忘却のプロメテウス
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忘却のプロメテウス

第一章 逆さまの雨と傷の地図

満月が近い。その予兆は、アスファルトを濡らすことなく空へと昇っていく雨粒となって現れていた。人々は慣れた様子で傘を逆さに差し、空に溜まっていく水たまりを見上げては、またひとつ季節が巡るのだとぼんやり考えている。僕、カイの腕にもまた、新たな予兆が刻まれていた。

それは痛みも出血も伴わない、ただ皮膚の下に滲むインクのような不鮮明な文様。誰かが忘れた記憶の化石だ。昨夜まではなかったその傷は、おそらく街角の老人が失くした、幼い頃に口ずさんだ子守唄の旋律。その隣には、恋に破れた少女が捨てた、初デートの甘い記憶の断片が、複雑な幾何学模様となって絡みついている。

僕の身体は、世界からこぼれ落ちた記憶を拾い集める、呪われた器だった。首筋から足首まで、全身を覆い尽くさんとするこの『傷の地図』を、僕は誰にも見せたことがない。長袖のシャツで隠し、人との深い関わりを避け、ただ息を潜めるように生きてきた。

街に出ると、世界の法則はさらに気まぐれな貌を見せる。街灯の光は色を失い、代わりに鉄が錆びるような低い音を立てていた。すれ違う人々の言葉は意味の羅列を離れ、まるで風鈴のように涼やかな音色となって砕け散る。人々はそれを「月の戯れ」と呼び、ひとときの不便として受け入れている。だが僕は知っている。これは戯れなどではない。世界が、何か大切なものを忘れてしまったことへの悲鳴なのだ。そしてその悲鳴は、僕の皮膚を静かに苛んでいた。

第二章 月の観測者と光の粒子

満月に近づくにつれ、僕の身体から微かな光の粒子が漏れ出すようになった。服の隙間から蛍のように舞い、すぐに消えてしまうそれを、僕は必死に押さえつけようとした。この呪いが、ついに目に見える形で溢れ出そうとしている。恐怖が背筋を冷たく濡らした。

「その光、見せてもらえませんか」

背後からかけられた声に、心臓が凍りついた。振り返ると、そこには古びた観測塔の階段で、一人の女性が立っていた。彼女はルナと名乗った。夜空の色の瞳を持つ、この世界の歪みを記録し続ける天文学者だという。

「怖がらないで。あなたを傷つけたりはしない」

彼女の穏やかな声に、僕は警戒を解くことができなかった。だが、ルナは僕の身体を指差すのではなく、彼女が抱える分厚い古文書の一葉を指差していた。そこには、全身に文様を宿した人物が、光を放つ姿が描かれていた。

「私の祖父が残した記録です。『世界が約束を忘れる時、その記憶は一人の器に集められ、傷となる。傷は月が満ちる時、救済の光を放つ』と」

救済、という言葉が僕にはひどく場違いに聞こえた。これは呪いだ。孤独の烙印だ。しかしルナは、僕の否定を意に介さず、そっと手のひらを差し出した。

「その光を集めてみてください。きっと、何かがわかるはずです」

彼女の真摯な瞳に抗えず、僕は生まれて初めて、この忌まわしい傷から溢れる光を意識的に手繰り寄せた。粒子は掌の上で渦を巻き、やがてひとつの形を成した。それは、何の装飾もない、ただ光だけを内に閉じ込めた『空っぽの護符』だった。

第三章 幻視のプロローグ

僕がその光の護符に指で触れた瞬間、それは脈打つように眩い光を放った。光は部屋中に広がり、壁に、天井に、そしてルナの驚きに見開かれた瞳に、僕の知らない風景を映し出した。

黄金の光に満たされた世界。人々が笑い合い、手を取り合っている。空には月と太陽が共に浮かび、穏やかな法則が世界を支配していた。そして、聞こえてきたのは無数の声。それは誓いの言葉だった。

『我らは忘れない。互いの存在を』

『我らは忘れない。この世界を編み上げた法則を』

『この約束が続く限り、世界は永遠に安寧であれ』

幻視は一瞬で消え、部屋には沈黙だけが残された。ルナは息を呑み、震える声で呟いた。

「……最初の約束」

彼女が古文書から得た仮説は、確信へと変わっていた。この世界が不安定なのは、この根源的な『約束』が忘れ去られたからだ。そして、僕の身体に刻まれた無数の傷こそが、その失われた約束の破片だったのだ。

「君は呪われているんじゃない。世界そのものの記憶を、たった一人で背負っているんだ」

ルナの言葉は、僕の心の奥深くに突き刺さった。呪いだと思っていたものは、世界を救う鍵なのかもしれない。初めて、この身体に宿る文様に、呪い以外の意味を見出した瞬間だった。僕らは顔を見合わせ、固く頷いた。この謎を、世界の崩壊が始まる前に解き明かさなければならない。

第四章 月が堕ちる夜

そして、満月の夜が来た。

世界の法則は、完全に反転した。重力は牙を剥き、人々を、建物を、街の全てを容赦なく漆黒の空へと引きずり込んでいく。時間は狂ったように逆行を始め、目の前の光景が巻き戻っては再生される、悪夢のようなループに陥った。悲鳴は音にならず、絶望の色だけが虚空に飛び散っている。

その混沌の只中で、僕の身体は内側から燃えるように輝き始めた。全身の傷が共鳴し、僕の意識は膨大な記憶の奔流に飲み込まれた。それは、もはや単なる断片ではなかった。『最初の約束』が交わされた瞬間から、それが少しずつ忘れ去られ、世界が歪み始めるまでの、悲しい年代記の全てだった。

月は、世界の悲鳴ではなかった。失われた約束を必死に思い出させようとする、世界の記憶装置そのものだったのだ。満ちるたびに記憶を揺さぶり、法則を逆転させることで、忘却した者たちに警告を発していた。しかし、忘却はあまりに深く、もはや警告では意味をなさなくなっていた。

奔流の底で、僕は知った。世界を救う、ただ一つの方法を。僕が背負った全ての記憶を世界に還元し、『最初の約束』を再び結び直すこと。そして、その儀式を完遂するための、あまりにも過酷な代償を。

――約束を記憶する最後の者、その存在は、世界から完全に消去される。

「カイ! 戻ってきて!」

ルナの叫びが、僕を奔流から引き上げた。意識を取り戻した僕の目には、空に「堕ちて」いく彼女の絶望的な表情が映っていた。僕は、悲壮な決意を胸に、彼女に向かって微笑んだ。

第五章 約束を編み直す者

崩壊していく世界の中、僕は観測塔の頂上へと駆け上がった。吹き荒れる逆さまの風が、身体を空へと持ち上げようとする。

「行かないで、カイ!」

瓦礫にしがみつきながら叫ぶルナに、僕は振り返って言った。

「大丈夫。また会える。君のことは、絶対に忘れないから」

それは、僕がつける、最初で最後の優しい嘘だった。忘れられるのは、僕の方なのだから。

塔の頂上に立ち、僕は胸元で淡く光る『空っぽの護符』を強く握りしめた。そして、それを自らの胸の中心に押し当てる。

「思い出せ、世界。お前が始まった日の、最初の誓いを!」

僕の叫びは、反転した法則の中で音にはならなかった。しかし、それは魂の絶叫だった。

全身の傷が、僕の意志に応えるように一斉に輝きを放つ。文様は皮膚から剥がれるように浮かび上がり、光の糸となって胸の護符へと吸い込まれていった。それは、僕がこれまで背負ってきた無数の孤独と、誰かの些細な愛の記憶。その全てが、一つの巨大な光の奔流となって、天へと昇っていく。

身体が軽くなる。傷が消え去った皮膚は、生まれたての赤子のように滑らかだった。だが同時に、僕の指先から、足先から、身体そのものが透き通っていくのがわかった。存在が、世界からほどかれていく。

その光は天蓋を突き抜け、全世界を包み込んだ。空に堕ちていた人々が、その光に触れ、心の奥底で眠っていた温かい何かを思い出す。それは、遠い、遠い、魂の約束だった。

第六章 誰のものでもない朝

世界は、穏やかな朝を迎えた。

空から降る雨は大地を潤し、言葉は再び意味を取り戻し、人々はしっかりと地面に足を着けていた。誰もが昨夜の出来事を覚えていない。ただ、天が輝き、世界が生まれ変わったような、不思議な高揚感と安堵感だけが胸に残っていた。それは「月の奇跡」と呼ばれ、長く語り継がれることになる。

ルナは、観測塔の床で目を覚ました。

なぜ自分がここにいるのか、思い出せない。頬を伝う涙の痕を拭いながら、彼女は言いようのない、胸を抉るような喪失感に襲われた。まるで、自分の半身を永遠に失ってしまったかのような感覚。

彼女の足元に、石でできた小さな護符が転がっていた。何の模様も刻まれていない、ただの石ころだ。けれど、なぜかそれがひどく愛おしく、大切なもののように思えて、彼女は無意識にそれを拾い上げた。

ルナは窓の外を見た。空には、昨夜の荒々しさが嘘のように、静謐な光を放つ月が白く浮かんでいる。世界は救われたのだと、理屈ではなく魂で理解した。

けれど、誰も知らない。

この美しい世界が、一人の青年の孤独な決断と、その存在そのものを代償として成り立っていることを。

彼の名は忘れられ、その偉業が語られることもない。

世界は回り続ける。彼が編み直した、優しい約束の上で。ただ、彼の不在という名の傷跡だけが、誰の記憶にも残らないまま、この世界のどこかに静かに佇んでいた。

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