追憶を喰らう夢、世界が愛した嘘

追憶を喰らう夢、世界が愛した嘘

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第一章 砂の記憶と消えた日記

リアンが朝、目を覚ますと、いつもと同じく頬に涙の跡が乾いていた。理由は分からない。ただ、胸の奥に広がる途方もない喪失感が、毎朝彼を出迎えるのだ。彼は首都の歴史記録院で働く、しがない書記官だった。インクと古紙の匂いに満ちた静かな日々。だが、その日常には奇妙な亀裂が入り始めていた。

きっかけは、彼が几帳面に付けている日記だった。昨夜書いたはずのページが、まるで最初から存在しなかったかのように空白になっている。最初は気のせいだと思った。疲れているのだろう、と。しかし、それが三日も続くと、もはや偶然では片付けられない。自分の記憶そのものが、夜の間に誰かに盗まれているような、肌寒い感覚があった。

そして今朝は、決定的な異変が起きていた。枕元に、きめ細やかな白砂が微かに散らばっていたのだ。この石畳の都に、このような砂が存在する場所はない。リアンは震える指で砂を一粒つまみ上げた。その瞬間、脳裏に烈日の幻影が過る。灼けつくような太陽、乾いた風、そして遠い地平線に沈む巨大な双子の月。見たこともないはずの風景が、まるで昨日までそこにいたかのように、鮮明に思い出された。

「……夢か」

呟きは、書庫の静寂に吸い込まれた。彼は夢の内容をほとんど覚えていられない。ただ、目覚める直前に感じる、何かを成し遂げたという奇妙な達成感と、それと引き換えに何かを失ったという耐えがたい悲しみだけが、彼の心を掴んで離さない。

その日、歴史記録院の地下書庫で古文書の整理をしていたリアンは、埃を被った一冊の革綴じの本に引き寄せられた。『禁忌の御業、夢紡ぎの伝説』。ページをめくると、そこには信じがたい記述があった。

『世界に綻びが生じし時、夢見の子は現れる。その者は眠りの中で時の流れに分け入り、裂けた現実を紡ぎ直す。されど、偉大なる御業には代償が伴う。紡ぎ手は、世界を癒すたび、自らの魂の一部――すなわち、追憶を喰らわれるのだ』

リアンは息を呑んだ。追憶を、喰らわれる。空白の日記、曖昧になっていく親友との約束、そして日に日に薄れていく、亡き両親の顔。パズルのピースがはまるように、全てが繋がっていく。枕元の砂は、自分が夢の中で修復した、遥か彼方の砂漠の国の名残だったのではないか。

彼は書物を抱きしめた。これは呪いか、それとも祝福か。世界を救う力と引き換えに、自分自身が少しずつ消えていく。その日から、リアンにとって眠りは安らぎの時ではなく、自らの存在を賭けた、静かな戦いの始まりとなった。

第二章 夢紡ぎの代償

自分が「夢紡ぎ」であることを自覚してから、リアンの世界は一変した。昼間は歴史の記録者として古文書を読み解き、夜は歴史の修復者として夢の世界を彷徨う。彼の見る夢は、もはや個人的なものではなかった。それは、世界の悲鳴そのものだった。

ある夜、彼は極北の村にいた。記録では数十年前に雪崩で消えたはずの村が、夢の中では「綻び」によって、永遠に繰り返される吹雪に閉ざされていた。人々は凍え、飢え、希望を失っていた。リアンは、雪崩が起きる直前の時間へと意識を飛ばし、村人たちに山の危険を知らせる動物の奇妙な行動を「夢のお告げ」として村の長老に囁いた。歴史の大きな流れを変えず、最小限の介入で悲劇を回避する。それが夢紡ぎの流儀だった。

夜が明けると、彼の身体は鉛のように重かった。そして、気づく。幼い頃、冬の日に母が暖炉の前で作ってくれた、湯気の立つ甘いスープの記憶が、すっぽりと抜け落ちていたことに。味も、匂いも、その時の母の笑顔も、まるで厚い霧の向こう側にあるかのように思い出せない。胸にぽっかりと穴が空き、冷たい風が吹き抜ける。これが代償。誰かの温かさを取り戻すために、自分の温かい記憶を差し出す。

彼は恐怖した。このままでは、自分という人間を形成してきた全ての記憶が消え去ってしまうのではないか。友人たちと交わした無駄話。初めて本を読んで胸を高鳴らせた瞬間。父に肩車をしてもらった時の、空の高さ。それら全てが、世界の綻びを繕うための「糸」として消費されていく。

葛藤の日々が続いた。眠るのが怖かった。目を閉じれば、またどこかで助けを求める声が聞こえてくる。それを無視すれば、罪悪感が彼を苛む。彼は痩せ、目の下の隈は濃くなる一方だった。

そんな彼を心配し、声をかけてきたのは、同僚であり唯一の友人であるエリスだった。「リアン、最近顔色が悪いわ。何か悩みでもあるの?」彼女の澄んだ瞳が、彼の心の奥底を見透かすように揺れる。リアンは何も答えられない。自分が夢紡ぎであることなど、誰にも話せるはずがなかった。

「大丈夫だよ」と力なく笑う彼を見て、エリスは悲しそうな顔をした。その表情が、リアンの心を締め付ける。エリスと初めて出会った日の記憶。雨上がりの虹の下で、彼女が貸してくれた本の思い出。このかけがえのない記憶も、いつか次の綻びを修復するために消えてしまうのだろうか。その考えは、リアンにとって死そのものよりも恐ろしかった。彼は決意した。この力の根源を、そしてこの宿命から逃れる方法を探し出さねばならない、と。

第三章 綻びの深淵、始まりの悲しみ

リアンは、夢紡ぎに関するあらゆる文献を渉猟した。そして、ついに一つの記述に行き着く。「全ての綻びは、始まりの涙より生まれる」。彼はその意味を解き明かすため、次の眠りで意識的に夢の最も深い場所――世界の記憶が眠るという「深淵」を目指した。

彼が降り立った場所は、時間も空間も意味をなさない、光と闇が混じり合う混沌の世界だった。無数の記憶の結晶が、星々のように瞬いては消えていく。世界の誕生、文明の興亡、名もなき人々の愛と憎しみ。その奔流の中心に、巨大な綻びが口を開けていた。これまで修復してきたどの綻びとも比較にならない、世界そのものを飲み込もうとするほどの強大な亀裂。その亀裂から、底知れない悲しみの波動が溢れ出していた。

リアンは、引きずり込まれるように綻びの中へと身を投じた。そこで彼が見たのは、衝撃的な光景だった。

そこにいたのは、一人の女性だった。世界で最初の「夢紡ぎ」。彼女は、不治の病で愛する人を失った。その絶望はあまりに深く、彼女は自らの力を使って、愛する人が存在したという事実ごと、世界から消し去ろうとしたのだ。「彼がいない世界など、意味がない」と。

その行為が、世界の理に最初の「綻び」を生んだ。世界の綻びとは、自然現象などではなかった。それは、一人の人間の、あまりにも純粋で強大な愛と悲しみが世界に刻み込んだ、「呪い」そのものだったのだ。

歴代の夢紡ぎは、綻びを修復することで、彼女の悲しみが世界を完全に破壊するのを防いできたに過ぎなかった。延々と続く、対症療法。そしてリアンは、さらに恐ろしい真実に気づかされる。

夢紡ぎが代償として失う記憶は、単なる個人的な思い出ではなかった。最初の夢紡ぎが世界から消そうとしたもの――それは「愛」「希望」「温もり」「絆」といった、人が人であるための根源的な感情の記憶だった。彼女が愛する人と育んだ感情の全てを、世界から抹消しようとしたのだ。夢紡ぎたちは、自らの記憶を犠牲にすることで、世界から失われゆくそれらの感情を、かろうじて世界に「還元」していたのだ。飢饉を救えば「満たされる喜び」の記憶を、争いを止めれば「赦し合う心」の記憶を、自らの魂から削り取って。

リアンが失った母のスープの記憶は、ただの思い出ではない。それは「家族の温もり」という概念そのものを世界に繋ぎ止めるための、尊い犠牲だったのだ。

彼は愕然とした。自分たちは世界を救っているのではなかった。ただ、一人の絶望的な魂が作り出した、愛のない空っぽの世界が完成するのを、自分の魂を燃料にして、わずかに遅らせているだけだった。このままでは、いずれ全ての夢紡ぎの魂が燃え尽き、世界は真の虚無に包まれるだろう。

第四章 愛という名の残滓

絶望的な真実を前に、リアンは選択を迫られた。これまで通り、自分の記憶を犠牲にしてこの巨大な綻びを塞ぎ、呪いを未来へ先延ばしにするか。それとも、この悲しみの連鎖そのものを断ち切るために、何か別の道を探すか。

彼の脳裏に、エリスの心配そうな顔が浮かんだ。友人との温かい記憶。父の大きな背中。思い出せない母のスープ。それら全てが、世界から愛が消えないようにするための楔だった。ならば、自分がすべきことは一つしかない。

リアンは綻びの中心、悲しみに沈む最初の夢紡ぎの魂に向かって、静かに語りかけた。彼は彼女を止めようとはしなかった。ただ、理解しようと努めた。そして、彼は自らが持つ、最後の、そして最も大切な記憶に手を伸ばした。

それは、物心つく前の、朧げな記憶。両親に抱きしめられ、ただただ無条件に愛されていると感じた、言葉になる以前の温かい光の記憶だった。リアンが「リアン」であるための、全ての始まり。彼はその記憶を、躊躇なく燃やした。

修復のためではない。彼女の魂に届けるために。

眩い光が、リアンの魂から放たれ、最初の夢紡ぎの凍てついた心を包み込む。それは力のぶつかり合いではなかった。共感であり、慰めであり、そして赦しだった。

『あなたの悲しみは、決して無駄ではなかった。あなたの愛した記憶は、こうして僕たちの中で生き続け、世界を繋いできた。だからもう、泣かなくてもいい』

声なき声が、深淵に響き渡る。巨大な綻びは消えなかった。しかし、その性質がゆっくりと変わっていく。世界を蝕む呪いの亀裂は、失われた愛を静かに偲ぶための、美しいステンドグラスのような「窓」へと変容した。悲劇は、ただの記憶となった。

リアンが目を覚ますと、見慣れた自室の天井があった。涙は流れていなかった。心は、不思議なほどに凪いでいた。彼は自分の名前をかろうじて思い出せたが、両親のことも、友人のことも、歴史記録院で働いていたことさえも、曖昧な知識としてしか残っていなかった。彼の内面は、まるでがらんどうの書庫のようだった。

しかし、そこは空虚ではなかった。名前も顔も思い出せない誰かを、何かを、どうしようもなく愛おしいと感じる、普遍的で温かい感情だけが、残り火のように静かに灯っていた。

彼は窓辺に立ち、朝の光に満ちた都を見下ろした。人々が笑い合い、手を繋ぎ、時には喧嘩をしながらも、共に生きている。彼は自分が何者で、何をしたのか、そのほとんどを覚えていない。だが、あの美しい日常を守れたのだということだけは、確信できた。

彼の犠牲によって、世界は救われたのだろうか。おそらく、そうではない。ただ、愛を失う悲しみと、それでも愛を記憶しようとする尊さの両方を、静かに受け入れただけだ。

リアンは、陽光の中で目を細め、静かに微笑んだ。その微笑みの意味を、彼自身はもう知らなかった。

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