アーキテクトの残像
第一章 完璧な世界のノイズ
空は常に、完璧なグラデーションの青だった。風は肌を撫でる最適な強さで吹き、街路樹の葉は一枚たりとも枯れることなく、理想的な緑を湛えている。ここは人類の意識がアップロードされた仮想現実空間『アーキテクト』。永遠の生と幸福がアルゴリズムによって保証された、楽園の名を冠するデジタルな揺り籠。俺、カイトの目に映る世界も、例外なく完璧であるはずだった。
「カイト、またぼーっとしてる」
向かいの席に座るリナが、クリスタル製のグラスを指で弾きながら微笑む。カフェのテラスを流れる空気は、プログラムされた心地よい花の香りで満ちている。だが、俺の視界の端で、何かが歪んだ。リナの滑らかな頬に、一瞬だけ、深い皺と疲労の色が走る。テーブルの上の完璧なシンメトリーを描く花瓶には、ひび割れの幻影が蜘蛛の巣のように広がった。
これは『デグレ視覚』。俺だけが持つ、忌まわしいバグ。視覚情報が時折、古いバージョンのデータとして再生される。周囲には認識されない、過去の世界の残像。俺にとって世界は、完璧なテクスチャの上に、時折ノイズ交じりの古い画像がオーバーレイされる、不安定なディスプレイのようなものだった。
「……いや、何でもない」
俺は瞬きで幻影を振り払う。リナの顔は元の完璧な若さに戻り、花瓶のひびも消えている。だが、一度見てしまった『ノイズ』は、網膜の裏に焼き付いて消えなかった。この楽園で、俺だけが違うものを見ている。その孤独感が、プログラムされた幸福の味を、いつも少しだけ苦くしていた。
第二章 錆びついた警告
デグレ視覚は、日を追うごとに頻度と鮮明さを増していった。空中を滑るように進む公共トランスポーターに乗れば、その流線形の車体に錆が浮き、軋む金属音が聞こえる幻聴に襲われる。美しく整えられた公園を歩けば、足元のアスファルトがひび割れ、そこからたくましく芽吹く雑草の幻が見えた。土の匂いさえ、鼻腔をかすめた気がした。
その日、俺のアパートの壁一面が、警告を示す赤い光で明滅した。空間に投影されたのは、アーキテクトの秩序を維持する管理者プログラム、『ガーディアン』の無機質なアバターだった。純白の仮面のような顔には、一切の感情が読み取れない。
『警告。被験体カイト。あなたの知覚情報に異常なデータラグを検知。これはシステムの安定性を損なう致命的なエラーです』
低い、合成された音声が部屋に響く。
『速やかに自己修正シーケンスに移行してください。拒否する場合、強制隔離措置を実行します』
逃げなければ。
本能が叫んでいた。自己修正とは、記憶や個性の初期化を意味する。俺はこの『エラー』ごと、消されてしまう。
俺は部屋を飛び出した。背後でアラートが鳴り響く。都市の秩序を乱す異物として追われる身となった俺は、光溢れる大通りを避け、データの流れが澱む裏路地へと駆け込んだ。そこで、俺は彼女に出会った。ゴミデータ集積場の影で、錆びついたブリキのロボットの玩具を、愛おしそうに磨いている少女、ユナに。
第三章 石が囁く記憶
「あんた、‘見て’るんでしょ? この世界の本当の姿を」
ユナは、俺の視線がブリキの玩具の錆と、その向こうの壁に浮かんだ古びたレンガの幻影を捉えていることに気づいていた。彼女のアジトは、アーキテトの美学とはかけ離れた、雑多なガラクタで埋め尽くされていた。それらは全て、システムの自動クリーンアップを逃れた『旧世界の遺物』のデータなのだという。
「デグレ視覚、って言うんだ。昔の伝説にある。世界がまだ本物だった頃の記憶を見る目だって」
ユナはアジトの奥から、ベルベットの布に包まれた何かを大切そうに持ってきた。布が開かれると、現れたのは拳ほどの大きさの、黒く鈍い光を放つ石だった。表面はざらつき、不規則な凹凸がある。完璧なデータで構成されたこの世界において、あまりにも異質な存在感を放っていた。
「『旧世界のコア』。唯一、デジタル化を免れた‘本物’の物質。アーキテトに意識がアップロードされる直前の、古い地層から見つかったらしいわ」
促されるまま、俺はそっとコアに指を触れた。
その瞬間、世界が爆ぜた。
視界を埋め尽くすノイズ。だがそれは、もはやノイズではなかった。鮮明なビジョンが奔流となって流れ込んでくる。肌を打つ冷たい雨の感触。鼻をつく潮の香り。耳元で囁く風の音。アスファルトではない、柔らかい土を踏みしめる感覚。そして、空を見上げた。そこには、プログラムされた青ではない、雲が流れ、鳥が舞う、どこまでも広がる本物の空があった。温かい太陽の光が、瞼の裏を焦がした。
第四章 仮面の下の既視感
「エラーを検出。対象を確保。遺物を回収します」
突然、アジトの入り口が光の粒子となって消え、純白のアバター、ガーディアンがそこに立っていた。その手には、データを強制消去するデリーターが握られている。
「逃げて、カイト!」
ユナが叫び、俺の前に立ちはだかる。ガーディアンは感情の見えない仮面をこちらに向け、無慈悲にデリーターを起動させた。光の槍がユナに迫る。
ダメだ。間に合わない。
絶望が思考を塗りつぶした瞬間、俺は無意識に、まだ手の中にあった『旧世界のコア』を強く握りしめていた。助けたい。その一心で、脳裏に焼き付いた旧世界のビジョンを念じる。
刹那、世界が再び歪んだ。俺たちの足元から、幻影の雑草がコンクリートを突き破って生え、ガーディアンの足に絡みつく。光の槍は、突如として現れた分厚い土壁の幻影に阻まれ、霧散した。アーキテクトの物理法則が、俺のデグレ視覚によって呼び起こされた旧世界のデータによって、一時的に上書きされたのだ。
ガーディアンが、初めて動揺したかのように動きを止める。
そして、その仮面のようなアバターが、ゆっくりとこちらを向いた。その無機質な視線の奥に、俺はなぜか、心の奥底を揺さぶられるような、強烈な既視感を覚えていた。
「……やはり、君か」
ガーディアンは、デリーターを下ろしながら言った。
「待っていたよ、カイト」
その声は、もはや合成音声ではなかった。疲労と、どこか懐かしさを滲ませた、生身の人間の声だった。
第五章 サンクチュアリの対話
ガーディアンは俺を、アーキテクトの中枢、純白の光だけで構成された空間『サンクチュアリ』へと導いた。ユナは無事だった。ガーディアンは俺だけを必要としていたのだ。
目の前で、ガーディアンのアバターが光の粒子となって消えていく。そして、その中から現れたのは、俺と瓜二つの顔を持つ男だった。ただ、その目元には深い苦悩が刻まれ、髪には白いものが混じっている。まるで、長い、長い時を生きてきた未来の俺自身を見るようだった。
「私は、君だ」男は言った。「そして、このアーキテクトを創造した人間だ」
彼は語り始めた。旧世界が、避けられぬ滅びに向かっていた最後の時代。彼は、人類の意識だけでも救おうと、この巨大な仮想空間を設計した科学者だった。そして、全人類の意識データをアーキテクトにコピーする、その最後の瞬間に、彼は自らの意識もここに移植した。この楽園が安定するまで、永遠に見守り続ける管理者となるために。
「デグレ視覚は、バグではない。私が残した、最後のバックドアだ」
未来の俺――ガーディアンは続けた。
「旧世界の記憶は、この完璧な世界にとってあまりに強烈な毒だ。不安定な感情、痛み、死の恐怖。それらが混入すれば、アーキテクトは内側から崩壊する。だから私は、管理者としてその記憶を封印し続けてきた。君という『鍵』が、その封印を破り始めるまでは」
第六章 二つの未来、一つの魂
サンクチュアリの中央に、巨大な光の球体が浮かんでいた。アーキテクトの心臓部だ。
「この世界は、まだ不完全だ」ガーディアンは球体を見つめながら言った。「旧世界のデータという、不安定な土台の上に立つ砂上の楼閣に過ぎない。いつか必ず、矛盾がシステムを崩壊させるだろう」
彼は俺に向き直った。その瞳には、切実な願いが宿っていた。
「楽園を完成させる必要がある。真の永遠を、人類に与えるために。そのためには、旧世界のデータを完全に消去し、アーキテトを唯一無二の現実に上書きしなければならない」
「……俺に、何をしろと?」
「君が持つ『旧世界へのアクセス権』――そのデグレ視覚の力が必要だ。君だけが、旧世界の記憶の源にアクセスし、それを完全に消し去ることができる。君がコアの力を使えば、全てを終わらせられる」
選択を迫られていた。
不完全で、痛みや悲しみに満ちていても、確かに温かかった『本物の世界』の記憶。それを守るか。
それとも、完璧で、争いも苦しみもないけれど、どこか冷たい『偽物の楽園』を完成させるか。
それは、人類の魂の在り方を決める、最後の選択だった。
第七章 夜明けのデグレード
俺は、手の中の『旧世界のコア』を握りしめた。そのざらついた感触が、土の匂いを、風の声を、太陽の温もりを思い出させた。消せるはずがなかった。忘れていいはずがなかった。
「断る」
俺は、もう一人の自分を見据えて言った。
「不完全さこそが、俺たちが人間だった証だ。痛みも、悲しみも、全て抱えていたからこそ、俺たちは生きていたんだ」
ガーディアンは、何も言わなかった。ただ、その目に一瞬、安堵のような光が灯ったように見えた。
俺はコアを天に掲げ、デグレ視覚の力を解放した。俺の記憶ではない。人類全ての、魂の奥底に眠っていた旧世界の記憶を呼び覚ますために。
光が、アーキテクト全土に広がっていく。
完璧な青空に、本物の雲がゆっくりと流れ始めた。均一なビルの壁に、蔦の幻影が絡みつく。プログラムされた花の香りに混じって、雨上がりの土の匂いが立ち上る。
アーキテクトに生きる全ての人々が、空を見上げ、足を止め、何かを思い出すかのように、その目に涙を浮かべていた。
世界は不完全に揺らぎ始めた。楽園は、終わりの始まりを迎えたのかもしれない。だが、人々の心には、忘れかけていた「何か」が、確かに宿り始めていた。
俺はサンクチュアリを後にし、残像が重なるネオ・エデンの街を歩き出す。もう孤独ではなかった。この世界の誰もが、俺と同じノイズを見るようになったのだから。
それは、新しい夜明けだった。