第一章 陽だまりの欠落者
この世界では、感情は形を持つ。
人が強い情動を抱くとき、それは喉の奥からせり上がり、吐息とともに手のひらにこぼれ落ちる。「情動結晶」と呼ばれる、美しくも厄介な代物だ。喜びは陽光を閉じ込めたような黄金の「喜晶(きしょう)」に、怒りは燃え盛る炎のような深紅の「憤晶(ふんしょう)」になる。そして、最も稀で価値が高いとされるのが、夜の湖面を思わせる深い藍色の結晶、「悲嘆晶(ひたんしょう)」だった。
僕、リオの掌には、いつも黄金の結晶があふれていた。道端の花の可憐さに、焼きたてのパンの香りに、隣人の屈託のない笑顔に。僕はささいなことで胸を温かくし、きらきらと輝く喜晶を生み出した。人々は僕を「陽だまりの子」と呼び、その笑顔を褒めそやした。けれど、僕は知っていた。僕がただの欠落者であることを。
僕には、悲しみがわからなかった。
物語の悲劇的な結末も、友人の死も、僕の心にさざ波一つ立てなかった。胸の奥にあるはずの泉はとうに枯れ果て、どんな哀切な出来事も、乾いた大地に吸い込まれるように消えていく。だから、僕は藍色の悲嘆晶を、たったの一度も生み出したことがなかった。
その日、僕は妹のルナの部屋にいた。彼女は僕と違い、繊細で感受性の強い少女だった。彼女の小さな手の中には、いつも澄んだ藍色の悲嘆晶が握られていた。それは高値で取引され、僕ら兄妹の生活を支えてくれていた。
「お兄ちゃん、見て。今日の結晶、いつもより綺麗でしょう?」
ルナが差し出した結晶は、星屑を溶かし込んだ夜空のように、静かで深い光を放っていた。僕は笑顔で頷きながら、胸の奥にちくりとした棘を感じていた。羨望と、自分自身へのどうしようもない不甲斐なさ。その感情が、僕の喉からまた一つ、価値の低い黄金の喜晶をこぼれ落とさせた。
その夜だった。ルナが甲高い悲鳴を上げたのは。
駆けつけると、彼女はベッドの上で苦悶に顔を歪め、ぜいぜいと浅い呼吸を繰り返していた。彼女の手は固く握りしめられていたが、そこから生まれるはずの結晶は、どこにもなかった。まるで、感情そのものが枯れ果ててしまったかのように。
翌朝、医者は静かに首を振った。「枯渇病です。最近、都で流行り始めている原因不明の病でして……。感情の泉が、完全に干上がってしまうのです」
その言葉は、乾いた風のように僕の心を吹き抜けていった。ルナは、僕がずっと羨んでいた感情の泉を、失ってしまった。それなのに、僕の目からは涙一滴こぼれず、ただ、妹の手を握る自分の手のひらが、場違いなほど温かいのが腹立たしかった。
第二章 枯渇する世界と賢者の言葉
ルナの病状は、世界の変調と見事に歩調を合わせていた。
枯渇病は瞬く間に街中に広がり、人々の手から情動結晶が消えていった。活気のあった市場からは色とりどりの結晶が姿を消し、代わりに人々の虚ろな瞳が目立つようになった。それだけではない。街路樹は急速に葉を落とし、豊かに水を湛えていた井戸は底を見せ始めた。世界全体が、まるで巨大な枯渇病にかかったかのように、潤いを失っていく。
「妹さんを救いたくば、そしてこの世界を救いたくば、霧深き谷に住むという万象の賢者を訪ねるがいい」
老婆の助言を唯一の希望に、僕は旅に出た。背負った鞄には、なけなしの食料と、僕が生み出した大量の喜晶。それはこんな状況では何の役にも立たない、ただの重りに過ぎなかった。
旅の道筋で目にした光景は、僕の想像を絶していた。かつて青々と茂っていた森は、灰色の骸骨のような枯れ木ばかりが空を突き、豊かな穀倉地帯はひび割れた赤土の荒野と化していた。人々は感情を失い、ただ生きるためだけに水を奪い合う。世界から色が、音が、そして心が失われていくのを肌で感じた。僕は何度も、この惨状を前にして悲しもうと努めた。胸をかきむしり、無理やりにでも涙を流そうとした。しかし、僕の心は静まり返ったままで、ただ無力感だけが募っていく。
三日月の夜、僕はついに霧深き谷の最奥にある賢者の庵にたどり着いた。賢者は、年輪を刻んだ大樹のような静かな瞳で僕を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「お前の妹、そしてこの世界が枯渇している理由……それは、悲しみが足りぬからじゃ」
「悲しみが……足りない?」
「うむ。人々はいつしか、悲しみを忌むべきものとして遠ざけ、喜びばかりを追い求めるようになった。だが、この世界に真の潤いをもたらすのは、喜晶の陽光ではない。悲嘆晶が秘める、静かで深い哀切の力なのじゃ。大地は悲しみの涙によってのみ、その生命力を取り戻す」
賢者の言葉は、僕に冷たい鉄槌を振り下ろした。
「最も純粋で、最も強い力を持つ悲嘆晶。それだけが、この渇きを癒せる唯一の希望じゃ」
絶望だった。僕には決して生み出すことのできないもの。世界を救う鍵は、僕が持ち得ないものの代名詞だった。僕は賢者に一礼する力もなく、ふらふらと庵を後にした。乾いた風が、僕の空っぽの心を嘲笑うように吹き抜けていった。
第三章 反転する価値
失意のまま故郷に戻った僕を待っていたのは、さらに衰弱したルナの姿だった。彼女の瞳は光を失い、かろうじて続く呼吸だけが、彼女の命を繋ぎとめている。僕はただ、無力に彼女の側に座り続けることしかできなかった。
なぜ、僕は悲しめないのだろう。
賢者の言葉が、呪いのように頭の中で反響する。僕は本当に、生まれつきの欠落者なのだろうか。その問いが、僕を両親の遺品がしまわれた屋根裏部屋へと向かわせた。何か手がかりがあるかもしれない。藁にもすがる思いだった。
埃をかぶった木箱の底に、母の古い日記帳を見つけた。震える手でページをめくっていく。そこには、僕が生まれた日のことが、インクの滲んだ文字で記されていた。
『リオが生まれた。けれど、この子はあまりにも感受性が強すぎる。風の音に怯え、影の揺らぎに涙し、隣家の赤子の夜泣きに同調して、三日三晩泣き続けた。このままでは、世界のあらゆる悲しみをその小さな一身に吸い込み、魂が砕けてしまうだろう』
ページをめくる手が、止まった。心臓が嫌な音を立てる。
『私たちは、決断しなければならない。禁断とされる魂の分割の儀式を。リオの強すぎる“悲しみ”を司る魂の一部を切り離し、安全な器に移すのだ。幸いにも、私のお腹には、もう一つの命が宿っている……』
次のページには、こう書かれていた。
『ルナが生まれた。儀式は成功した。リオは、まるで嵐が過ぎ去ったあとのように穏やかな子になった。もう何にも怯えず、いつも太陽のように笑っている。あの子の悲しみは、すべてルナが引き受けてくれた。あの子が健やかに生きるために、ルナがその重荷を背負ってくれる。ああ、神様。私たちは、とんでもない罪を犯してしまったのだろうか』
そういうことだったのか。
僕は、欠落していたのではなかった。分割されていたのだ。僕が悲しめなかったのは、僕の悲しみを、すべてルナが肩代わりしてくれていたから。ルナが美しい悲嘆晶を生み出せたのは、彼女自身の悲しみではなく、僕の魂の片割れが流す涙だったからだ。
そして、ルナの枯渇病は……。
「……器が、限界だったんだ」
僕の悲しみを、彼女の小さな魂が受け止めきれなくなったのだ。僕が笑顔で喜晶を生み出すたびに、その裏側で、ルナは僕が感じるはずだった悲しみの重さに耐えていた。僕の陽だまりは、ルナの魂を犠牲にして成り立っていたのだ。
日記を握りしめたまま、僕はその場に崩れ落ちた。
初めてだった。自分の胸の奥深く、固く閉ざされていた泉の岩盤に、亀裂が入る音が聞こえた。
第四章 涙の再会
僕は、ルナの病床へ走った。廊下を駆ける足音だけが、やけに大きく響く。
部屋に入ると、ルナは静かに眠っていた。その顔は、まるで全ての感情から解き放たれたかのように穏やかだった。僕は彼女の冷たい手を握りしめた。
今まで感じたことのない感情の奔流が、僕の中で渦を巻いていた。
僕を生かすためにすべてを背負ってくれた妹への、言葉に尽くせない感謝。僕を守るために禁忌を犯した両親への、切ないほどの愛情。そして、何も知らずに無邪気に笑い、彼女に重荷を背負わせ続けた自分自身への、深い、深い後悔。
それは、賢者が言ったような純粋な「悲しみ」ではなかった。もっと複雑で、温かくて、そしてどうしようもなく痛い、初めての感情だった。
「ルナ……」
声が、震えた。
「ごめん。……ごめん、ルナ。僕が、君に全部……。今まで、ありがとう」
その言葉が、最後の引き金だった。
僕の瞳から、熱い雫がこぼれ落ちた。それは頬を伝い、ルナの握った僕の手に落ちた。ぽつり、と。
しかし、それは結晶にならなかった。ただの涙だ。僕は、やはり……。
そう思った瞬間、涙はルナの手に触れたところで、まばゆい光を放った。それは黄金でも、藍色でも、深紅でもない。朝焼けの空のように、あらゆる色が溶け合った、虹色の輝きだった。
見たこともない、虹色の結晶――「愛憐晶(あいれんしょう)」。
結晶がルナの肌に触れると、彼女の指がぴくりと動いた。そして、ゆっくりと瞼が持ち上がり、光を失っていた瞳が、穏やかに僕を映した。
「……お兄ちゃん?」
か細い、しかし確かな声だった。
「泣いてるの……? よかった。やっと、お兄ちゃんも、泣けたんだね」
そう言って、ルナは僕の頬にそっと触れた。その手は、温かかった。
僕の涙は、世界を救う万能の力を持ってはいなかった。大地はまだ乾き、人々は感情を失ったままだ。
けれど、僕は確かに、たった一人のかけがえのない妹を救うことができた。そして、失われていた自分自身の半分を取り戻すことができたのだ。
僕はルナの手を握り返し、今度は躊躇わずに涙を流した。それは、悲しいだけの涙ではなかった。ようやく一つになれた魂が奏でる、喜びと哀しみが溶け合った、温かい雨だった。
この涙の本当の意味を、この世界の本当の潤し方を、僕たちはこれから二人で探していくのだろう。
陽だまりの中で感じる、初めての悲しみの味は、ほろ苦く、そして信じられないほど、優しかった。