第一章 玻璃の残響
リヒトの世界は、埃と静寂、そして儚い音で満ちていた。街の片隅に佇む古道具屋『時の迷宮』。その薄暗い地下室が、彼の仕事場であり、彼の孤独な王国だった。リヒトには、音を形にする力があった。指を弾けば、その残響が光の粒子となって舞い、口笛を吹けば、旋律が虹色のリボンのように宙を泳ぐ。しかし、その魔法はあまりに脆かった。彼が生み出す音の彫刻は、どんなに心を込めても、数秒、長くても数分で空気の中に溶け、跡形もなく消え去ってしまうのだ。
「またか……」
リヒトは溜め息をついた。今しがた紡いだばかりの、夜啼鳥(ナイチンゲール)のさえずりを模した銀色の鳥が、最後のきらめきを放って霧散したところだった。永遠に触れたい。消えないものを、この手で生み出してみたい。その渇望が、彼の胸にはいつも澱のように溜まっていた。祖父から受け継いだこの店も、埃を被ったガラクタも、すべてが過去の遺物として「存在」し続けているというのに、自分の力だけが、刹那の慰めにしかならない。その無力感が、十八歳になった彼を静かに苛んでいた。
その夜、事件は起きた。
激しい雨が店の屋根を叩く音を聞きながら、リヒトはいつものように地下室で音を紡いでいた。雨垂れの音を拾い、それを小さな水晶の玉に変えては、床に落ちて砕ける様子を虚ろに眺めていた。その時、階上から微かな物音が聞こえた。警戒しながら階段を上ると、店の隅、客用の古びたソファに、小さな人影が丸くなっているのが見えた。ずぶ濡れの少女だった。歳の頃はリヒトと同じくらいだろうか。色素の薄い髪が月明かりに濡れ、長いまつ毛が震えている。どうやら雨宿りのつもりで忍び込み、そのまま眠ってしまったらしい。
呆れとわずかな同情が入り混じった感情で、リヒトは彼女に毛布をかけようと近づいた。その時だった。少女の唇から、寝息とも歌ともつかない、澄んだ音が吐息のように漏れたのだ。
それは、たった一音。鈴を転がしたような、清らかで、どこか懐かしい響き。
その瞬間、リヒトの目の前で信じられない光景が広がった。少女の吐息から生まれた音が、淡い青色の光を放ちながらゆっくりと形を結び始めたのだ。それはみるみるうちに精巧な花びらとなり、繊細な茎を伸ばし、一輪の、まるで玻璃(ガラス)でできたかのような睡蓮の花となって、静かに空間に咲いた。
リヒトは息を呑んだ。彼の力が介在したわけではない。なのに、音は形を成した。そして何より、その花は――消えなかった。まるで時が止まったかのように、青い光を宿したまま、静かにそこに在り続けた。
リヒトは、まるで聖遺物に触れるかのように、そっとその花に指を伸ばした。ひんやりとした感触。確かな存在感。彼は眠る少女の顔と、宙に浮かぶ奇跡の花を、何度も見比べた。少女は身じろぎもせず、静かな寝息を立てているだけだった。彼女は、一体何者なのだ? なぜ、彼女の音は、永遠の形を留めることができるのだろう?
リヒトの世界を支配していた静寂は、その夜、玻璃の残響によって打ち破られた。それは、彼の運命が根底から覆される、始まりの音だった。
第二章 沈黙のデュエット
翌朝、少女は目を覚ましたが、ひどく怯え、何も語らなかった。いや、語れなかった。彼女は、自分の名前さえ覚えておらず、声を出すこともできなかったのだ。リヒトの祖父は、行き場のない彼女を不憫に思い、「アリア」という名を与え、しばらく店に置くことを許した。
アリアは、まるで影のように静かだった。ただ、リヒトが地下室で音を紡ぐ時だけ、彼女はそばに寄り添い、その様子をじっと見つめた。彼女の灰色の瞳は、感情の読めない湖面のようだったが、リヒトが生み出す儚い彫刻が生まれては消える様に、わずかな悲しみが宿るのを、リヒトは見逃さなかった。
ある日、リヒトは思い立って、あの夜に生まれた玻璃の睡蓮を彼女の前に差し出した。アリアは驚いたように目を見張り、おそるおそるその花に触れた。その瞬間、彼女の表情が微かに和らぎ、瞳の奥に温かい光が灯ったように見えた。
その日から、二人の奇妙な対話が始まった。リヒトはアリアのために、様々な音を紡いだ。市場の賑わい、教会の鐘の音、風が窓を揺らす音、猫のあくび。それらは相変わらずすぐに消えてしまうものだったが、アリアは一つ一つを愛おしそうに見つめ、そのたびに少しずつ人間らしい表情を取り戻していった。
そしてリヒトは気づいた。アリアは声を出せないのではない。彼女は、心の中で歌っているのだ。リヒトが集中すると、彼の脳裏に、言葉にならない旋律が流れ込んでくることがあった。それはアリアの心から響く、沈黙の歌だった。リヒトはそのメロディを拾い上げ、指先から光の音符として解き放った。すると、音符たちは生き物のように踊り、アリアの周りを飛び回った。アリアは、生まれて初めて心から笑ったように見えた。
それは、言葉を必要としない、二人だけのデュエットだった。リヒトは、自分の力を初めて価値あるものだと感じた。消えゆく儚さの中にこそ、分かち合う瞬間の美しさがある。永遠を渇望していたはずの心が、アリアと過ごす「今」という刹那で満たされていくのを感じていた。彼の生み出す音の彫刻は、日増しに輝きと精巧さを増していった。それは、アリアという存在が、彼の孤独な王国に差し込んだ、一条の光だったからだ。
第三章 忘れられた言葉の代償
アリアとの日々は、リヒトの世界を彩り豊かに変えた。彼女の存在は日に日に鮮明になり、以前の影のような面影は消えつつあった。彼女は笑い、時には拗ねたような表情も見せるようになった。その変化をリヒトは心から喜んでいた。
だが、光が強まれば、影もまた濃くなる。リヒトは自身の内に、奇妙な異変が起きていることに気づき始めていた。それは、記憶の欠落だった。最初は些細なことだった。昨日食べた夕食が思い出せない。先週読んだ本のタイトルが靄の中に霞む。だが、それは徐々に深刻さを増していった。幼い頃に遊んだ友人の顔が、ぼやけて思い出せない。亡くなった両親との大切な思い出が、まるで他人事のように感じられる。彼の過去が、少しずつ、静かに侵食されているかのような、底知れぬ不安。
その不安が確信に変わったのは、祖父が店の書庫の奥から、一冊の古びた書物を見つけ出してきた時だった。羊皮紙に書かれたその本には、「響霊(エコー)」と呼ばれる、古の存在についての記述があった。
「リヒト、よく聞け」祖父は、いつになく厳しい声で言った。「エコーとは、忘れられた人々の思い、失われた言葉、歌われなくなった歌が集まって生まれる精霊のようなものだ。それ自体は実体を持たない、ただの残響にすぎん。だが、稀に、強い『魂』を持つ者と結びつくことで、仮初めの肉体を得ることがある」
祖父の指さす先には、エコーが実体化する際の、恐ろしい代償が記されていた。
「エコーは、宿主の『記憶』を糧とする。宿主がエコーを愛しく思い、その存在を強く願えば願うほど、エコーは鮮明な存在となる。その代償として、宿主は自らの記憶を――最も鮮烈で、最も大切な記憶から順に、エコーに喰われていくのだ」
リヒトは血の気が引くのを感じた。頭を鈍器で殴られたような衝撃。では、アリアは? 自分が彼女のために紡いできた美しい音の彫刻は?
「お前の力は、音を形にするだけのものではなかったんじゃ」祖父の声が、遠くで響く。「お前は、自らの記憶を音のエネルギーに変換し、それをアリアに与えていたんだ。お前が作った美しい鳥や花は…お前が失った、思い出の結晶そのものだったんじゃよ」
リヒトは愕然とした。アリアの笑顔が鮮やかになるたびに、自分の過去が失われていた。彼女の存在を肯定することは、自分自身の存在を否定することと同義だった。あの玻璃の睡蓮は、一体、自分のどんな大切な記憶から生まれてきたのだろう。
地下室へ駆け下りると、アリアがそこにいた。彼女は、リヒトが昨日作ったばかりの、光り輝くオルゴールを大事そうに抱きしめていた。そのオルゴールが奏でるメロディは、リヒトの母親が歌ってくれた子守唄だったはずだ。しかし、今のリヒトには、そのメロディがなぜ懐かしいのか、もう分からなかった。
アリアが心配そうにこちらを見つめている。その澄んだ瞳に、リヒトは自分の価値観が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。愛しいと思っていた存在が、自分を蝕むものだったという残酷な真実。彼の世界は、再び深い絶望の闇に突き落とされた。
第四章 最後のフーガ
選択の時は、静かに、しかし抗いようもなく訪れた。祖父によれば、アリアとの繋がりを断ち切れば、失われた記憶は徐々に戻ってくるかもしれないという。それは、アリアという存在の消滅を意味した。彼女を忘れられた言葉の残響へと還すのか。それとも、自分が何者であるかすら忘れ果てるまで、記憶を捧げ続けるのか。
リヒトは数日間、アリアを避けた。彼の苦悩を察したのか、アリアはただ静かに、傷ついた小動物のように部屋の隅でうずくまっていた。その姿を見るたびに、リヒトの心は引き裂かれそうになった。
ある夜、リヒトは決意を固め、地下室へ向かった。そこには、やはりアリアがいた。彼女はリヒトを見ると、悲しげに首を横に振った。まるで、もういいのだと、自分を解放してほしいと訴えかけているかのようだった。
「違うよ、アリア」リヒトは、掠れた声で初めて彼女に語りかけた。「君が悪いんじゃない。僕が、君と一緒にいたかったんだ。君と出会って、僕の世界は初めて色を持った。たとえそれが、僕の記憶と引き換えだったとしても、後悔なんてしていない」
彼は震える指先で、音を紡ぎ始めた。それは、これまでで最も複雑で、最も美しい旋律だった。複数のメロディが、追いかけ合い、絡み合い、そして高め合っていく、荘厳なフーガ(遁走曲)。
その音は、彼に残された、最後の、そして最も大切な記憶から生まれていた。アリアと出会った夜のこと。彼女が初めて見せたはにかむような笑顔。二人で交わした沈黙のデュエット。彼のすべてだった、幸福な日々の記憶が、一つ、また一つと音の光に変換され、アリアの周りを舞い始める。
失われていく。アリアという少女の名前も、彼女の顔も、共に過ごした温かい時間も、自分の内側から剥がれ落ちていく感覚。涙が頬を伝う。だが、リヒトは指を止めなかった。これは、自己犠牲ではない。これは、彼が彼女に贈ることのできる、唯一にして永遠の愛の証明だった。
フーガがクライマックスに達した瞬間、すべての光が一つの巨大な彫刻へと収束した。それは、翼を広げたアリア自身の姿をしていた。彼女は、リヒトが生み出した光の彫刻の中で、初めて彼に向かってはっきりと、そして穏やかに微笑んだ。ありがとう、とでも言うように。
次の瞬間、彫刻はまばゆい光を放って弾け、無数の光の粒子となって部屋中に降り注いだ。光が収まった時、そこにアリアの姿はもうなかった。
リヒトは、その場に立ち尽くしていた。胸に、ぽっかりと大きな穴が空いている。なぜ自分はここにいるのだろう。なぜ、こんなにも胸が痛むのだろう。なぜ、頬を涙が伝っているのだろう。彼には、もう何も分からなかった。
彼の記憶から、アリアという少女は完全に消え去った。
しかし、彼の心の奥底には、説明のつかない温かい感情と、一つの美しい旋律だけが、奇跡のように残っていた。
古道具屋『時の迷宮』の地下室で、青年は今日も音を紡ぐ。彼が生み出す音の彫刻は、相変わらずすぐに消えてしまう儚いものだ。だが、その作品は以前とは違い、どこか切なく、それでいて希望に満ちた輝きを放っている。彼は、時折、自分がなぜか知っている美しい旋律を口ずさむ。そのたびに胸が締め付けられる理由を知らないまま、彼は失われた記憶の残響を、愛のフーガを、永遠に紡ぎ続けるのだった。