第一章 不協和音の世界と無音の君
柏木律(かしわぎ りつ)の世界は、常に音で満ち溢れていた。それは、街の喧騒や自然の囁きといった、誰もが耳にする音ではない。彼にだけ聞こえる、人々の感情が奏でる音だ。
喜びは、澄んだトライアングルのように軽やかに響く。悲しみは、チェロの低音が胸の奥を抉るように鳴り響き、怒りは、歪んだエレキギターが掻き鳴らす不協和音となって鼓膜を突き刺す。嘘や欺瞞は、爪で黒板を引っ掻くような、生理的な嫌悪感を伴う軋み音を立てた。この「能力」がいつから始まったのか、律は覚えていない。物心ついた頃には、世界は感情のオーケストラで、彼はその不本意な指揮者だった。
満員電車は、無数の感情が入り乱れる地獄のシンフォニーだ。焦燥、嫉妬、倦怠、わずかな期待。それらが混ざり合い、一つの巨大なノイズとなって律を苛む。彼は常にノイズキャンセリング機能のついた高級ヘッドフォンをつけ、外界の音と「内なる音」の両方を遮断することで、かろうじて正気を保っていた。他人は、彼のことをただの音楽好きなクールな青年だと思っている。その実、彼の内面は絶え間ない騒音に疲弊しきっていた。
だから、律は人と深く関わることを避けてきた。誰かを好きになれば、その人の感情の音が四六時中、彼の世界で鳴り響くことになる。それは甘美であると同時に、恐ろしいことでもあった。相手の些細な感情の揺らぎさえも、拡大されたスピーカーのように彼の心を揺さぶるだろう。そんな関係は、きっとすぐに破綻する。
その日も、律は大学の図書館の片隅で、分厚い専門書を盾にするようにして、周囲から流れ込んでくる感情の濁流に耐えていた。ヘッドフォンをしていても、完全に遮断することはできない。すぐ近くの席の女子学生グループから漏れ聞こえる、恋愛話に付随するキラキラとしたベルの音や、ちりちりと焦げるような嫉妬の音が、彼の集中力を削いでいく。
うんざりして席を立とうとした、その時だった。
ふと、世界から一切の音が消えた。
いや、違う。図書館の空調の音や、遠くで誰かがページをめくる音は聞こえる。消えたのは、あれほど彼の頭を掻き乱していた「感情の音」だけだった。まるで、嵐が過ぎ去った後の凪のように、絶対的な静寂が訪れたのだ。生まれて初めて体験する、心の静けさだった。
律は驚いて顔を上げた。視線の先、書架の間から、一人の女性が姿を現した。黒髪を静かに揺らし、真っ直ぐな瞳で本を探している。派手さはないが、凛とした空気を纏っていた。彼女が律の近くを通り過ぎ、数メートル先の席に腰を下ろす。
彼女がそこにいる間、律の世界は完璧な静寂に包まれたままだった。彼女からは、何の音もしない。喜びも、悲しみも、退屈さえも。まるで感情というものが存在しないかのように、彼女の周りだけが、無音の真空地帯になっていた。
律はヘッドフォンを外し、生まれて初めて、ありのままの耳で世界の音を聞いた。聞こえるのは、穏やかな環境音だけ。彼は、その女性から目が離せなくなった。彼女は誰だ? なぜ、彼女からは何の音もしないのだろう? それは、律の二十数年の人生において、初めて抱いた強烈な好奇心であり、日常を根底から覆す、謎めいた出会いだった。
第二章 静寂という名の安らぎ
彼女の名前は、水瀬静(みなせ しずか)といった。同じ学部の、しかしこれまで一度も話したことのない学生だった。あの日以来、律は無意識に彼女の姿を図書館で探すようになっていた。そして、彼女を見つけるたび、彼の世界には奇跡のような静寂が訪れた。
彼女の周りは、まるで結界が張られているかのようだった。どんなに騒がしい感情のノイズも、彼女の数メートル以内に近づくと、すうっと霧散してしまう。律にとって、彼女の存在そのものが、最高のノイズキャンセリングだった。
勇気を出して話しかけてみると、静は見た目通りの穏やかな女性だった。声は柔らかく、物腰も丁寧だ。感情の起伏が乏しいのか、大げさに笑ったり、驚いたりすることはなかったが、律の話に静かに耳を傾け、時折、的確な相槌を打ってくれる。その落ち着いた雰囲気が、律には心地よかった。
「柏木くんは、いつもヘッドフォンをしているわね。音楽が好きなの?」
ある日、図書館の閉館間際に二人で並んで歩いていると、静が問いかけた。
「……ああ、まあね。集中できるから」
嘘ではないが、本当の理由ではない。罪悪感から、微かな軋み音が自分の内側で鳴った気がした。しかし、静が隣にいるせいか、その音はすぐに消えていった。
「そう。私は、静かなのが好き。音が多すぎると、少し疲れてしまうから」
その言葉に、律は胸を突かれた。まるで自分のことを見透かされているような気がしたからだ。もしかしたら、彼女も自分と同じような能力を持っているのではないか。そして、自ら音を遮断する術を心得ているのではないか。そんな考えが頭をよぎったが、確かめる術はなかった。
二人は、次第に多くの時間を共に過ごすようになった。一緒に講義を受け、昼食をとり、時には街を散歩した。騒がしい人混みの中を歩いても、静が隣にいれば、律の世界は穏やかだった。彼は生まれて初めて、人混みを苦痛だと思わずに歩くことができた。ヘッドフォンを外して、街の本当の音と、静の穏やかな声だけを聞く時間は、律にとって何物にも代えがたい安らぎだった。
彼は、静に惹かれていく自分をはっきりと自覚していた。彼女の、感情を表に出さないミステリアスな部分さえも、彼には魅力的に映った。感情の音に振り回されてきた律にとって、感情を読めないことは、むしろ対等な関係を築ける証のように思えたのだ。
ある雨の日、二人は小さなカフェで雨宿りをしていた。窓ガラスを叩く雨音だけが、店内に響いている。律は、熱いコーヒーカップを両手で包み込みながら、決心した。この心地よい関係を、一歩先へ進めたい。そして、そのためには、自分の秘密を打ち明けるべきだ、と。
「水瀬さん」
律が切り出すと、静は静かに顔を上げた。その黒い瞳が、真っ直ぐに彼を見つめている。
「俺、君に話さなきゃいけないことがあるんだ」
律の心臓が、早鐘を打ち始める。緊張と期待が入り混じった、複雑な和音が彼の内側で鳴り響く。しかし、不思議なことに、その音はすぐに和らぎ、静けさへと溶けていった。まるで、彼女がその音を吸い取ってくれているかのように。そうだ、きっと彼女なら、この途方もない秘密を理解してくれるに違いない。律は、そう信じていた。
第三章 吸収された感情
「俺には、人の感情が音として聞こえるんだ」
律は、途切れ途切れに、自分の秘密を語り始めた。満員電車で聞こえる不協和音のこと。ヘッドフォンなしでは生きていけなかったこと。そして、彼女と出会って初めて、世界に静寂があることを知ったこと。
「君の周りだけは、いつも静かなんだ。何の音もしない。だから……君と一緒にいると、すごく安心する。俺は、そんな君に惹かれている」
告白は、彼のすべてをさらけ出す行為だった。静は、驚いたように少しだけ目を見開いたが、すぐにいつもの穏やかな表情に戻り、黙って彼の話を聞いていた。沈黙が、雨音に溶けていく。律は、彼女の反応を固唾をのんで見守った。拒絶されるだろうか。それとも、気味悪がられるだろうか。
長い沈黙の後、静はゆっくりと口を開いた。
「……そうだったのね。私が、無音だったから」
その声には、律が今まで感じたことのない、微かな哀しみの響きが混じっていた。いや、違う。それは音ではない。雰囲気、とでも言うべきものだった。
「柏木くん。あなたが聞こえなかったのは、私の感情の音じゃないわ」
彼女は、テーブルの上で組んでいた自分の指を、ぎゅっと握りしめた。
「あなたが聞こえなかったのは……あなた自身の、感情の音よ」
律は、彼女が何を言っているのか理解できなかった。自分の感情の音?
「どういう、こと……?」
「私にも、うまく説明できないの。でも、たぶん、私には……あなたの感情の音を『吸収』する力があるんだと思う」
衝撃的な言葉だった。律は、思考が停止するのを感じた。吸収する?
「私があなたのそばにいた時、あなたが感じていた『静寂』は、私があなたの感情のノイズを、無意識に吸い取っていたからなの。あなたが感じていた『安らぎ』は、あなたの感情が、私の中に流れ込んで消えていたからなのよ」
静の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。律は、彼女が泣くのを初めて見た。
「ごめんなさい。私も知らなかった。でも、あなたといると、私の空っぽだった世界が、色々な音で満たされていくような気がして……心地よかった。あなたの喜びも、悩みも、全部が私の中に流れ込んできて、私が『生きている』って、教えてくれるような気がしたの」
律は、頭を殴られたような衝撃を受けていた。
安らぎだと思っていたものは、感情の喪失だったのか? 彼女が与えてくれていた静寂は、彼自身の感情を奪い去った結果だったのか? 彼女に惹かれたのは、彼女が彼から感情を吸い取ってくれるからだったのか?
では、彼女が彼に惹かれたのは? 彼の豊かな感情を「糧」にできるから?
歪んだ共依存の形が、目の前に突きつけられる。律の世界が、ぐらりと揺らいだ。彼が彼女に感じていた愛情は、本物だったのだろうか。それとも、ただの能力に引き寄せられただけの、かりそめの感情だったのだろうか。
彼は、自分の心が分からなくなった。雨音さえも聞こえない、完全な真空の中で、律はただ茫然と、涙を流す静を見つめることしかできなかった。
第四章 ふたりで奏でる和音
あの日以来、律は静を避けるようになった。彼女の言葉が、彼の心を深くかき乱し続けていたからだ。一人に戻った律の世界には、再び耐えがたい感情のノイズが溢れかえった。ヘッドフォンのボリュームを最大にしても、人々の苛立ちや悲しみ、虚ろな喜びの音が、隙間から侵入してきて彼を苛んだ。
しかし、以前とは何かが違っていた。
以前はただの騒音でしかなかった感情の音の中に、彼は別の響きを聞き取るようになっていた。恋人と笑い合う女性の、弾けるようなピアノのアルペジオ。締め切りに追われるサラリーマンの、切迫したドラムのビート。亡くしたペットを思う老人の、すすり泣くようなヴァイオリンの旋律。
それらは確かに不協和音だったが、同時に、人々が懸命に「生きている」証でもあった。感情があるからこそ、人は笑い、泣き、怒り、そして愛する。律は、自分が今まで、その「生の実感」から目を背け、ただ拒絶してきたことに気づいた。静が与えてくれた静寂は、苦痛を取り除くと同時に、生きることの豊かさからも彼を遠ざけていたのだ。
そして彼は、最も大切なことを思い出した。静が吸収していたのは、彼の苦痛だけではなかった。彼女に惹かれていく高揚感、共に過ごす時間の愛おしさ、彼女の笑顔を見たときの温かい喜び。それらのポジティブな感情の音もまた、彼女の中に流れ込んでいたはずだ。彼が感じていたのは、一方的な安らぎではなかった。それは、紛れもない「分かち合い」だったのだ。
律は走り出していた。静にもう一度会って、伝えなければならない。
彼は、最初に彼女と出会った図書館へと向かった。書架の間に、静はいた。以前よりも少しだけ、寂しそうな影を背負って。律が近づくと、彼女は驚いて顔を上げた。
「柏木、くん……」
彼女の周りに、静寂が訪れる。しかし、今の律には、その静寂が恐ろしくなかった。
「水瀬さん。俺、間違ってた」
律は、息を切らしながら言った。
「君が俺の感情を吸い取ってしまうとしても、それでもいい。いや、それがいいんだ。俺の喜びも、悲しみも、怒りも、全部君と分かち合いたい。俺の感情の音で、君の世界を満たしてほしい。そして、君が感じることも、俺に教えてほしい。音にならなくても、言葉にしてくれればいい。そうやって、二人で一つの音楽を作っていきたいんだ」
律の言葉は、彼の内側から湧き上がる、混じり気のない純粋な感情だった。それは、力強く、そして優しい、壮大なオーケストラのような響きを伴っていた。
静は、目を見開いて彼を見つめていた。そして、その瞳から再び大粒の涙がこぼれ落ちた。しかし、それはもう哀しみの涙ではなかった。
彼女が、ふわりと微笑む。
その瞬間、律は聞いた。
彼の世界に、生まれて初めて、一つの新しい音が響き渡ったのを。
それは、これまでに聞いたどんな音とも違っていた。温かく、柔らかく、幾重にも重なった弦楽器が奏でる、完璧なハーモニー。それは、律自身の溢れるような愛情と、それを受け止めた静の喜びが共鳴して生まれた、奇跡のような和音だった。
静寂は、破られた。しかし、それは不協和音の始まりではなかった。
二人の世界が初めて重なり合い、新しい交響曲の、最初の音が奏でられた瞬間だった。律は、静の手をそっと握った。これから二人がどんな音楽を奏でていくのか、まだ誰にも分からない。けれど、それはきっと、世界で最も美しく、感動的なメロディになるだろう。律は、確信していた。二人のシンフォニアは、今、始まったばかりなのだから。