時の残香を辿って

時の残香を辿って

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第一章 硝子細工の不在

相馬悠人(そうま ゆうと)の鼻腔は、常人には捉えられない世界の断片を拾い集めていた。彼は「時間の香り」を嗅ぎ分けることができる。過去は古書の背表紙のような甘く乾いた香り、未来は雷鳴の前のオゾンのような、鋭く金属的な香りを放つ。この特異な嗅覚は、彼を優れた調香師にしたが、同時に呪いでもあった。特に、恋人である神崎美咲(かんざき みさき)が失踪してからは。

一年が経った今も、悠人は定期的に彼女が最後にいたアパートを訪れていた。大家の特別な計らいで、部屋はあの日のまま残されている。ドアを開けると、埃の香りに混じって、美咲が好きだったフリージアの香水のかすかな残滓が悠人を迎える。そして、あらゆるものから立ち上る、過ぎ去った時間の香り。壁の染み、床の傷、窓辺に置かれたままの萎びた多肉植物。それらすべてが、甘く切ない過去の香りを放っていた。

だが、この部屋にはもう一つ、異質な香りが存在した。

悠人は部屋の中央に立ち、深く息を吸い込む。それは過去の香りでも、未来の香りでもない。まるで、極薄の硝子細工が音もなく砕け散る瞬間を凝縮したかのような、儚く、鋭く、そしてどこまでも透明な香り。悠人はそれを「不在の香り」と呼んでいた。時間軸そのものからこぼれ落ちたような、存在しないはずの時間の残響。この香りは、美咲が消えたあの日に生まれ、今もこの部屋にだけ、陽炎のように揺らめいている。

警察は手掛かりを見つけられず、早々に捜査を打ち切った。事件か、事故か、あるいは自発的な失踪か。何一つ分からなかった。だが悠人だけは確信していた。美咲の失踪の鍵は、この奇妙な香りが握っていると。彼は彼女の遺した日記を手に取った。そこにも、微かに「不在の香り」が染みついている。ページをめくると、彼の知らない数式や、難解な物理学の単語が並んでいた。天文学が好きだとは聞いていたが、これは趣味の領域を遥かに超えている。

「美咲……君は一体、どこへ消えたんだ?」

呟きは、過去の香りが満ちる部屋に吸い込まれていった。彼女の笑顔を思い出すたび、胸の奥で硝子が砕けるような痛みが走る。悠人は、この香りの正体を突き止め、美咲を取り戻すためなら、どんな時間の果てへも旅をする覚悟だった。彼の唯一の手掛かりは、自らの鼻だけだった。

第二章 錆びついた星霜の匂い

美咲の日記と遺品を改めて調べていた悠人は、一冊の古い専門書の間に挟まれていたものに目を留めた。それは古びた星図と、見慣れないロゴが入った一枚のIDカードだった。カードには『六甲山時空連続体研究所』と印字され、少し緊張した面持ちの美咲の写真が貼られている。そんな研究所、聞いたこともない。

星図には、六甲山の特定の座標に赤い印がつけられていた。そこが研究所の場所なのだろう。悠人は微かな希望を胸に、車を走らせた。山道を進むにつれ、未来の香りが強くなるのを感じる。しかし、それは都市の喧騒が放つ無数の未来とは違う、もっと純粋で、強力な金属の香りだった。まるで、巨大な機械がすぐそこで未来を鋳造しているかのような。

座標が示す場所に着くと、そこにあったのは錆びついたフェンスに囲まれた、廃墟同然の建物だった。看板の文字はかすれ、蔦が壁を覆っている。表向きは閉鎖されて久しい、ただの観測所跡にしか見えない。だが、悠人の鼻は欺けない。フェンスの隙間から敷地内に入ると、空気に混じる香りの質が変わった。

過去の香り――湿ったコンクリート、腐りかけた木材、そして錆びた鉄の匂い。しかし、その奥底から、あの「不在の香り」が微かに漂ってくる。美咲がここにいた証拠だ。

悠人は建物の奥へと進んだ。埃っぽい廊下を抜け、巨大なドーム状の部屋にたどり着く。そこには、彼の想像を絶する光景が広がっていた。部屋の中央に、巨大で複雑怪奇な機械装置が鎮座していたのだ。球体を幾重にも金属のリングが取り囲み、無数のケーブルが床を這っている。装置は機能を停止しているようだったが、その威容は悠人を圧倒した。そして、この機械から「不在の香り」が最も強く放たれていた。

足元に、ファイルの束が散らばっているのを見つける。手に取ると、それは美咲の筆跡で書かれた研究ノートの断片だった。

『時間跳躍における因果律の残響について。跳躍対象の質量に比例し、出発点と到達点の双方に微弱な時空の歪み、すなわち「香り」を残す可能性がある』

『クロノ・パラドックスは避けられないのか? 祖父のパラドックスを回避する第三の選択肢……』

『彼に会ってはいけなかった。この感情が、すべての計算を狂わせる……』

言葉の意味を完全には理解できない。だが、悠人は悟った。美咲は、時間旅行の研究に携わっていたのだ。そして彼女の失踪は、この巨大な機械と関係がある。ノートの最後の一枚に書かれた言葉が、悠人の胸を締め付けた。

『愛してしまったことが、私の最大の過ち』

第三章 未来からの恋人

悠人はノートの断片をアトリエに持ち帰り、調香師としての知識と、特異な嗅覚を総動員して解読を試みた。香りの記憶とノートの記述を結びつけ、パズルのピースをはめていく。数日間の徹夜の末、彼は信じがたい、そして残酷な真実にたどり着いた。

美咲は、未来から来た時間渡航者だった。

彼女がこの時代に来た目的は、ノートの端々に記された計算式と暗号めいた文章から明らかになった。それは、未来で発生する、ある破滅的な大災害を未然に防ぐこと。その災害の引き金となる技術を開発してしまうのが、一人の天才科学者だという。

そして、その科学者の名前を見て、悠人は息を呑んだ。

――相馬 悠人。

未来の自分が、世界を危機に陥れる? 馬鹿な、と思った。自分はただの調香師だ。だが、ノートを読み進めるうちに、彼の「時間の香りを嗅ぎ分ける能力」が、やがて時空そのものに干渉する技術へと発展することが示唆されていた。美咲の使命は、その芽を摘むこと。つまり、若き日の相馬悠人を、歴史から抹消することだったのだ。

しかし、計画は狂った。ターゲットである悠人と出会った美咲は、彼に恋をしてしまった。彼の人柄に触れ、共に過ごす時間の中で、彼を愛してしまった。使命と愛情の間で引き裂かれた彼女は、彼を消すことなど到底できなかった。かといって、未来の悲劇を座視することもできない。

苦悩の果てに、彼女は「第三の選択」をした。

それは、自分自身が時間軸から完全に消滅することで、悠人との出会いそのものを因果律から切り離し、歴史を修正するという、あまりにも自己犠牲的な試みだった。彼女は研究所の装置を使い、時間と時間の間隙――どこでもない場所、いわば「存在しない時間」へと自らを追放したのだ。

あの「不在の香り」は、時空の狭間で漂う美咲の存在が、この世界に漏れ出させている悲痛な残響だったのだ。悠人が嗅ぎ取っていたのは、愛する人が因果の牢獄で発する、声なき悲鳴の香りだった。

「そんな……」

悠人はその場に崩れ落ちた。美咲との思い出が、走馬灯のように蘇る。初めて会った日のこと、共に笑い合ったこと、交わした約束。そのすべてが、壮大な偽りと、あまりにも深い愛情の上に成り立っていた。彼女は、未来の自分を止めるために現れ、そして自分を愛してしまったがために、永遠の孤独に身を投じた。

自分が愛した女性の正体と、彼女が払った犠牲の大きさに、悠人の価値観は根底から覆された。彼の世界は、音を立てて崩壊した。

第四章 君へのアリア

絶望の底で、悠人は何日もアトリエに閉じこもった。無数の香料瓶に囲まれながら、彼は美咲の残した香りを――「不在の香り」を何度も吸い込み、彼女の苦しみを追体験した。涙は枯れ果て、残されたのは虚無感と、胸を抉るような罪悪感だけだった。

だが、ある朝、窓から差し込む光が、美咲がくれた小さなプリズムに当たり、壁に虹色の光を散らしたとき、悠人の心に一つの決意が灯った。

美咲を救い出すことはできない。自分にそんな力はない。だが、時空の狭間で孤独に震える彼女に、メッセージを送ることならできるかもしれない。調香師として、そして彼女を愛した男として、自分にしかできない方法で。

それから数ヶ月、悠人は狂ったように研究に没頭した。研究所の装置の理論を独学で解き明かし、自らのアトリエにある機材を改造して、香りをエネルギーに変換・増幅する小さな装置を作り上げた。彼の目的は、時空の狭間にいる美咲の座標――「不在の香り」が放つ特有の周波数――に向けて、想いを乗せた香りを届けることだった。

そして、ついにその日を迎える。完成した装置の中央に、悠人は一つの小瓶をセットした。それは、彼が持てる技術と記憶のすべてを注ぎ込んで調香した、世界に一つだけの香りだった。初めてのデートで訪れた海辺の潮の香り、彼女の髪から香ったフリージア、共に飲んだ紅茶のアールグレイ、そして悠人自身の肌の匂い。二人が共に過ごした「時間」そのものを、香りで再現したのだ。

彼は目を閉じ、スイッチを入れた。装置が静かに駆動し、アトリエに満ちていた「不在の香り」が共鳴するように濃度を増していく。そして、小瓶から立ち上った「二人の時間の香り」が、増幅された「不在の香り」に乗り、時空の彼方へと送られていく。

悠人はただ、心の中で祈った。

『美咲、聞こえるか。君を忘れない。君が愛した僕を、僕も信じる。君が守ろうとした未来を、僕が必ず、誰も悲しむことのない、優しい未来にしてみせる。だから……もう、一人で苦しまないでくれ』

その瞬間だった。

彼の鼻を突き、胸を締め付けていた硝子細工のような「不在の香り」が、ふっと霧が晴れるように和らいだ。そして、その香りが完全に消える直前、まるで彼女からの返事のように、あまりにも優しく、そして懐かしいフリージアの香りが、彼の頬を撫でるように、一度だけ、ふわりと香った。

次の瞬間、アトリエにはただ、静寂と普通の空気だけが残されていた。

悠人はゆっくりと目を開けた。涙が頬を伝っていたが、その表情は穏やかだった。彼は深く息を吸い込んだ。古書の匂いも、金属の匂いも、もう感じない。彼の鼻は、もう「時間の香り」を嗅ぎ分けることはできなくなっていた。

能力は失われた。しかし、彼の心には、失われた愛の代わりに、未来への確かな道筋が灯っていた。美咲が遺してくれた、重く、そして温かい道標が。

彼はアトリエを出て、朝の光の中に足を踏み出す。これから自分が何をすべきなのか、悠人にはもう分かっていた。時の残香を辿る旅は終わった。ここからは、未来の香りを、自らの手で創造していく旅が始まるのだ。

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