***第一章 色褪せる織物***
リラの世界は、糸でできていた。彼女の一族「記憶織士」は、人々の思い出を色鮮やかな糸として紡ぎ出し、それを織り込むことで、過去をタペストリーとして保存する。リラはその中でも類稀な才能を持っていた。彼女が織るタペストリーは、触れるだけで笑い声が聞こえ、風に揺れると花の香りがした。それは単なる記録ではなく、魂の宿る芸術だった。
だが、その世界が、静かに色を失い始めていた。
始まりは、乳白色の霧だった。最初は朝靄のように地を這うだけだった霧が、日を追うごとに濃度を増し、今や村全体を永劫の黄昏に閉じ込めている。「忘却の霧」と人々はそれを呼んだ。霧に長く触れた者は、昨日の献立を忘れ、親しい友の名を忘れ、やがて自分の顔さえ思い出せなくなる。
リラの仕事場である工房にも、その影響は現れていた。壁一面に掛けられた、村の歴史を綴る壮大なタペストリーが、まるで日に晒された古着のように、僅かずつ色褪せていくのだ。村の英雄が竜を討った場面の燃えるような赤はくすんだ煉瓦色に、収穫祭で踊る乙女たちの笑顔はぼやけた輪郭になり、そこに込められた歓喜の記憶は、指の間からこぼれる砂のように希薄になっていた。
「また一枚、色が抜けた……」
リラは、祖母の最期の日々を織り込んだ小さな一枚を手に取り、唇を噛んだ。優しかった祖母の微笑みは、もうほとんど見えない。記憶とは、これほどまでにあやふやで、脆いものだったのか。彼女は忘れることを、何よりも恐れていた。失うことは、その人が生きていた証を消し去ることだと信じていたからだ。
その夜、村の長老が、松明の揺れる光と共にリラの工房を訪れた。皺深い顔には、霧よりも濃い憂いが刻まれている。
「リラよ。もう、お前にしか頼れぬことがある」
長老は、工房の中央に鎮座する、一度も使われたことのない巨大な織機を指さした。それは月長石と黒檀でできており、星空の模様が刻まれた、神聖な空気を纏う織機だった。
「あれは『創世の機(はじめのおりき)』。我らの一族に伝わる、禁忌の道具じゃ」
長老の声は、乾いた葉が擦れるように囁かれた。
「この世界を覆う霧は、もはや人の手で払えるものではない。だが、創世の機を使えば、世界の理そのものを織り直すことができる。霧のない、新たな世界を……」
「そんなことが……」
リラの声が震える。だが、長老は重々しく首を横に振った。
「ただし、代償がいる。あの機を動かす糸は、普通の記憶では足りぬ。術者の持つ、最も純粋で、最も大切な、たった一つの記憶……それを光の糸に変え、捧げねばならん」
最も、大切な記憶。
それを捧げるということは、それを永遠に忘れるということだ。
リラの脳裏に、いくつもの光景が浮かんだ。初めて自分の手で織物を完成させた日の達成感。両親に褒められた時の温もり。村の祭りで、友達と夜通し笑い合った記憶。そのどれもが、彼女を形作る骨であり、血肉だった。
世界を救うために、自分の一部を消し去る。そのあまりに過酷な選択に、リラはただ立ち尽くすことしかできなかった。
***第二章 忘却の旅人***
創世の魔法を受け入れることなど、リラにはできなかった。彼女は、記憶を犠牲にしない別の方法が必ずあると信じ、霧の源を絶つための旅に出ることを決意した。最小限の荷物と、道中で色褪せないようにと魔法をかけた数枚の小さな記憶の織物を携え、彼女は夜明け前に静かに村を出た。
霧に覆われた世界は、寂寥とした美しさと、底知れぬ不安に満ちていた。輪郭の曖昧な森を抜け、かつては賑やかだったであろう街の廃墟を通り過ぎる。どの場所も、忘却の霧によって記憶という名の魂を抜かれ、ただの抜け殻として存在していた。リラの心は、旅を続けるほどに重く沈んでいった。
そんな旅の途中で、彼女は一人の青年に出会った。
焚き火のそばで、焦げた木の実を頬張りながら鼻歌を歌っていた彼は、リラを見つけると屈託なく笑った。
「やあ、旅人かい? 俺はカイト。名前以外は、ほとんど全部忘れちまったけどね」
彼の言葉に、リラは息を呑んだ。目の前の青年は、忘却の霧の犠牲者だったのだ。しかし、彼の表情に悲壮感はなかった。むしろ、その瞳は澄んだ空のように明るく、過去の重荷から解放されたかのような軽やかささえ感じさせた。
「何も覚えていないのに、怖くないのですか?」
リラが尋ねると、カイトは不思議そうに首を傾げた。
「怖い? なんで? 昨日何を食べたか忘れても、今日腹は減るだろ。昔誰かに愛されたことを忘れても、目の前の夕焼けが綺麗だってことはわかる。大切なのは、『今』だけさ」
カイトとの旅は、リラの価値観を静かに揺さぶり始めた。彼は、リラが恐れる「忘却」を、まるで古い服を脱ぎ捨てるかのように自然に受け入れていた。彼は自分の過去を知らない。だからこそ、出会う人すべてに偏見なく接し、どんな些細な出来事にも新鮮な喜びを見出すことができた。
ある日、二人は湖のほとりで休息していた。水面は霧で白く煙り、幻想的な光景を作り出している。
「リラは、どうしてそんなに記憶にこだわるんだ?」
カイトの純粋な問いに、リラは言葉に詰まった。
「……だって、記憶がなければ、私が私でなくなってしまうから。積み重ねてきた時間が、私を作っているのだから」
「ふうん」とカイトは相槌を打ち、湖に小石を投げた。「でもさ、川の水は絶えず流れてるけど、ずっと同じ川だろ? 俺たちも、そんなもんじゃないのか? 記憶なんて、流れていく水みたいなもんでさ」
その言葉は、リラの心に小さな波紋を広げた。カイトと一緒にいると、忘れることへの恐怖が少しだけ和らぐ気がした。彼の隣で見る星空はいつもより輝いて見え、彼が分けてくれる不格好な焼き魚は、どんなご馳走よりも美味しく感じた。リラは気づかぬうちに、彼との「今」という記憶を、何よりも大切に思うようになっていた。そして、それは同時に、いつかこの記憶すら失うかもしれないという新たな恐怖を生み出していた。
***第三章 時の祭壇***
旅の果てに、リラとカイトは世界の中心に聳え立つという「時の祭壇」に辿り着いた。古代の知識が眠るとされるその場所ならば、霧を晴らす別の方法が見つかるかもしれない。リラの最後の希望だった。
霧の切れ間から現れた祭壇は、巨大な水晶の結晶体でできており、内部から淡い光を放っていた。二人が恐る恐る足を踏み入れると、壁面が星空のように瞬き、無数の光の糸が万華鏡のように乱舞する、荘厳な空間が広がっていた。
祭壇の中心には、一冊の古びた本が置かれていた。それは、リラの一族の始祖が記した日誌だった。リラがそれに触れた瞬間、始祖の記憶が奔流となって彼女の精神に流れ込んできた。
そこでリラが目にしたのは、驚愕の真実だった。
この世界は、もともと存在しなかった。かつて、始祖が生きていた世界は、虚無によって全てが終わりを迎えようとしていた。絶望した始祖は、自らの持つ最も幸福だった記憶――愛する者と過ごした穏やかな日々の全て――を代償に、「創世の魔法」を発動させた。
この世界そのものが、始祖の記憶から生み出された、一枚の巨大なタペストリーだったのだ。
そして、世界を覆う「忘却の霧」は、呪いなどではなかった。それは、織り手である始祖の記憶が、永い時の流れの中で自然に薄れ、風化していく過程にすぎなかった。世界の、避けられぬ寿命。それが霧の正体だった。
リラは愕然として、隣に立つカイトを見た。彼は、祭壇の光を浴びながら、不思議そうに自分の掌を見つめている。
日誌の最後のページに、答えは記されていた。
始祖は、幸福な記憶を捧げる際、あまりの辛さに一つの願いを込めたという。『この苦しみと引き換えに、どうか過去に縛られず、ただ「今」を笑って生きる存在を、この新しい世界に生み出したまえ』と。
カイト。彼の正体は、始祖が世界を創るために「忘れた」幸福な記憶そのものだった。始祖が捨てた思い出の断片が、奇跡的に人格を得て生まれた、過去を持たない存在。彼がいつも明るく、今を謳歌して生きていたのは、彼自身が「幸福だった記憶」の化身だからだ。
世界を救う方法は、やはり一つしかない。
新たな記憶織士が、自らの最も大切な記憶を捧げ、この色褪せかけた世界のタペストリーを上から織り直し、補強すること。
それは、リラがこの旅で得た、カイトと共に過ごしたかけがえのない記憶を捧げることを意味していた。そして、それは同時に、記憶の化身であるカイトという存在そのものを、この世界から完全に消し去ることでもあった。
絶望が、リラの心を砕いた。愛する人をその手で消し、その記憶さえも失わなければ、世界は救えない。こんなに残酷な選択があるだろうか。
「どうしたんだ、リラ? 顔色が悪いぞ」
何も知らないカイトが、心配そうに彼女の顔を覗き込む。その優しい笑顔が、リラの胸を鋭く貫いた。
***第四章 君の名を忘れても***
時の祭壇の中心で、リラは静かに涙を流していた。隣には、何も知らずに彼女を気遣うカイトがいる。この温もりも、この声も、もうすぐ永遠に失われる。そして自分は、その喪失感さえも忘れてしまうのだ。
「カイト」
リラは、彼の名を呼んだ。愛おしさを込めて、一音一音を確かめるように。
「俺の名前、覚えててくれたんだな」
彼は嬉しそうに笑う。その笑顔を、瞳の奥に焼き付けたかった。だが、それすらも叶わない。
「ねえ、もし私が、君のことを忘れちゃったら……どうする?」
震える声で尋ねると、カイトは少し考え、そしていつものように軽やかに言った。
「そしたら、また自己紹介するだけさ。『はじめまして、俺はカイト』って。何度でも友達になろう」
その言葉が、リラの最後の迷いを断ち切った。
彼女は、村から持ってきた創世の機を起動させるための小さな織機を祭壇の中央に据えた。そして、カイトに向き直る。
「最後に、一つだけお願いがあるの。あなたのことを、もっと教えて」
カイトは少し照れながら、自分のこと――といっても、彼が覚えているのはこの旅の記憶だけだ――を語り始めた。リラが作ったスープが美味しかったこと、二人で見た流星群が綺麗だったこと、彼女が時折見せる寂しそうな顔が気になっていたこと。
リラは、その一つ一つの言葉を、光の糸として紡いでいく。カイトと出会ってからの、短いけれど宝石のような日々。彼の屈託のない笑顔、不器用な優しさ、過去に囚われずに今を生きる強さ。それら全てが、黄金色の温かい光を放つ、極上の糸になっていく。
「ありがとう、カイト。君と出会えて、よかった」
リラがそう言うと、紡がれた光の糸は自ら織機にかかり、目も眩むような速度で織り込まれ始めた。
カイトの身体が、足元からゆっくりと透き通っていく。彼は驚いたように自分の手を見つめたが、やがて全てを悟ったように、穏やかに微笑んだ。
「そっか……そういうことか。なあ、リラ。忘れてもいいさ。でも、あんたが笑ってくれるなら、俺は……」
彼の言葉は、光の粒子となって霧散し、最後まで聞こえることはなかった。
リラの意識が、真っ白な光に包まれる。彼女が捧げた記憶は、世界を完全に作り変える魔法ではなかった。彼女が織り込んだのは、新たな願い。『忘却と共に、それでも強く生きていけるように』。失うことを嘆くのではなく、今あるものを愛し、新たな記憶を紡いでいく力を、世界に与えるための魔法だった。
気がつくと、リラは祭壇の外の草原に一人で立っていた。
世界を覆っていた濃い霧は、少しだけ薄れている。完全には晴れていない。人々はこれからも、少しずつ記憶を失いながら生きていくのだろう。
リラの頬を、一筋の涙が伝った。なぜ泣いているのか、自分でも分からない。胸にぽっかりと穴が空いたような、ひどい喪失感がある。何か、とても大切で、温かいものを失ってしまったという確信だけが、痛みのように燻っていた。
空を見上げると、霧の切れ間から、柔らかな陽の光が差し込んでいた。その光は、なぜかとても懐かしい温もりをしていた。
リラは涙を拭うと、村への道を歩き始めた。忘れてしまった誰かのために、そして、これから出会う誰かのために、新しい記憶の織物を織ろう。彼女はそう決心した。
彼女の心には、名前も顔も思い出せない誰かの、最後の微笑みが、陽だまりのような温かさだけを残して、静かに宿っていた。物語は、まだ終わらない。これから紡がれていくのだ。そう、信じられた。
忘却の糸と創世の織物
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