***第一章 沈黙の訪れ***
カイが住む谷間の村を、奇妙な病が覆い始めたのは、木々の葉が赤錆色に染まる季節のことだった。それは熱でも痛みでもなく、ただ静かに人の声だけを奪っていく病だった。村人たちは「沈黙病」と呼び、囁き声でその恐怖を語り合った。初めは老いた者から、やがては屈強な若者へ。誰もが表情を失い、生きた人形のようにただ息をするだけの存在へと変わっていく。まるで、世界から音が一つ、また一つと消えていくようだった。
カイには、たった一人の家族である妹のリナがいた。太陽の下で咲く野花のように笑う、快活な少女だった。カイは、彼女の笑い声が聞こえなくなることなど想像もできなかった。だから、リナが朝の食卓で、おはようの言葉を発することなく、ただ戸惑ったように喉に手を当てた時、カイの世界は音を立てて崩れ落ちた。
彼には秘密があった。この村の誰にも明かしたことのない、呪いとも祝福ともつかない力。彼の言葉には、現実を歪める力が宿っていた。「言霊」と呼ばれるその力は、しかし、無償ではなかった。何かを叶えるたびに、代償として大切な記憶が一つ、彼の心から削り取られていくのだ。幼い頃、誤って「雨よ、上がれ」と口にしてしまった日、彼は大好きだった祖母の顔を思い出せなくなった。その恐怖から、カイは自らに沈黙を課し、力を封印してきた。
だが、今は違う。衰弱していくリナの細い腕を握りしめながら、カイは覚悟を決めた。たとえ、この身が空っぽになろうとも、妹の笑顔だけは取り戻さなければならない。彼は震える唇を開き、窓の外で吹き荒れる冷たい風に向かって、最初の言霊を紡いだ。
「リナの熱が、下がる」
その瞬間、カイの脳裏を一つの光景がよぎり、そして霧散した。去年、二人で丘に登り、一番星を見つけた夜の記憶。リナが「お兄ちゃん、あの星、捕まえて」と無邪気に笑った声。その温かい思い出が、指の間をすり抜ける砂のように消え去った。代わりに、リナの額に浮かんでいた汗が引き、苦しげだった呼吸が穏やかになる。力は、確かに発動した。しかし、カイの心には、ぽっかりと穴が空いていた。
***第二章 褪せる思い出の色***
リナを救うため、カイは記憶を捧げ続けた。咳を鎮めるために、リナが初めて焼いてくれた歪な形のクッキーの味を失った。「もう少し眠れるように」と願えば、幼い頃に二人で歌った子守唄のメロディが掻き消えた。彼の心の中にある「リナ」という存在が、日に日に薄く、輪郭のぼやけた水彩画のように色褪せていく。彼は妹の命を繋ぎ止める一方で、自らの手で妹との絆を一つずつ断ち切っていた。その矛盾が、彼の心をじわじわと蝕んでいった。
リナは少しずつ回復の兆しを見せたが、村全体の沈黙は深まるばかりだった。このままでは、たとえリナが助かっても、二人きりの静寂の世界が待っているだけだ。カイは村の長老の元を訪ねた。書庫の奥深くで、埃を被った古文書を調べていた長老は、力なく首を振り、震える指で一枚の羊皮紙を指し示した。
「病の源は、おそらく『忘却の森』の奥深くにある『虚ろな心臓』じゃ。古の言伝えによれば、それは世界の悲しみを吸い込み、代わりに沈黙を吐き出すという…」
忘却の森。足を踏み入れた者は、二度と戻らないと恐れられる禁忌の場所。だが、カイに迷いはなかった。リナを、そして村を救うには、それしか道はない。彼は眠るリナの枕元に、森で摘んだ一輪の白い花を置いた。この花の名前を、彼女との思い出と共に失ってしまったことに気づき、胸が鋭く痛んだ。
森への道は、まるで世界から拒絶されているかのようだった。霧が視界を奪い、音が吸い込まれ、ただ自分の心臓の鼓動だけがやけに大きく響く。カイは道中、何度も言霊を使った。崩れた橋を架けるために、二人で川遊びをした夏の日の記憶を捧げた。道を塞ぐ茨を枯らすために、リナの誕生日に贈った髪飾りの記憶を差し出した。彼の内なる世界は、もうほとんどがらんどうだった。リナという少女が自分の妹であるという事実と、彼女を救わなければならないという強烈な義務感だけが、かろうじて彼を支えていた。
***第三章 虚ろな心臓の告白***
森の最深部、空がぽっかりと円形に開けた場所に、それはあった。だが、カイが想像していたような、巨大な石の心臓ではなかった。そこにあったのは、苔むした巨大な切り株に腰掛け、虚空を見つめる一人の老人だった。彼の周囲だけ、時が止まっているかのような静寂が漂っていた。
「…来たか、若いの」
老人の声は、乾いた葉が擦れ合うようにか細かった。カイは警戒しながらも、尋ねた。
「あなたが『虚ろな心臓』か。村を襲う病はお前の仕業だな」
老人はゆっくりと顔を上げた。その深い皺に刻まれた瞳は、底なしの沼のように昏く、あらゆる光を吸い込んでいた。
「仕業、か。そうかもしれぬな。だが、わしにそんなつもりはなかった」
老人は、途切れ途切れに語り始めた。彼もまた、かつてはカイと同じ言霊使いだったという。遠い昔、彼は不治の病に侵された最愛の妻を救うため、その力を使い続けた。一つ、また一つと、愛する人との思い出を代償にしながら。
「最初は、他愛もない記憶じゃった。共に見た夕焼けの色、交わした言葉。だが、力を使い続けるうち、わしは彼女が好きだった花の名前を忘れ、彼女の得意料理の味を忘れ…そして、ついに彼女の笑い声を忘れた」
老人の声が震える。
「わしは妻を救った。彼女は生き長らえた。だが、わしの心には、もう彼女はいなかった。目の前にいる妻が誰なのか、なぜ自分がこれほど彼女を大切に思うのか、分からなくなった。その『分からなさ』が、耐え難い悲しみとなってわしを苛んだ。だから、願ってしまったのじゃ…この世界から、『悲しみ』という感情そのものが消えてしまえ、と」
それが、すべての過ちの始まりだった。彼の強大すぎる言霊は暴走し、彼自身を核として、人々の感情や活力を吸い上げる「虚ろな心臓」へと変えてしまったのだ。「沈黙病」とは、人々から感情が失われ、生きる気力そのものが削がれていく現象の現れだった。
カイは絶句した。目の前にいるのは、倒すべき邪悪な存在などではなかった。それは、愛の果てに道を踏み外した、哀れな魂。そして何より、力を使い続けた自分の、紛れもない未来の姿だった。リナを救ったとして、その先に待っているのがこの虚無だとしたら、自分の行いに何の意味があるというのか。彼の足元が、ぐらりと揺らいだ。
***第四章 想いだけを残して***
絶望がカイの心を支配した。老人を倒せば、おそらく病は止まるだろう。だが、それは未来の自分を殺すことに等しい。何より、同じ苦しみを味わったこの老人を、断罪することなどできなかった。
「お前も、いずれわしと同じになる」老人は静かに言った。「愛した者を救っても、その愛した記憶すら残らない。残るのは、理由の分からない空虚だけじゃ。それが言霊使いの宿命だ」
カイは俯き、固く拳を握りしめた。脳裏に、輪郭のぼやけた少女の顔が浮かぶ。リナ。その名前を呼ぶと、胸の奥が温かくなる。なぜ温かくなるのか、その理由となる思い出は、もうほとんど残っていない。それでも、この温かさだけは、本物だった。
記憶は失われる。だが、この感情は? この、胸を締め付けるような愛おしさは?
カイは顔を上げた。その瞳には、もはや迷いはなかった。
「俺は、あなたとは違う道を選ぶ」
彼は老人を倒すのではなく、彼を救うことを決めた。それは、自分自身を救うことでもあった。カイは最後の力を振り絞る。これまでとは比べ物にならないほどの、巨大な代償を支払う覚悟で。リナとの思い出の、その全てを捧げる覚悟で。
彼は震える唇で、最後の言霊を紡いだ。それは世界を変えるような大それた言葉ではない。ただ、目の前の孤独な魂に向けた、ささやかな祈りの言葉だった。
「あなたは、もう一人ではない」
言葉が放たれた瞬間、カイの世界から色が抜け落ちていくような感覚に襲われた。リナという妹がいたという事実。彼女と過ごした日々の断片。彼女の笑い声、怒った顔、泣き顔。その全てが、まるで陽炎のように揺らめき、彼の意識から完全に消え去った。彼の内なる世界は、完全な白紙になった。
同時に、老人の身体から黒い霧のようなものが立ち上り、空へと吸い込まれて消えていった。彼の昏い瞳に、数十年ぶりに穏やかな光が宿る。忘却の森に、鳥の声が戻ってきた。
カイが村に戻った時、そこは以前の活気を取り戻していた。人々は笑い、語り合い、沈黙の悪夢から解放されたことを喜び合っていた。村の入り口で、一人の少女が彼に駆け寄ってきた。亜麻色の髪を風になびかせ、心配そうな顔で彼を見上げている。
「お兄ちゃん…!」
カイは、目の前の少女が誰なのか分からなかった。「お兄ちゃん」という呼びかけの意味も。だが、彼女が自分に向かって浮かべた安堵の微笑みを見た瞬間、理由もなく、彼の瞳から大粒の涙が溢れ落ちた。なぜこんなに胸が痛むのか。なぜこんなに、心が温かいのか。分からない。何も思い出せない。でも、この感情だけは、確かにここに在る。
少女――リナは、戸惑うカイの冷たい手を、その小さな両手でそっと包み込んだ。その温もりが、カイの空っぽの心にじんわりと染み渡っていく。
「おかえりなさい」
カイは何も答えられなかった。ただ、涙を流しながら、差し出されたその温かい手を、強く、強く握り返した。記憶は消えた。だが、愛したという想いの残滓だけが、星の光のように、彼の魂の暗闇で瞬いていた。新しい物語は、きっとここから始まるのだ。
言霊使いのレクイエム
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