなたのことが書いてある。読んであげて」

躊躇う僕に、母親は静かに言った。「あの子を本当に理解したいなら、読んであげてちょうだい」。僕はそのノートをアパートに持ち帰り、震える手でページをめくった。

そこに綴られていたのは、僕の全く知らない美咲の心の叫びだった。

『九月十五日。航くんが、また珍しいレコードを買ってきた。彼は本当に音楽を愛している。そして、私を愛してくれている。分かっている。でも時々、彼の愛は綺麗なガラスケースみたいに感じる。その中で、私は完璧な標本でいなければいけないような気がして、息が詰まりそうになる』

『九月二十八日。今日は些細なことで喧嘩をした。原因は、私が彼の好きな監督の映画を好きになれなかったこと。彼は悲しそうな顔をした。「美咲も好きだと思ったのに」と。違う。私は、航くんが好きな私を演じているだけ。本当の私は、もっと我儘で、ぐちゃぐちゃで、可愛くない人間なのに』

『十月十日。もう限界かもしれない。彼の隣で笑うたびに、心がすり減っていく。彼のくれる愛情は深くて、温かい。でも、それは私が作り上げた虚像に向けられたものだ。本当の私を見せたら、彼はきっと幻滅する。がっかりさせてしまうのが怖い』

そして、事故の前日に書かれた最後の日記。

『十月十六日。決めた。明日、航くんに別れを告げよう。これ以上、嘘を重ねるのは辛い。彼を傷つけることになる。でも、私ももう一度、本当の自分で呼吸がしたい。ごめんなさい、航くん。あなたを愛せなくて、ごめんなさい』

ページを持つ手が、震えで止まらなかった。涙が次々とノートの上に落ち、インクを滲ませていく。

そうか。彼女は、僕から逃げようとしていたのか。僕の愛は、彼女を幸せにするどころか、見えない鎖となって彼女を縛り付けていたのだ。僕が必死で取り戻そうとしていた輝かしい思い出は、彼女にとっては息苦しいだけの偽りの日々だったのかもしれない。

だとしたら、あの事故は? 記憶の喪失は? それは彼女にとって、罰などではなく、むしろ檻からの「解放」だったのではないか。

僕は自分の愚かさに打ちのめされた。僕が愛していたのは、美咲そのものではなく、僕の理想を投影した「僕を愛してくれる美咲」という偶像だったのだ。記憶を取り戻すことは、彼女を再びあの苦しい檻の中へ引き戻すことに他ならない。

僕の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。そして、崩れ落ちた瓦礫の中から、一つの小さな決意が芽生えた。

第四章 新しいプレリュード

僕は、美咲に会いに行った。これが最後だと心に決めて。

実家の縁側で日向ぼっこをしていた彼女は、僕の姿を認めると、少し驚いたように、そして困ったように目を伏せた。

「ごめん。今日は、謝りに来たんだ」

僕は深呼吸をして、言葉を続けた。

「君を、ずっと苦しめていた。僕の独りよがりな愛情で、君を縛り付けていた。本当に、ごめん」

美咲は驚いて顔を上げた。彼女の瞳が、なぜ?と問いかけている。

「もう、思い出さなくていい。僕のことも、僕たちに起きたことも、全部忘れていいんだ。君は、君のままで、幸せになってほしい」

僕はスマートフォンの画面を彼女に見せた。そこには、僕が魂を込めて作った『二人のプレイリスト』が表示されている。僕は彼女の目の前で、そのプレイリストを躊躇なく削除した。

「これで、おしまいだ」

僕がそう言って微笑むと、美咲の大きな瞳から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。記憶はないはずなのに、彼女は泣いていた。それは悲しみの涙ではなく、どこか安堵したような、温かい涙に見えた。

それから数ヶ月が過ぎ、季節は春を迎えていた。

僕は変わらずレコード店で働いている。あの日以来、美咲とは会っていない。心の痛みはまだ残っているが、不思議と清々しい気持ちもあった。

ある日の午後。店のドアベルが軽やかな音を立て、一人の女性が入ってきた。柔らかな春の日差しを背負ったその姿に、僕は息を呑んだ。美咲だった。

彼女は店内を興味深そうに眺め、やがて僕のいるカウンターにやってきた。僕の心臓が大きく脈打つ。

「あの……何か、おすすめのレコードはありますか?」

彼女の声は、僕を全く知らない他人に向けられたものだった。でも、その表情は、僕が知っていた「理想の彼女」の完璧な笑顔ではなかった。少しはにかんだような、ぎこちない、でも嘘のない自然な微笑み。僕が初めて見る、本当の彼女の笑顔だったのかもしれない。

込み上げてくる感情を抑え、僕は精一杯の笑顔を返した。そして、棚から一枚のレコードを抜き取る。新しい才能と評判の、若きピアニストのデビューアルバムだ。

「この曲、きっと気に入ると思います」

僕はレコードジャケットを彼女に手渡しながら言った。

「これから始まる、新しい物語のプレリュード(前奏曲)に、どうですか」

僕の言葉に、彼女はきょとんとした後、花がほころぶように笑った。その笑顔は、僕たちの空白になった過去ではなく、まだ何も描かれていない未来を、確かに照らしていた。僕たちの物語は終わった。そして今、ここから、全く新しいメロディが始まろうとしている。

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