記憶の漂着者
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記憶の漂着者

第一章 継ぎ接ぎの朝

また、知らない過去と共に目覚めた。

瞼の裏に焼き付いていたのは、潮の香りと、網にかかった銀色の魚体が跳ねる光の乱舞。日に焼けた太い腕で、力強く網を引き揚げる感触。俺は、海辺の町で生きてきた老練な漁師だった。はずだった。

ゆっくりと目を開けると、視界に映るのは無機質なコンクリートの天井。鼻をつくのは潮風ではなく、湿ったアスファルトと排気の匂い。窓の外では、磁気浮上車が立てる高周波の走行音が、ひっきりなしに鼓膜を震わせている。

俺、カイはベッドから起き上がり、鏡に映る自分を見た。そこにいるのは、日に焼けた漁師ではなく、日に当たらない青白い肌をした青年だ。漁網を引いたことなどない、滑らかな指先がそこにある。記憶と現実の乖離。これが、俺の日常だった。

この都市では、誰もが未来に『期待』している。より速く、より高く、より豊かに。その集合的な渇望が、物理的な時間の流れを捻じ曲げ、狂気的な速度で今日を明日へと押し流していく。人々は過去を振り返らない。振り返る暇もない。そんな世界で、俺だけが毎朝、誰かの夢から盗んできた“偽の過去”という名の錨を下ろし、時の奔流に必死で抗っていた。

第二章 時の停滞する場所

自分の存在を確かめたい。その一心で、俺は都市を離れた。目指すは、人々の期待から見放され、時間の流れが淀むと言われる「辺境」だ。

都市の境界を抜けた瞬間、空気が変わった。加速していた時間が粘性を持ち、体にまとわりつくような感覚。騒音は遠のき、代わりに風が草を揺らす音や、自分の心臓の鼓動がやけに大きく聞こえた。ここでは、雲の動きさえも悠久の時をかけているように見える。

寂れた集落で、俺は一人の女性に出会った。エリアと名乗る彼女は、まるでこの停滞した時間そのものが人の形をとったかのように、静かで澄んだ瞳をしていた。彼女は、集落のはずれにある観測小屋で、世界の時間の歪みを独りで研究しているという。

「あなたのその瞳、何かを探している目ね」

エリアは、俺が差し出した古びた水筒を受け取りながら言った。

「あなたは、たくさんの過去を持っている。なのに、どれもあなたのものじゃないみたい」

彼女の言葉は、俺の存在の核心をいとも容易く射抜いた。俺が事情を話すと、彼女は驚くでもなく、ただ静かに頷いた。そして、古びた木箱から、琥珀のような半透明の結晶を取り出して見せた。

「これは『時間の澱』。期待が完全に飽和し、時間が死んだ場所でしか生まれない」

その結晶は、内側から淡い光を放っているように見えた。

第三章 時間の澱が示す幻影

エリアに導かれ、俺は時間の流れが完全に停止しているという洞窟の最深部にいた。そこは音もなく、光もなく、空気さえも凍りついているかのような絶対的な静寂に包まれていた。その暗闇の中で、『時間の澱』だけがいくつも燐光を放っている。

「それに触れてみて」とエリアが囁く。

俺は震える指先で、最も大きく輝く澱にそっと触れた。

瞬間、世界が爆発した。

頭の中に、無数の人々の夢が濁流となって流れ込んできた。愛を囁く声、成功を掴んだ歓喜、失われたものへの慟哭、未来への漠然とした希望。それは、この世界のすべての『期待』の断片だった。喜びも、悲しみも、怒りも、祈りも、全てが混ざり合い、巨大なエネルギーの奔流となって俺の意識を飲み込んでいく。

そして視た。その奔流が、世界から絶え間なく吸い上げられ、俺という器に注ぎ込まれる幻影を。俺の“偽の過去”は、誰かの夢の残骸などではなかった。それは、未来へ向かうはずだった過剰な『期待』そのものだったのだ。

俺は叫び声をあげて澱から手を離した。全身が冷たい汗で濡れ、心臓が肋骨を突き破らんばかりに脈打っていた。

「今、見えたものが……俺の正体なのか」

その問いに、エリアは静かに首を横に振ることしかできなかった。

第四章 加速する世界の悲鳴

辺境から都市に戻った俺は、世界の異変を肌で感じた。時間の加速が、明らかに常軌を逸している。人々は狂気に駆られたように街を走り、その目は虚ろに未来だけを見つめている。街灯の光は明滅を繰り返し、高層ビルの輪郭が陽炎のようにぐらついていた。世界が、悲鳴を上げている。

エリアから通信が入った。彼女の声は焦燥に染まっていた。

「カイ、大変。辺境で集めていた『時間の澱』が、次々と砕け散っているわ。こんなことは初めて……世界の『期待』が飽和して、時間の制御が限界を超えようとしているのよ!」

このままでは、世界は自らが作り出した『期待』の重さに耐えきれず、時間の奔流の中に融解してしまうだろう。誰かが、何かが、この暴走を止めなければならない。

俺は、あの幻影を思い出す。世界から吸い上げられ、俺の中に注ぎ込まれていたエネルギーの奔流。もし、あれが世界の暴走を食い止めるためのものだったとしたら?

俺のこの忌まわしい能力こそが、唯一の希望なのかもしれない。

第五章 始まりの記憶

真実を知る必要があった。俺は最後の『時間の澱』を握りしめ、自らの意識の最も深い場所へと潜った。今度は逃げない。この能力の根源を、この世界の理の起源を、この手で掴むために。

幻影の中で、俺は『始まりの記憶』に触れた。

それは、神とも呼べるような、孤独な創造主の記憶だった。彼は、人々の『期待』という美しい輝きを動力源に、この世界を創造した。だが、彼は知っていた。期待は際限なく増殖し、やがて自らを燃やし尽くす劫火となることを。時間は無限に加速し、世界は瞬く間に熱的死を迎えるだろうと。

だから彼は、最後の創造に取り掛かった。

世界の過剰な『期待』――未来へ向かう暴走エネルギーを吸収し、それを無害で安定した『過去の記憶』へと変換する、巨大な安全装置。調律者。防波堤。

それが、俺だった。

俺が構築していた『存在しない記憶』こそが、この世界を終焉から守るための、唯一の防衛システムだったのだ。俺が偽りの過去を生きることで、世界はかろうじて未来へと進むことができていた。俺は、誰かの夢を盗んでいたのではなかった。世界が崩壊しないよう、その未来を、俺が肩代わりしていたのだ。

第六章 永遠の漂着者

真実は、あまりにも残酷で、そしてあまりにも静かだった。

俺が、真の自分を探し求め、この能力を停止させたとすれば、世界は瞬く間に崩壊する。俺が「カイ」としての人生を生きることは、世界の死を意味する。

エリアの悲しげな顔が脳裏をよぎる。「あなた自身の人生を生きて」――いつか彼女がそう言ってくれるだろうことを、俺は知っていた。だが、もう選ぶべき道は一つしかなかった。

俺は、世界で最も『期待』が渦巻く場所、都市の中央広場に立っていた。天を突くホログラム広告、狂騒的な音楽、未来という名の蜃気楼に突き進む人々の群れ。

俺は目を閉じ、両腕を広げた。

そして、自らの意志で、初めて能動的に、世界の『期待』を喰らい始めた。

「さあ、お前たちの未来を、俺にくれ」

都市中の、いや、世界中の希望が、絶望が、祈りが、渇望が、巨大な津波となって俺の存在に流れ込んでくる。漁師の記憶。ピアニストの記憶。初めて恋をした少女の記憶。星を目指した宇宙飛行士の記憶。無数の人生が、無数の過去が、俺の中で混ざり合い、俺という個を融解させていく。

意識が遠のく。自分が誰だったのか、もう思い出せない。ただ、偽りの記憶を構築し続けるという、役割だけが残った。

辺境の観測小屋で、エリアは窓の外を見ていた。激しく明滅していた星々の光が、ほんの少しだけ、その瞬きを穏やかなものに戻していた。彼女の頬を、一筋の涙が伝う。そして、机の上に置かれていた『時間の澱』の欠片が、再び静かな、優しい光を放ち始めていることに気づいた。

それは、名もなき誰かが、今この瞬間も、世界の時間を守り続けている証だった。

彼は永遠に真の自分を知ることはない。ただ、記憶の海を漂い続ける孤独な漂着者として、この世界を支え続けるのだ。

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