息を継ぐ者
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息を継ぐ者

第一章 錆びた街の溜息

アスファルトの罅から、ねじれた鉄骨が空に向かって伸びている。この街では、重力が時折気まぐれを起こす。人々はそれを「不協和音」と呼び、諦めたように空を見上げては、深く息を吐いた。俺、レイは、その吐き出された息に敏感だった。他者の息を吸い込むと、その人間の最も強い「後悔」が、まるで自分の記憶のように流れ込んでくる。

路地裏で蹲る老婆のそばを通り過ぎた時、か細く漏れた白い息が俺の鼻腔を掠めた。瞬間、視界がセピア色に染まる。戦火の匂い、若い男の無骨な手、そして「待っている」と伝えられなかった、言葉の味。脳裏に焼き付いた映像と共に、ずしりとした鉛のような未練が俺の胸に沈み込む。

「……っ」

思わず胸を押さえる。首から下げた響鳴石のペンダントが、冷たい警告を発するように肌を刺した。これは呪いであり、同時に道標でもあった。俺自身の感情が乱れると、これまでに吸い込んだ無数の後悔の断片――赤ん坊を抱けなかった母親の慟哭、友を裏切った少年の震え――が混ざり合い、意識を食い荒らす。だから俺は、誰とも深く関わらず、ただこの歪んだ世界で息を潜めて生きていた。

老婆はもういない。しかし、彼女の未練は確かに俺の中に根を下ろした。この街に満ちる無数の溜息が、世界を軋ませる不協和音の源なのだと、俺は肌で知っていた。そして、その不協和音は日増しに強くなっている。空が、まるで巨大な楽器の弦が切れる前触れのように、低く呻いていた。

第二章 響鳴石が示す場所

「まただ。今度は西区画よ」

古文書の山に埋もれたユナが、埃っぽい声で言った。彼女は、この世界の歪みの根源を探る数少ない研究者だった。俺の能力を知りながら、気味悪がらずに協力してくれる唯一の人間でもある。彼女の仕事場である古い時計塔の窓から外を見下ろすと、西の空が陽炎のように揺らめいているのが見えた。時間がそこだけ、粘菌のようにゆっくりと這っているのだ。

「伝説の調律師。彼が世界を『和音(ハーモニー)』で満たした時代があった。でも、その最後の調律以降、世界は少しずつ不協和音に蝕まれているの」

ユナは一枚の羊皮紙を指差す。そこには、一人の男が天を仰ぐ姿が描かれていた。

「不協和音の根源は、調律師が遺した『何か』にあるはず。彼の記憶に触れることができれば……」

言いかけて、ユナは俺の首元のペンダントに目をやった。響鳴石。伝説の調律師が使っていたとされる遺物。それは今、微かな光を帯び、街の中心にある巨大な廃墟――「沈黙の聖堂」の方角を静かに示していた。

「行かなければならないのか」

呟きは、誰に言うでもなかった。

ユナが俺の肩にそっと手を置く。その温もりが、他者の後悔で冷え切った心に小さく染みた。

「一人じゃないわ、レイ」

第三章 沈黙の聖堂

沈黙の聖堂は、音という概念が死に絶えた場所だった。足音すら分厚い埃に吸い込まれ、自分の心臓の鼓動だけがやけに大きく響く。かつて、ここで伝説の調律師が世界を救うための最後の「調律」を行ったと伝えられている。

中央祭壇に辿り着いた時、俺のペンダントが熱を帯びて強く輝き始めた。空気が震える。目には見えないが、ここには濃密な何かが残留している。それは、遥かな時を超えて、今もなお吐き出され続けている、一つの巨大な溜息だった。

「これか……」

覚悟を決める。ユナが心配そうに見守る中、俺はゆっくりと、その見えない息を吸い込んだ。

途端に、世界が反転した。

嵐のような轟音。天と地が混ざり合う混沌。その中心に、一人の男が立っていた。伝説の調律師。彼の顔は判然としないが、その背中からは悲壮な決意が滲み出ていた。彼は世界を蝕む巨大な不協和音を鎮めるため、たった一人で対峙していたのだ。彼の手に握られた響鳴石が、俺のものと共鳴するように激しく明滅する。しかし、記憶の最も重要な部分には、深い霧がかかっていた。何かが、意図的に隠されている。

第四章 英雄の後悔

記憶の奔流の中で、俺は調律師の絶望と共鳴した。響鳴石が悲鳴を上げるように濁った光を放ち、俺がこれまでに背負ってきた無数の後悔が暴れ出す。老婆の未練、少年の罪悪感、母親の悲しみが混ざり合い、俺の精神を内側から引き裂こうとする。

「レイ! 戻ってきて!」

ユナの叫び声が、遠雷のように聞こえた。その声を手繰り寄せるように、俺は必死で意識を保つ。そして、ついに霧の奥深く、調律師が隠したかった核心に触れてしまった。

そこには、美しい旋律を奏でるように微笑む一人の女性がいた。彼女こそが、調律師の世界そのものであり、彼の「和音」の源だった。

しかし、不協和音はあまりに強大だった。世界を救うには、それと同等の力を持つ「調律の核」が必要だった。調律師が下した決断は――。

愛する彼女自身を、不協和音を封じ込めるための人柱とすること。

彼の「調律」とは、救済ではなかった。それは、最も大切なものを犠牲にするという、永遠に許されざる罪。彼女の悲鳴は音にならず、世界を救うための美しい和音へと変換された。その瞬間、世界は平穏を取り戻し、同時に、彼の魂は永遠の後悔によって砕け散った。

世界を蝕む不協和音の正体。それは、英雄が犯した罪の記憶。愛する者を犠牲にした、その果てなき後悔そのものだったのだ。

第五章 世界のためのレクイエム

真実の重みに、俺の膝が折れた。これが、英雄の秘密。世界が成り立つ土台の下には、一人の女性の犠牲と、一人の男の永遠の後悔が埋められていた。

「どうすれば……」

俺の震える声に、ユナは答えられない。

だが、俺にはわかっていた。この後悔を終わらせる方法は一つしかない。調律師が彼女を犠牲にしたように、今度は俺が、彼の後悔そのものを引き受けるのだ。彼の罪も、彼女の悲しみも、その全てを俺という器に封じ込める。

「駄目よ、レイ! そんなことをしたら、あなた自身が……!」

ユナが俺の腕を掴む。その必死な瞳に、初めて俺自身の感情が映った気がした。

「ありがとう、ユナ」

俺は彼女の手をそっと振りほどき、祭壇の中心に立った。

そして、最後の息を吸い込む。伝説の調律師が遺した、千年の後悔のすべてを。

全身が内側から灼かれるような激痛。しかし、それと同時に、不思議なほどの静けさが訪れた。砕け散った調律師の魂が、犠牲になった女性の魂が、俺の中でようやく一つになり、鎮魂歌(レクイエム)を奏で始めた。

俺の身体が淡い光の粒子となって崩れていく。窓の外を見ると、歪んでいた街の景色が元の姿を取り戻し、空には澄み切った青が広がっていた。世界から、不協和音が消えた。

第六章 息吹は巡る

光が完全に消え去った後、沈黙の聖堂には誰もいなかった。ただ、冷たい石の床に、響鳴石のペンダントだけが一つ、ころりと転がっていた。

世界は、かつての「和音」を取り戻した。人々は空の歪みが消えたことを喜び、奇跡だと噂したが、そこにレイという青年がいたことなど、誰も憶えてはいなかった。やがて、その奇跡さえ日常の中に埋もれていった。

ユナだけが、すべてを覚えていた。彼女は聖堂でペンダントを拾い上げ、固く胸に抱いた。石はもう熱を帯びることも、光ることもなかったが、その奥底に、静かで、しかし途方もなく深い哀しみが宿っているのを感じた。

歳月が流れた。

平穏を取り戻した世界に、いつしか再び、微かな不協和音の兆しが現れ始めた。人々は不安げに空を見上げ、古びた伝説を口にするようになる。

――世界の和音が乱れる時、新たな「調律師」が現れ、その身を犠牲に世界を救うのだ、と。

そして、どこかの街角で、他者の溜息に顔をしかめる孤独な若者が、生まれ落ちるのかもしれない。

救済は呪いとなり、息吹は巡る。それこそが、この世界が奏で続ける、永遠のレクイエムだった。

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