第一章 呪われし食卓の幻影
僕、佐藤健太の人生は、呪われている。それも、とびきりくだらない呪いだ。
物心ついた頃から、僕には他人の頭の上に、その人が直前に食べたものの3Dホログラムが見える。湯気が立ち上るラーメン、完璧な半熟具合の目玉焼き、コンビニの三角形のおにぎり。それらは極めて精巧で、時には匂いまで漂ってくるような錯覚さえ覚える。この役立たずで、プライバシーを著しく侵害する能力のせいで、僕は人との間に常に薄い膜を一枚隔てているような感覚で生きてきた。初対面の相手の頭上に浮かぶカツ丼を見て「ああ、この人は昼にガッツリいったんだな」なんて邪念が浮かび、会話に集中できないのだ。
だから僕は、人を避けて生きてきた。保険会社の営業という、人と話すのが仕事のくせに、矛盾しているのは百も承知だ。おかげで成績は常に低空飛行。社内では「いるかいないか分からない佐藤」という、不名誉なあだ名で呼ばれている。
そんな僕の日常に、小さな、しかし無視できないさざ波が立ったのは、ある月曜の朝のことだった。僕が所属する営業三課の鬼、鬼頭(きとう)部長が、血も凍るような低い声でフロアに響かせた。
「先週の週報、まだ出ていない者は誰だ!始業五分で私の机に置け!できなければ、その薄っぺらな報告書で貴様の脳みそを再フォーマットしてやる!」
デスクは静まり返り、誰もがキーボードを叩く音さえ憚られる。鬼頭部長は、その名の通り鬼だ。ミスは決して許さず、その眼光はレーザーのように部下の心を貫く。僕も何度もそのレーザーで心を焼かれてきた。
恐る恐る顔を上げ、部長の姿を目に入れた瞬間、僕は自分の目を疑った。
鬼頭部長の、厳しくセットされた黒髪の上。そこに、ふわりと浮かんでいたのだ。
パステルカラーのクリームで飾られ、銀色のアラザンがキラキラと瞬く、ユニコーンの形をしたファンシーなパンケーキが。
しかも、ご丁寧にストロベリーソースがハート形にかけられている。メルヘンの権化のような一皿が、あの鬼頭部長の頭上に、厳然として存在していた。僕は思わず持っていたボールペンを落とした。カラン、という乾いた音が、静寂なオフィスに妙に大きく響いた。部長の鋭い視線が僕を射抜く。
「佐藤!何か問題か!」
「い、いえ!何でもありません!」
僕は慌ててペンを拾い、心臓をバクバクさせながら俯いた。嘘だろ。あの鬼頭部長が?ユニコーンパンケーキ?週末に、お洒落なカフェで、一人で?想像しただけで、脳がバグを起こしそうだ。
これまで僕にとって、この能力は他人の無防備なプライベートを覗き見るだけの、忌まわしい呪いでしかなかった。だが、この日を境に、僕の世界はほんの少しだけ、色を変え始めたのかもしれない。あの鬼よりも恐ろしい部長の頭上に浮かぶ、あまりにも不似合いで、平和で、そして途方もなく滑稽なユニコーンパンケーキ。その幻影は、僕の灰色の日常に投じられた、あまりにもカラフルな一石だったのだ。
第二章 ホログラムは雄弁に語る
鬼頭部長のユニコーンパンケーキ事件以来、僕は無意識のうちに人々の頭上を観察するようになっていた。それはもはや呪いではなく、一種の人間観察ツールへと変貌を遂げつつあった。
例えば、隣の席の鈴木さん。いつも完璧な笑顔を振りまく彼女は、ここ数日、頭上にずっと「カップラーメン(シーフード味)」を浮かべていた。しかも、よく見るとホログラムの麺が微妙にのびている。きっと、何か辛いことがあって、食事もまともに作れていないのだろう。ある日、僕が勇気を出して「鈴木さん、これ、良かったら」と栄養ドリンクを差し出すと、彼女は一瞬驚いた顔をしたが、やがて堰を切ったように泣き出し、最近恋人と別れたことを打ち明けてくれた。僕にできたのは、ただ黙って話を聞くことだけだったが、彼女は最後に「ありがとう、佐藤くん。少し楽になった」と微笑んでくれた。彼女の頭上のカップラーメンが、翌日には温かい湯気の立つ「卵雑炊」に変わっていたのを見た時、僕の胸には小さな灯りがともったような気がした。
僕はこの能力を、他人を理解するためのコンパスのように使い始めた。新規契約が取れずに悩む後輩の頭上に連日「エナジードリンク」が浮かんでいるのを見れば、「少し休めよ」と缶コーヒーを差し入れ、ダイエット中の先輩の頭上に「ささみサラダ」が続いているのを見れば、「無理しないでくださいね」と声をかける。ささやかな介入。だが、僕の行動は徐々に周囲との関係を氷解させていった。「いるかいないか分からない佐藤」は、いつしか「なぜかタイミングよく優しい佐藤くん」に変わりつつあった。
そして、最も大きな変化は鬼頭部長との関係だった。僕は部長の頭上に浮かぶ食事をこっそりチェックするのを日課にしていた。ある日は精巧な細工が施された和菓子、またある日は行列のできる店のクリームパン。どうやら部長は、見かけによらず相当な甘党らしい。
ある日の午後、僕は部長に書類の承認をもらいに行った。部長の機嫌は最悪で、デスクの上にはダメ出しされた企画書の山が築かれている。その頭上には、コンビニの「いちご大福」が寂しげに浮かんでいた。きっと、楽しみにしていたおやつを食べる間もなかったのだろう。
承認印を待つ重苦しい沈黙の中、僕は、まるで何かの天啓を受けたかのように口を開いていた。
「ぶ、部長。駅前の新しいケーキ屋、ご存知ですか?週末限定のモンブランが、絶品らしいですよ」
空気が凍った。しまった、と後悔した時にはもう遅い。鬼の形相でこちらを睨みつける部長。終わった。僕の会社員人生は、ここで終わった。
しかし、数秒の沈黙の後、部長は意外な言葉を口にした。
「……ほう。栗の産地はどこだ」
「えっ?あ、ええと、確か熊本産の和栗を……」
「そうか。悪くない」
部長はそれだけ言うと、僕の書類に力強く承認印を押した。そして、書類を返す瞬間、ほんの一瞬だけ、その口元が緩んだのを僕は見逃さなかった。
この日を境に、部長は僕にだけ、時折、ほんの少しだけ柔らかい表情を見せるようになった。僕の呪いは、人と人を繋ぐ、不思議な架け橋になるのかもしれない。そんな淡い希望を抱き始めた矢先、会社を揺るがす大事件が勃発した。
第三章 思い出の生姜焼きを探して
事件は、まさに青天の霹靂だった。我が社が社運を賭けていた、IT業界の巨人「ネオ・フロンティア」社との大型契約が、調印式の前日になって突然、先方から破棄を言い渡されたのだ。理由は一切明かされず、ただ「社長の意向だ」の一点張り。営業三課は蜂の巣をつついたような大騒ぎになり、鬼頭部長の顔からは完全に血の気が引いていた。フロアには、普段は決して口にしない弱音が、部長の口から漏れた。
「……万策、尽きたか」
部長の頭上には、何も浮かんでいなかった。僕がこの能力を持ってから、そんなことは初めてだった。何も食べていないのだ。それほどのショック。
誰もが諦めムードの中、僕はなぜか、まだ終わっていない、と感じていた。いてもたってもいられず、僕はネオ・フロンティア社の受付に駆け込み、半ば土下座するように頼み込んだ。
「一分でいいんです!一分だけでいいですから、郷田社長に会わせてください!」
奇跡的に、あるいは僕のあまりの必死さに根負けしたのか、受付の女性は社長室へと繋いでくれた。
通された豪華な社長室。そこにいた郷田社長は、憔悴しきった表情で窓の外を眺めていた。そして、彼の頭上もまた、鬼頭部長と同じく、からっぽだった。
何かがおかしい。これは単なるビジネス上の問題ではない。僕は直感的にそう感じ、震える声で口を開いた。
「郷田社長……失礼ですが、何か、お探しではないですか?」
その言葉に、郷待社長はゆっくりとこちらを振り返った。その瞳は深く、悲しみに満ちていた。
「……君は、なぜそれを」
「社長の頭の上に、何も浮かんでいないからです」
意味不明な僕の言葉に、しかし社長は眉をひそめるでもなく、静かに語り始めた。
契約破棄の理由は、会社の経営判断でも、我々の提案への不満でもなかった。
郷田社長は、数ヶ月前に最愛の奥様を亡くされていた。そして、一週間前、奥様が遺した唯一の手書きのレシピ帳を、不注意で失くしてしまったのだという。その中には、社長が何よりも愛した「妻の生姜焼き」のレシピが書かれていた。
「家中を探した。思い出の場所も全て。だが、見つからない。あの味を、もう二度と食べられないかと思うと……何も手につかなくなってしまってね。こんな精神状態で、大きな契約を進めることはできない。申し訳ない」
あまりにも個人的で、しかし彼にとっては世界の終わりを意味するほどの、絶望的な理由。僕は唖然とした。社運を賭けたプロジェクトが、一枚のレシピのために頓挫しようとしている。こんな馬鹿げた話があるだろうか。
だが、僕は笑えなかった。郷田社長の頭上に何も浮かんでいない、その「無」が、彼の喪失感の深さを何よりも雄弁に物語っていたからだ。
会社に戻った僕は、全てを鬼頭部長に話した。誰もが呆気にとられる中、最初に沈黙を破ったのは、意外にも部長だった。
「……そうか。ならば、我々がやるべきことは一つだ」
部長は立ち上がり、フロア全体に響き渡る声で言った。
「営業三課、総員に告ぐ!これより、日本で最も美味い生姜焼きのレシピを探し出す!これは業務命令だ!」
そこからの僕たちは、凄まじかった。インターネット、古本屋、料理研究家のブログ、果ては各自の実家の母親まで。ありとあらゆる情報網を駆使して、生姜焼きのレシピをかき集めた。経理部の山田さんが「私の祖母の秘伝のレシピが…」と参加し、人事部の田中課長は「馴染みの定食屋の親父に頭を下げてきた」と油の染みたメモを手に現れた。いつしか、それは営業三課だけの問題ではなく、会社全体を巻き込んだ一大プロジェクトになっていた。
数日後、僕たちは厳選した百種類以上のレシピを携え、再び郷田社長のもとを訪れた。社長は驚いていたが、僕たちの集めたレシピの束を一枚一枚、愛おしそうにめくっていった。
「……ありがとう。妻のレシピは見つからないかもしれない。だが」
社長は顔を上げ、その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「君たちのこの真心は、妻の生姜焼きと同じくらい、温かいよ。契約の件、もう一度前向きに考えさせてほしい」
その帰り道、僕は鬼頭部長と二人で歩いていた。夕日が僕たちの影を長く伸ばしている。
「佐藤」
部長が不意に口を開いた。
「お前、なんで社長がなくしものをしていると分かったんだ?」
僕は少し迷った後、正直に話すことにした。僕の奇妙な能力のこと。部長の頭上に浮かんだユニコーンパンケーキのこと。部長は黙って聞いていたが、やがて、ふっと笑った。
「そうか。……あのパンケーキは、娘の誕生日に、一緒に食べたやつだ」
少し照れくさそうに言う部長の顔は、もう鬼には見えなかった。
会社に戻ると、同僚たちが僕たちを拍手で迎えてくれた。彼らの頭上には、ラーメン、カツ丼、オムライス、色とりどりのホログラムが賑やかに浮かんでいる。それはまるで、僕たちのささやかな勝利を祝う、祝福の紙吹雪のようだった。
僕の呪いは、解けてはいない。きっと一生このままだろう。でも、もう呪いだとは思わない。これは、人の心の奥にある、言葉にならない想いや、ささやかな幸せの形を教えてくれる、特別な贈り物なのだ。
僕の頭上には今、きっと、みんなで食べた打ち上げの、少し焦げたけど最高に美味しかった「定食屋の生姜焼き」が、誇らしげに湯気を立てているに違いない。